〈34〉重たい約束
アーヴァインが支払いをしようとしたので、それをオーレリアが遮って払った。
「ここはあたしの古巣なんだ。あたしが出す」
すると、アーヴァインは少し片眉を上げたけれど、オーレリアの好きなようにさせてくれた。
女将に見送られて外へ出ると、さっそくアーヴァインが口を開きそうな予感がしたので、オーレリアはそれに被せるようにして口早に言う。
「あ、そうだ! あっちの方を散歩しないか? 海がよく見えて綺麗なんだ」
「……わかった」
わかったとは言うものの、顔つきがどことなく険しくなったように見えた。なんだろう、もう下町に飽きたのではないといいが。
とにかく、大事な話をするのに下町の忙しなさは困る。声を上げようものなら首を突っ込んでくるお節介もいるのだ。オーレリアもその口だったかもしれないが。
どうにか人の多いところからアーヴァインを連れ出したい。オーレリアはなだらかな坂を上った先にある岬を目指した。
だが、その岬が見えてきた頃になってアーヴァインが切り出す。
「あの日のことだが――」
「あっ! ほら、海がよく見えるだろ!」
露骨に話を変えてしまった。いつまでもそんなことはしていられないのに。
そうしたら、アーヴァインが嘆息した。
「……お前、わざとはぐらかしてばかりだが、いつまでそうしているつもりだ?」
ギクリ。
アーヴァインが言うように、いつまでもというわけにはいかない。その場しのぎにすらならないのだ。
まず、何から片づければいいのだろう。どう切り出して、どんな話になったとしても、最後に行き着く話は、オーレリアのこの気持ちだ。
それなら、もう、最初からそこへ踏み入るしかないのかもしれない。少なくとも、嫌いならここまで面倒を見てはくれないだろう。
友達思いだから、自分の妹のようにして接してくれているという可能性があるだけで――。
駄目だ。逃げても、自分の気持ちからは逃げられない。
それならせめて一矢報いるしかないのだ。まず、アーヴァインを狼狽えさせて、それで、駄目だとしても、見る目がないなと笑い飛ばしていたい。
深呼吸をすると、オーレリアは岬の手すりのところを指さす。
「あのさ、あたし、親父と喧嘩とかして嫌なことがあるとあそこに立ってたんだ。とにかく、あそこに行こう」
しっかりと目を見た。覚悟は決めた。そうしたら、アーヴァインも納得したようだった。
二人、岬に立つと、やはりここの景色は格別だった。飛び交う海鳥の影が通り過ぎる。
オーレリアはほつれた髪が潮風になびくのを押さえ、アーヴァインに向き直る。今度はオーレリアの方から先に言った。
「実は言っておきたいことがあるんだ」
「うん?」
そこでまた大きく息を吸うと、挑むように、瞬きをせずに続けた。
「あたしが一服盛られた時、薬を飲ませてくれたろ? あの時、あたし、意識があったんだ」
知らないと思っているだろう。でも、本当はちゃんと覚えている。
これを言えばアーヴァインが狼狽えるだろうと思った。そこから優位に話を進められないだろうかという、オーレリアなりの戦略だったのだ。
それなのに、アーヴァインは少しも狼狽えなかった。
「ああ、それで?」
そのひと言の殺傷力といったらない。オーレリアは、意気込んだ分、自分がシュルシュルと萎んでいくのを感じた。
ああ、そうか。人助けだから別に疚しくないのか。一人で意識して馬鹿だったかもしれない。
この手すりを飛び越えて海に向かって逃げたい気持ちになった。
しかし、アーヴァインの言い分は少し違った。
「意識があるのかないのかよくわからなかったが、どちらでもいいと思っていた」
「ああ、そうだよな。人助けだもんな、うん、ありがとう」
喋れば喋るほど上滑りする。虚しくて、心にぽっかりと穴が空いたような気分だった。
人足の一人が彼女にフラれた時、よく知りもしないで、次に行けと軽く笑い飛ばしたことがある。こんなに胸が痛いのを知らなかった。あの時の自分がどれだけ馬鹿だったかを、今になって思い知った。
