〈25〉香り
緊張から体が強張って、いつもなら息が切れるような距離を走ったわけではないのにどっと疲れた。
兄妹二人、路地裏で脱力していると、そこへガルムが駆け込んできた。でっかいから、ガルムが入ってきたら急に狭くなったが、存在が心強い。
「ガルム!」
わふぅ、と鳴くガルムに抱きついて毛に埋もれたら、少し落ち着いた。丸っこい尻尾を見ているだけで癒される。
「よかった、無事だな?」
ラルフも追いかけてきてくれた。この時はガルムと戯れているオーレリアより、兄の方が礼儀正しかった。
「君はアトウッドの人だね? ありがとう、おかげで助かったよ」
兄は善良な笑みを浮かべ、丁寧に礼を言ったのに、ラルフの方がどこか複雑そうだった。
まだコーベットに思うところがあるのだとしたらしつこい。
オーレリアはガルムの毛に埋もれたままで訊ねる。
「あいつらは撒けたのかい? つけられてないよな?」
「俺はあいつらの前に姿を見せてねぇし、ガルムを追いかけてきただけだ。あいつらガルムが噛みついたから怖くて追いかけられなかったんじゃねぇの?」
兄が、ああ……とつぶやいている。
さすが魔界の門番だ。頼りになる。
「そっか。ありがとな、ガルム」
ついガルムの相手ばかりしていたら、ラルフにポツリと言われた。
「婚約者を助けられてよかったな」
「は?」
オーレリアはやっとガルムからラルフに顔を向けた。そうしたら、ラルフがぎょっとしていた。
「あんた、その顔……」
「顔?」
顔に何かついているのかと思って擦ってみたが、よくわからない。
兄は気づいたようで苦笑していた。
「あ、うん。似ているだろう?」
そういえば、眼鏡を落としてきたのだった。
すっかり忘れていた。もう仕方がない。正直に言おう。
「まあ、兄妹だからな」
「兄妹ぃ?」
素っ頓狂な声を上げられた。見つかるからやめてほしい。
ラルフはオーレリアがコーベットの娘だとは、まったく疑っていなかったらしい。
「アドラムの親父に拾われて育てられたけど、実の親はコーベットの会長夫妻だったんだ。まあ、この顔を見たら信じないわけにいかないもんな」
と、オーレリアは兄の頬を突いた。
「僕たちは母親似なんだよ」
口をあんぐりと開けて目を瞬かせるラルフに、オーレリアは続けて言った。
「だから、コーベットで働いてるってのはちょっと違うんだ。最初っからコーベットを名乗ると話もしてもらえないかと思って。ごめんな」
ラルフは怒っているふうではなかった。ただ驚いている。
「婚約者だから必死で助けようとしてるんだと思った。なんだ、兄貴か……」
そういう勘違いをしていたらしい。オーレリアは思わず笑ってしまった。
「兄さんの婚約者はもっと可憐な美少女だよ。すんごい可愛いんだ」
「あんただって十分可愛いけどな」
サラッと言った。
『可愛い』とは言われ慣れない。コリンはよく褒めてくれるけれど、こんなふうには言わない。
アーヴァインはというと、態度で好意を示してくれるが、こういうことはあまり口にしない。――つまり、言われ慣れなかった。
しかも、ラルフはそういうことを言うタイプだとは思わなかったので油断していた。
暗がりでもわかるくらいには赤面してしまう。
「何言ってんだよ」
オーレリアが照れたのがわかったからか、ラルフは顔の傷を引き攣らせて面白そうに笑った。
「これくらいで照れるとか、やっぱ可愛いな」
「うるさいな!」
そんな二人の間に神妙な兄の声が割って入る。
「オーレリア、静かに。まだ誰が潜んでいるかわからないからね」
「ご、ごめん」
自分の方がうるさくしてしまった。小さく答え、頬の火照りを冷ます。
ラルフはこの時もオーレリアのことを見て笑いを噛み殺していた。
ここで兄はしばらく黙ったかと思うと、ポツリと言った。
「どうして身代金の代わりが『至高の雫』だったのか、そこに意味がある気がする」
と、兄は一人で考えを整理するようにつぶやく。
「最初から、僕に危害を加えるつもりはなかったんじゃないかな。乱暴な扱いは受けていないから」
「兄さん?」
「もし要求されたのが金銭だったとしたら、用意するのに何日もかかっただろう。『至高の雫』ならアトウッドですぐに用意できる。あそこで一番価値のあるのが『至高の雫』だから、身代金の代わりとしては妥当だった……?」
「全っ然意味がわかんないよ」
「僕にもわからないよ。でも、意味がどこかにあるはずなんだ」
真面目な顔をして考え込んでいる兄は知的に見えるが、どうだろう。
オーレリアは頭脳労働が苦手で、そんなオーレリアと同じ両親から生まれてきた兄ではあるけれど。
「兄さん、捕まっている時に何か聞いたのかい?」
「いや、声を潜めて話していたから、特別何かを聞いたわけじゃない。でも――」
「でも?」
「香水の匂いがした」
オーレリアは香水が嫌いだ。
あんまりにもキツイ匂いがすると、つけている人といる時は無意識に息を止めてしまう。香水の匂いの区別はほぼできない。
「うん。甘い女性用の香水の匂いっだった。単なる移り香ではなかったと思うよ」
「監禁場所に女が訪ねてきたって? 差し入れか?」
ラルフがそんなことを言った。
「その匂いがしている時、その場の人たちは緊張している気がしたんだ」
「へぇ。それが親玉かな?」
香水の匂いをさせた女。
そこでふと、組合長のキンブルのことを思い出した。
キンブルが口を滑らせた『彼女』。
そこにも女の影がある。同じ女だろうか。
「アトウッドに戻ったら、ちょっとキンブルさんを問い詰めないとなぁ」
笑顔で言ったつもりだが、ラルフがやや顔を引きつらせていたように見えた。




