64. 私のせいで
空気が張り詰めている。
目の前に立ちはだかる男は、顔を紅潮させて怒りに震えていた。
……どんな状況だ。
初対面のゴツい男が、私1人だけを鋭い瞳で睨みつけている。まるで私以外の人間が見えていないかのように。
数分前、自席に座っていた私の元にクラスメイトが慌てた様子で駆け寄って来た。
「里宮! お前なにしたんだよ!」
突然そんなことを言われ、思わず「は?」と顔を顰めると、クラスメイトは「『は?』じゃねぇよ!」と喚いた。
「C組の榊がお前に用あるって! なんかめっちゃ怒ってるらしい!」
明らかに面倒くさそうな匂いがぷんぷんしてたから無視しても良かったんだけど、クラスメイトに背を押されるまま私はほぼ無理矢理榊の前に立たされた。
見上げると、榊と呼ばれた男は今にも掴みかかって来そうな程険しい顔をしていた。
「……里宮 睡蓮」
低い声でフルネームを呼ばれ、気持ちが逆立つのを感じた。
初対面のくせに印象悪過ぎないか。こいつ。
「何」
少し苛つきながらつっけんどんに言うと、榊は更に機嫌を損ねたように眉をひそめた。
こいつ、対して話したこともないのにどうしてこんなに私を敵視してるんだ?
そんな疑問が頭を掠めた瞬間、榊が重い口を開いた。
「自分が何したか分かってんのか」
「……はぁ?」
意味がわからない。
そんなことを言われたって、榊とは今初めて顔を合わせたような物だ。
1年の時もクラスは違ったし、もちろん部活も違う。
いくら考えても榊を怒らせるようなことをした覚えはなくて、私は額に手を当て大きなため息を吐いた。
「何が言いたいんだよ」
呆れたように言うと、榊は弾かれたように顔を上げて「お前が……!」と声を荒げた。……が、その先の言葉が榊の口から発せられることはなかった。
榊は数秒固まって、思い出したように周囲に目を向ける。
私達のやりとりを見ていた何人かの生徒が慌てて目を逸らした。
廊下の隅で固まっている女、教室から顔を出すクラスメイト達。
その存在に今初めて気が付いたのか、榊は後頭部をガシガシと掻いて大きなため息を吐いた。
「来い」
それだけ言って私に背を向けた榊に、このまま教室に戻ってしまおうかという考えが一瞬浮かんだが、更に面倒なことになりそうだったので仕方なく榊の後を追った。
ズンズンと進んでいく榊が少しずつ遠ざかる。
私にはそれすらも腹立たしく思えた。
小走りに追いつこうともせず、当てつけのように普段通りのペースで歩く。
階段を降り、人気のない廊下に着いたところで初めて榊が振り返る。
少し距離を置いたところで私も足を止めた。
「それで?」
こんな所まで来て、何が言いたいんだ。
さっきの言葉の続きを促すと、榊はギュッと拳を握って怒鳴るように言った。
「お前が……お前が竜一を泣かせたんだろ!」
ガツン、と、頭を殴られたような衝撃が走った。
いま、こいつ、なんて言った?
“竜一”って、長野?
なんでこいつが長野のこと……。
あぁ、そうか、友達か。
あの補習の日から。
……違う、そうじゃなくて。
そこじゃ、なくて。
……“泣いた”。
その行為と、長野の笑顔が重ならない。
だって長野は、いつも元気で、いつも笑ってて。
朝話した時だって。
そう思った時、ドクンッと心臓が嫌な音を立てた。
『長野にはわかんないよ』
その言葉が、やけに大きく耳元で再生される。
自分が言ったことなのに、その言葉は針のようになって私の胸に深く突き刺さった。
あんなことを言ったのに、長野は笑っていた。
いつも通りに、元気に。
……本当に?
あの時の長野は、本当に笑ってた?
本当に、元気そうに見えた?
『変なこと聞いてごめんな!』
……違う。
あの時の、長野の笑顔は。
声は。仕草は。
“いつも通り”なんかじゃなかった。
『お前が竜一を泣かせたんだろ!』
……私が、泣かせた。傷付けた。
私の、せいで。
そこまで考えたところで、私は思わずその場から逃げ出していた。
背後から聞こえる榊の怒声も無視してひたすら走る。
どうしようもない不安が胸を焼いていた。
傷付きやすい長野の性格を知らなかった訳じゃないのに。
偽物の笑顔も、本当ならすぐに気付く筈なのに。
私は、自分のことばっかりで。
……長野を傷付けた。
そのことにすら、私は気付けなかったんだ。
* * *
嫌でも耳に残る、あの大きな声。
あの言葉。
榊に怒鳴られた言葉が、ずっと頭の中を回っていた。
『お前が竜一を泣かせたんだろ!』
思い出すだけで心臓が震えるような言葉だった。
“泣かせた”。
その一言だけで、壊れてしまいそうになる。
昼休み、長野は中庭に来なかった。
何も知らない高津が、「しばらく榊と食べるんだって」と言う声を、微かに聞いたような気がする。
五十嵐も川谷も、それに納得していた。
怪しがる様子も心配する様子もなかった。
当たり前の反応だ。
3人は今朝のことを知らないのだから。
一方、3人と違って当事者である私には嫌でも分かってしまった。
長野が来ないのは私のせいだと。
この場所を避けるのは、私のせいだと。
大きなため息を吐いて、軽い鞄を肩にかける。
今日は部活がなくて良かった。
流石に今日はバスケに集中できる気がしない。
こんなことを思ったのは、今日が初めてかもしれない。
「里宮」
教室を出たところで名前を呼ばれ、反射的に振り返る。
そこに立っていた人物を見て、私は簡単に振り返ったことを心底後悔した。
「そんな嫌そうな顔すんなよ」
そう言って面白おかしく笑ったのは黒沢だった。
そんな黒沢を睨みつけることも、言い返すことも、今の私には出来なかった。
無反応のまま立ち尽くす私を気にも止めず、黒沢は相変わらず不気味な笑みを浮かべていた。
「“あのこと”、誰かに話したか?」
そんなことを言う黒沢に、沈んでいた気持ちが更に深いところまで落ちて行く感覚を覚えた。
……一番最初に、黒沢が私に言い放ったこと。
『茜がいじめられてたこと、この学校に広めてくんない?』
あの時は確かな怒りを感じたのに、今は疲労の方が勝っている。
私は力なく首を横に振ることしか出来なかった。
そんな私の反応を見て、黒沢はわざとらしく目元を覆って呆れたような仕草を見せる。
「残念だよ、本当に」
心の底からつまらなそうに、どこか冷たい声で黒沢は言う。
背筋が凍りつくのを感じた。
嫌な予感がする。
その口がにまりと笑い、勿体つけるように小さな声で囁く。
「“五十嵐”に、会いに行った方が良いんじゃないか?」
笑いを堪えているかのような声が耳元で響き、私は弾かれたように顔を上げた。
「五十嵐に何した!」
それは、もう悲鳴にも似た声だった。
それすら予測していたかのように黒沢は表情を崩さない。
私は持っていた鞄を投げ捨て、廊下を蹴って駆け出した。
小6の頃、泣いていた五十嵐を思い出す。
もうそんなに子供じゃないことも、五十嵐が強くなったことも知ってるのに。
それでも、またあの頃みたいになってしまうんじゃないかって。怖くて、怖くてたまらなかった。
階段を駆け下りる間も、記憶の中の五十嵐は泣き続けていた。
何度も何度も、『俺のせいだ』と、叫びながら。