ただ、あの時のオーレリアの失態でアーヴァインは完全に迷惑を被ったのだ。ハリエットに屈して、グレンダのエスコートをするはめになって、オーレリアが怒れるところなんて何もない。
アーヴァインはこの時、スッと目を細めた。それでも、オーレリアから視線を外すことはなかった。
「あの時、あいつがなんて言ったか覚えているか? 飲ませなくても一日で痺れが取れると言っていたはずだ」
「え? そうだったかな……」
もうこの話は終わりにしたかった。何も上手く考えられない。
それでもアーヴァインは察してくれず、この話題が続いていく。胸がチリチリと痛い。
「一日放っておけば治るのなら、解毒薬なんて飲ませなくてもよかったんだ」
「それじゃあ一日痺れたままだったじゃないか」
何が言いたいんだろう。オーレリアが首を傾げると、アーヴァインはもどかしそうに眉間に皺を寄せた。
「なんの関係もない男に口移しで飲まされるよりはその方がマシだろ。つまり、飲まさなくてもいいかと思ったくせに結局飲ませたのは、俺がそうしたかったからだ」
ただ、目を瞬かせる。
一度落ち着いたはずの心臓が、また激しく主張した。
そうしたかった。それは――。
考えようとすると、頭が真っ白になる。フラれた時の捨て台詞は考えられても、こんな展開は予想していなかったのだ。呆然としたオーレリアに、アーヴァインは妙に力を込めた目をして続ける。
「ぐったりとして倒れているお前を見た時、こいつのことを俺は一生かけて護っていくんだろうと思った。だから、あの時にはもう躊躇いもなかった」
――誰かに護られるほどやわではないと、少し前の自分なら言い返せた。それが、相手がアーヴァインだと嬉しい。嬉しいのに、ぼうっとしてしまって無言になっていた。
素直に嬉しいと言えばいいだけのことなのに。
「……なあ、俺は約束は死んでも守るものだと思っている。婚約ってのはその最たるものだ。簡単に破棄してもいいなんていう約束は端からしない。だから、俺と婚約した場合、破棄はどちらかが死ぬまでなしだ。それくらい重たい」
重たいと言いながら、アーヴァインはオーレリアの手を握った。
アーヴァインの大きな手に触れられると、どうしようもなく嬉しくて幸せな心地がする。
「破棄前提どころか、破棄はできない婚約だ。お前はそれでも受けられるか?」
前に言った馬鹿なことをいつまでも覚えていてほしくない。あの時は、本当に軽い気持ちだった。誰のことも好きではなく、そんな気持ちもろくに知らなかったから。
兄が今、ここにいたら、また恋する乙女の目をしていたと言われるだろうか。
「破棄はしない。あたしももう、他のヤツは考えられないんだ。あんたがいい」
たったこれだけのことを言うのに、オーレリアは多分真っ赤になっていた。それをアーヴァインがどう思っているのか不安になったけれど、そんな心配は要らなかった。
オーレリアの肩がアーヴァインの胸にぶつかるようにして抱き寄せられる。その力強さが不安を消してくれた。
腕の中で小さく息を吐くと、
「ちなみに、今後は軽はずみに男を相手に喧嘩するなよ」
――至近距離でボソリと言われた。
今、そんな話をしなくてもとは思うが、婚約者が喧嘩っ早いのは困るのだろうか。
「軽はずみに喧嘩をしたことなんてないよ」
いつもちゃんとした理由があって喧嘩にまで発展する。軽はずみだったことなんて一度もない。
真剣にそう言ったら、アーヴァインは抱き締める力を強くし、それから溜息をついた。
「言い方が悪かったな。喧嘩はするな」
「え、えっと……」
「お前に何かあったらと思うと、俺が気が気じゃない」
それを言われてしまうと、うなずくしかないのだ。うん、とつぶやくとアーヴァインは満足そうにオーレリアの背をポンッと叩いた。
――アーヴァインの腕の中は心地いい。
兄の言った言葉が、オーレリアの中で蘇る。
好きな相手なら尚のこと。それは本当だと。




