ひょんひょろ侍〖戦国編〗夢を紡いだ家の行く先(1)
【添谷左衛門尉元則】が軟禁されている寺でひっそり自刃したその頃、茅野家の河川艦隊兼河川商船船団を統括する豪族にして商人でもある得能家が所有する貨客川廻船に載せられ【寿柱尼】が、夕闇に紛れ季の松原の地を離れていく。
そして幼い心を抱えたままの国主様…。国主松五郎君は、自身の周囲から自分を、自分の父と同様に庇い愛してくれていた【深志弾正少弼貞春】をはじめとした【深志一族】の面々や、同じく自身を何かと気にかけてくれた【寿柱尼】と、彼が生まれながら持っている筈の権威や権勢をあてにして現れた寿柱尼の孫である【添谷左衛門尉元則】も、短期間ながら彼を庇護下に置いてそれと無く世話を焼き、いまは蒼泉殿でお世話係に囲まれて楽し気に遊んでいる。
この様に自分に眼をかけて何かと気遣い助けてくれた人々や地位の安定に力を振るってくれた人々が、既に此の世に居ないか遠くに去ろうとしているのに、これと云って気にする様子もないままに彼は今日も笑いながら楽し気に係りの者たちと勝手きままに遊んでいるのである。
【無知蒙昧にして愚鈍】
こんな言葉がしっくりくる人物は、此の国において当時の高名な人物では、彼と父親である先代の国主さまだけだと云っていい。
お陰で国主様や国主家には、此の国における権勢も権威も人望も資質も、そのすべてが全く備わっていないのは誰の眼にも明白となった。
それを指し示すかのように、遠くは京の貴族や高位の僧侶、または此の国の有力な家の者や豪族に名主で名のある者や此の国において手広く商売をする者に商売をしたい大身の者共が、あたらしい国主様の知己を得ようと御機嫌伺と称して、各種の手土産持参で詣でに参じる事も無くなっていた。
国主さまのところに行ったところで、無益であることを承知しているからである。すでに此の国の権威も権勢も、その実権はひとりのうら若き女性が握っていることを、生きるために研ぎ澄ました鋭い嗅覚を使わずとも判ってあるからであった。
この、此の国の行く末を推し量ろうとする誰の眼にも止まり解るように演出し、権威と権力が遷移した事実を明白足らしめたのは、飯井槻の企みであったのは言うまでもないだろう。
その為、〝客殿〟である蒼泉殿に国主様をわざと住まわせ、彼の好きなように過ごさせたのである。
だが実は、国中から国主さまと呼ばれる数えで十二歳の少年が唯一、政争にも争乱にも巻き込まれず生き残るにはこの【無知蒙昧にして愚鈍】さが彼を救い、いずれ季の松原城から退去し茅野家の庇護の元どこぞに移り住み成長しやがて没するまでは、たとえ庇護者である飯井槻が死に代替わりをしたとしても、次の茅野家の当主か次代の飯井槻さまは、当代の国主さまも先代で今は京の寺で隠遁生活を行っている国主さま共々庇護を続けること。と、当代の飯井槻はそのように規定する書面に署名し花押しているのだ。
この事から推察できるのは、当代の飯井槻さまは彼女なりに国主家に気をつかい、決して粗略に扱わぬよう心配りをしているという点である。
それを示す行動を彼女はこの時期行っている。
飯井槻は深志家が滅亡し逃げ去った医師や薬師を再び探し呼び集めて、自身直属の医療団に再建し直し、これに茅野家に元からいた医者や医僧、薬師も新たに加えた事実上の病院組織に近い形に昇華させ、茅野家や配下の家々に同盟者やその軍勢、果ては此の国の民衆に至るまで、体に何かしらの支障が生じれば診察診療を無償、または格安の料金や物品の対価で応じ必要であれば薬を渡すという、当時においてはあり得ない寛大さに目を奪われるかもしれない。
確かに表面上から考えれば善意に溢れた措置ではあるが、ただでは息だってしたくない商魂たくましい飯井槻の性格から考察するに、此の国の住民と武家などからの支持と人気を集約させるのが主な目的だとついつい考えてしまいがちだが、実のところ、この医療組織の結成理由の一つには先代及び当代の国主さまの存在が大いに関わっており、かつて深志弾正が医師団や薬師を集め、ただただ国主さま親子の快癒を願ったように、飯井槻は患者の対象を国主さまのみならず自軍の傷病者の早期の快癒や、此の国全体の民の病気やケガからの快癒を願いながらも本心では、病気やケガ、戦疵がもとで亡くなる人間を抑えて生産効率を上げることを企んでおり、ついでに棚ぼた的に茅野家や飯井槻自身の人気取りにも活用し、ちょっとした不平から起こるかもしれない叛乱の眼を潰す一助にしたのだった。
同時代、こういった多角面から人心掌握や国の統治を考えた人物は皆無か余りに少なかったに違いない。
さて、この時を以て守護職【国主家】は完全に此の国の統治能力を喪失し、この家を長年に渡り支えてきた三家老【添谷家】【穂井田家】【深志家】の三家は此の世から事実上一掃され、此の国の現体制は完全に崩壊した。
季の松原城の本丸御殿のさほど広くない大広間では会議が催され、これからの此の国の行く末と、茅野家の行く先が飯井槻のの手によって諸将に対し示されようとしている。




