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黒を被った弱者達  作者: 南波 晴夏
最終章
202/203

200. 美しい桜と強かな蕾

「あ〜、クソ!」


 ゴールから落ちてきたボールをゴトンと床に押し付け、アサギはそのまま四肢を投げ出した。体育館に寝そべった胸元が忙しなく上下し、乱れた息を感じさせる。


 私も同じくらいには鼓動が早まっているのだろう。どこか他人事に思いながら汗を拭ってひとつ大きな息を吐く。

 こんなに全力で走るのは久々だった。当時と同じ感覚を味わえたようで興奮気味の私に対し、アサギはすっかり不機嫌になっていた。


「ほんと、ムカつくくらい強いっすね。卒業してどんだけ経ったと思ってんすか」


不服そうに言ってくるアサギに、『お前がナメてかかってくるからだろ』と胸の内で毒を吐く。


「言っとくけど、バイト行った時は最後に個人練してるし、完全にやめたわけじゃないから」


 高校を卒業してすぐ、私はミニバスコーチのバイトを始めた。私自身が卒業生ということもあり、生徒たちもすぐに受け入れてくれた。 もちろん大変なこともあるが、真剣に向き合ってきた生徒たちが成長していく姿を見ると、これ以上ないほどの喜びとやりがいを感じることができる。


 自分が選手として走るかつての形ではないものの、このスタイルが私は結構気に入っている。


「センパイ」


 ある程度息が整ったのか、上体を起こしたアサギが私の方を向く。その目はいつになく寂しげだった。


「……正直、大学でバスケやらないって聞いた時はショックでした。……でも」


 一度言葉を切って、アサギはゆっくりと口角を上げた。


「それがレンセンパイの道なんすね」


 私を慕ってくれていた後輩。いつまでも幼いように思えていたアサギからそんな言葉が出るとは思わず、私は少し驚いてしまった。それでもアサギなりの解釈をしてくれたことが嬉しくて、受け入れてくれたことが嬉しくて、私は「そうだよ」と微笑んでいた。


「よし」とアサギが膝を打って立ち上がる。同時に突いたボールが寄り添うように跳ねてアサギの腕の中に収まった。


「じーちゃん、元気でした?」


「そんなこと私に聞かなくても、お前もミニバスに顔出せばいいだろ」


「あー、それはムリっすね」


「は?」


 思わず強い声が出る。アサギはいたずらに笑って言った。


「プロになるまで、あそこには行かないって決めてるんで」


 眩しいな、と一番にそう思った。『プロ』という響きが耳に残る。私には想像もできなかった世界。まるで空想のように思えてしまうほど遠い世界。

 それでも、目の前の男にはその道が確かに見えている。


「だからレンセンパイのこともすぐ追い越しますよ」


 あまりにも眩しい姿で、バカ真面目に言うアサギに思わず笑ってしまった。

 やっぱりこの後輩は、私のことを過大評価しすぎなのだ。考えれば考えるほどおかしくなってきて、私は笑いながらプロを目指す選手を焚き付けた。


「楽しみにしてるよ」




* * *




 体育館にちらほらと部員の姿が見え始め、私はギリギリ面識のある3年生にだけ軽く挨拶をしてその場を後にした。新入生も入部したばかりでこの時期はまだ忙しいだろうし、練習の邪魔をするつもりはなかった。当時の記憶が溢れるこの体育館はもう私の場所ではないのだ。


 眩しい高校生の笑顔を横目に夕陽の射す廊下をぶらぶらと歩く。ふと、遠くの廊下で揺れるポニーテールを見つけて、私は小走りにその背を追っていた。


「美桜」


 懐かしい響きだと思った。名前を呼ばれた彼女はピタッと足を止め、振り返るまでもない、といった風にひとつため息を吐いた。


「相変わらず生意気なのね」


 こちらを向いてそう言った美桜の方も、()()()()()だった。


「大学生活は順調なの?」


「まぁね。美桜こそ、新入生に振り回されたりしてない?」


「少なくともあんたより手のかかる生徒はいないわよ」


 フンと鼻を鳴らして、呆れた調子で美桜が言う。

 確かに、私のためだけに合宿に参加することになってからというもの、バスケ部の副顧問を任され、3年の頃には担任として進路のことも色々と相談した。彼女にはあらゆる面でお世話になっていたと思う。


 ……恥ずかしいことだが、今思えばどこか甘えていたところもあったのだろう。夏合宿で母さんの夢を観た時、私が知っている最後の母さんと美桜の姿が少し重なった。似ている部分は年齢と長い髪くらいのものなのに、それでも私はどこかで母さんの面影を感じていたかったのかも知れない。


 ……当時、『誰かにとっての会えない母』であった美桜は、心做しか穏やかな表情になっているように見えた。


「……手のかかる生徒だったけど、どんな苦労より合宿の夜のことを一番覚えてるのよね。悔しいけど、生徒に心を動かされたのは初めてだったわ」


 はらりと横髪が落ちる。左手でそれを耳にかけ、美桜は、私の目を見て意味ありげに口角を上げた。


「美桜」


『今も母さんが生きてたら、私は絶対に会いに行く』


「今、幸せ?」


 窓から見える桜を背景に、美桜はほんの少し目を細めて微笑んだ。左手の薬指にはめられた指輪を見せつけ、「それなりに」といたずらな顔をして、美桜は颯爽と長い廊下を進んで行った。

 姿勢の良い後ろ姿に、桜のコンコルドクリップが美しく映えていた。




* * *




 非常口のドアを開け、私は思わずふっと声をもらして笑っていた。


 さらさらと揺れる木漏れ日の中、懐かしいベンチに座って目を閉じている高津の姿が見えた。

 どうせここだろうとは思っていたが、まさか眠っているとは。


 外階段を下りてベンチに近付き、いよいよ目の前に立っても高津は一向に目を覚まさなかった。私より低い位置にある頭、いつもは見えないつむじ。

 微かに寝息を立てて心地良さそうに眠る姿はまるで小さな子どものようだった。身長180センチ以上の成人男性に対してこんなことを思うなんて、とひとりおかしくなって小さく笑う。

 私も随分丸くなったってことなのかも知れない。


「まったく、いつまで寝てんだよ」


 苦笑しながら呟き、私は高津のおでこにぺちんとデコピンをくらわせた。顔をしかめて目を開けた高津は、寝ぼけまなこをこすって「里宮……?」と気の抜けた声を出した。


「なに寝てんだよ、こんなとこで」


「ん〜、暖かくてつい……」


 目を閉じたままにへっと笑う高津に、仕方ないなぁと呆れながらも心が温まっていく。


「ほら、帰るぞ」


 目元をこすっていた大きな手を取り、ベンチに座る高津を引き上げる。いつも通りの身長差と繋いだ手。……いつもこうして、連れ戻してくれてた。


『立ち上がれ』


 今では私だけの言葉じゃない。

 これからはお互いに、支え合いながら明るい方へと導いて行くんだ。

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