110. 俺じゃなくても
「じゃ、また部活で」
「おー、ありがとな」
「じゃーなー!」
駅まで見送りに来てくれた川谷に手を振り、俺たちはホームに向かった。時刻が丁度帰宅ラッシュと重なり、混雑したホームを人の波に流されるように歩く。タイミングよくやってきた電車に乗り込み車内を見回すと座席は既に埋まっていた。
学生が夏休みでも大人たちは仕事だ。額に浮かぶ汗を拭ってため息を吐く姿からは疲労が伝わってくる。
一方、身体ではなく脳が限界を迎えていたらしい長野はつり革に捕まり立ちながら寝息を立てていた。
ここぞとばかりに悪戯をしようとする五十嵐をすかさず妨害する。何をするつもりだったのかは分からないが、邪魔をされた五十嵐はわざとらしく唇を尖らせた。
そんなことをしているうちに数駅進み、五十嵐は乗り過ごしそうになった長野を叩き起こしてホームに降りた。閉まったドアの向こうに寝ぼけ眼の長野と無表情で手を振る五十嵐が見える。
ひらひらと手を振り返しながら横目で隣を確認すると、先程までぼぅっと外を見ていた里宮も小さく手を振っていた。
その姿を見て少しだけ安心する。流れていく景色を心ここに在らずといった感じで眺めていた里宮はいつもとどこか違う雰囲気を纏っているように思えた。
嫌でもその奥にある影を疑ってしまう。
電車が動き出すと、里宮が思い出したように口を開いた。
「今日、午前中阜に会ってきた」
窓の外を見つめるままそれだけ言った里宮に、俺はただ「そっか」とだけ応えた。このタイミングで工藤に会う理由なんて1つしかないだろう。
昨夜、電話越しに親友が語ってくれた話を思い出す。
工藤の初恋と、鷹の初恋。
「どうせ黒沢から聞いてるでしょ」
呆れたように言う里宮に、俺は思わず笑いながら頷いた。
「すごいよなぁ、工藤」
例えば今この瞬間、あたりまえのように里宮の隣に居ること。そんなあたりまえが崩れてしまうかも知れない。悩みや不安は少なからずあったはずなのに、計り知れない程の恐怖にも負けず、工藤はしっかりと自分の気持ちを伝えたのだ。
「“一生分の勇気使った”って笑ってた。ちょっと心配だったけどちゃんと話出来たみたいで安心したよ」
優しい声でそう言った里宮は、工藤の姿を思い出したのか微かに目を細めた。
「それから昨日の試合の話になって、阜が……“来年は自分たちの番だから、もっと勝ち上がれるように頑張らないと”って……」
いつもと変わらない調子だった声が段々と尻すぼみになり、やがて消える。気付くと、里宮の視線は窓の外から足元に移っていた。部活の時とは違って結ばれていない長髪が里宮の顔を隠す。
「……高津はさ」
下を向いたままの里宮が呟くような声を落とす。
ゆっくりと、躊躇するような口調。里宮の小さな手がギュッと握りしめられているのが見えた。
「……本当に、すぐ卒業の日が来るって思う?」
小さな声と共に、どこか縋るような瞳が向けられる。
その表情に、川谷の部屋で目を丸くしていた里宮が重なった。あの時自分が言った言葉を思い出し、少し考えてから口を開く。
「……まだ分かんないけどさ。きっと3年なんてあっという間だよ」
「……そう」
自分から聞いたくせに、里宮の返事はやけにそっけなかった。電車が止まり、滝のように下車する人々に押されながら小さな背中を追う。里宮はしばらく無言のまま振り返ることなく歩き続けた。
「どうしたんだよ、急に?」
問いかけても、里宮は答えない。さっきからずっと、里宮の顔を見ていない気がする。胸の中心にまた黒いもやが溜まっていく。川谷の部屋で胸に巣食った不安。昨日の試合で感じた違和感。
夕焼けを見つめる、悲しげな瞳。
「……里宮、なんかあったのか?」
あの試合の後、結局聞けなかったことを口にする。
前を歩いていた里宮の動きが止まった。
「何か悩んでるなら……」
「高津、……ら」
「え?」
小さな声が耳を掠め、思わず聞き返す。振り返ってほんの少し顔をあげた里宮は、苦しげな表情を隠そうともせず絞り出すようにして言った。
「高津だから、言えないことも、あるんだよ……」
夏の夜風が、里宮の長い黒髪を哀しく揺らす。
伝えられた言葉を理解するのに少し時間がかかった。脳内で何度目かの声が再生され、自分の頼りなさが悔しくなって思わず唇を噛む。
俺だから言えないことって何だよ。俺にだけ言えないってことか……? 俺はまた、何も出来ないのか?
目の前で里宮がこんなに苦しそうな顔をしているのに、黙って見ていることしか出来ないのか?
「……分かった。もういいよ」
呟くように言うと、里宮は勢いよく顔をあげて目を見開いた。その反応を見て、誤解を生むような言動をしてしまったことを心の中で反省する。まるで幼い子を安心させるかのように優しく微笑み、言葉を繋げる。
「もう何も聞かない。里宮の中で整理して、話せるようになったら教えて。……それが無理でも、本当に困った時は誰かに頼るんだぞ」
俺じゃなくても。
里宮の涙を拭うのも、安心させるのも、笑わせるのも、俺じゃなくたっていい。
……そんなこと、心の底からは思えないけど。
「……俺は待ってるから」
里宮が苦しいままでいるのはもっと嫌なんだ。
一方的に言葉を紡ぎ、俺は逃げるように駅を後にした。闇の深まる道をがむしゃらに、馬鹿みたいに全力で走る。自分がどうして走っているのか分からなかった。馬鹿みたいだと思った。馬鹿でいいと思った。
周囲からは変な目で見られているかも知れない。
それでも良かった。ただ、駅から家までの道のりをひたすら走った。何も考えたくなかった。
景色が怖いくらいに速く、吸い込まれるように流れていく。怯えた表情、切ない横顔、悲しげな瞳、苦しそうな声。里宮の言動が頭の中を駆け巡る。
息切れのためかやるせなさのためか心臓が締め付けられるように痛んだ。
やがて見えてきた家の前で足を止め、膝に手を着いて荒い息を整える。
『待ってるから』
果たして、俺に出来るのだろうか?
待っていた所で、里宮が俺を頼ってくれるとは限らないのに。そもそも、頼って欲しいと思うこと自体ただのエゴなんじゃないのか?
溢れ出てくる感情を押し殺すように胸を押さえる。
全てを飲み込むような夜空の下で、玄関の灯りだけが眩しく俺を照らしていた。




