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直江事件  作者: 奥田光治
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第一章 五月二十一日~事件

 その日……二〇〇八年五月二十一日水曜日の夜、元警視庁捜査一課警部補で、現在は品川の裏町で私立探偵事務所を経営している榊原恵一さかきばらけいいちは、品川駅近くの居酒屋で行われた飲み会に参加していた。飲み会と言っても参加人数は榊原を含めた三人だけという内輪的なもので、かつて警察学校時代に同じ釜の飯を食った同期生の集まりであった。

 榊原以外の参加者は直江慎之助なおえしんのすけ大科武夫おおしなたけお。直江は現在も現職の警察官で階級は警部補であり、役職は荒川中央署地域課係長となっている。一方の大科は榊原同様にすでに警察を退職し、現在はある私立高校の守衛をしている男だった。

 もっとも、元々榊原はあまりこういう飲み会などに積極的に参加するような性格ではない。というより、警察学校を出ると仕事が忙しくてこの二人と出会う機会もほとんどなくなり、警察を退職して以降は没交渉に近い状態だった。それが今回、そこの二人と一緒に飲む事になったのは、大科が守衛をしている私立高校から榊原に対して探偵としての依頼がなされた事がきっかけだった。

 依頼自体は「学校にかかってきた悪質な殺害予告電話の主を突き止めてほしい」というもので、この依頼自体は榊原が介入した事によって比較的早期に犯人が特定。榊原が直接犯人と対決した結果相手はあっさりと陥落し、そのまま警察に引き渡されていた(ちなみに犯人は「ブラスバンドの音がうるさい」と理不尽なクレームを何度もしていた学校の近所在住の自称作曲家の男だった)。が、この際校門横の守衛室で守衛をしていた大科と偶然再会し、事件解決後に「久々に一緒に飲まないか?」と誘われて、大科が今でも付き合いのあるという直江にも連絡を入れた事で何となくなし崩し的に一緒に飲む事になったのだった。

「しかしまぁ、この面子で飲むのも随分久しぶりだな。警察学校を出た後はあまりそれぞれ忙しくてあまり会う事もなかったし……」

 大科がビールを飲みながらしみじみとそんな事を言った。それに対して榊原がため息をつきながら言う。

「だからと言って、再会したその日にその場でいきなり飲み会に誘うというのは随分な話だ。しかも私が迷っていたら守衛室の前でいきなり直江に電話をかけて約束を取り付けて断れない状況に持って行ってしまうし……」

「まぁ、善は急げというじゃないか」

 大科の言葉に、今度は直江が首を振って反論した。

「だが、それでも仕事中に電話をかけてくるのはいささか問題だ。退庁直前だったからまだよかったが、部下に取り繕うのに苦労した」

「硬い事を言うなって。むしろ誘っておいてなんだが、お前がこういう飲み会に来てくれた事の方が驚きだ」

「本当に誘った側の言い草とは思えないな。私だってたまには何も考えずに飲みたくなる事だってある。今日がたまたまそうだっただけだ」

「まぁ、そうだよな」

 大科は隣に座る直江の肩を叩きながら笑い、直江は榊原以上に深いため息をつく。この中で唯一の現職警察官で今もきっちり黒っぽいスーツを着ている直江であるが、その表情はすっかり疲れ切っており、哀愁漂う中間管理職といった風だった。実際、今の直江の立場はそのようなものらしく、最近はあまり現場に出る事もなくデスクワークに忙殺されている事の方が多いらしい。もっとも、榊原自身もくたびれたスーツにネクタイと一見するとどこぞの窓際サラリーマンとしか思えない探偵らしからぬ格好をしているので、あまり人の事を言えないのも事実だった。

「しかし大科、私としてはむしろお前の方が驚いた。いつの間に警察を辞めたんだ?」

「四年ほど前だ。最後は狛江西署の地域課にいた。結局お前たち二人と違って巡査部長で終わってしまったが、それについて悔いはない」

 榊原の問いに、大科はそんな事を言って笑う。

「どうして辞めた?」

「なぁに、榊原の辞めた理由に比べたら大した理由じゃない」

「まぁ、榊原の退職劇については、今でも警察内部では伝説になっているから、それと比べる方が間違っているわけだが」

 直江の言葉に、榊原は少し複雑そうな表情を浮かべた。当時警視庁刑事部捜査一課のブレーンとまで言われていた榊原という伝説の刑事が、十年ほど前にある事件の捜査失敗の全責任を負う形で警察を辞した事は今でも警察内部では語り草になっている話である。

「……当時狛江署でちょっとした不祥事があってな。まぁ、それに巻き込まれる形で俺もやめるわけになったんだが……ちょうど親の介護もしなければならなかったし、こうして今ちゃんとした仕事ができている事を考えれば、あれでよかったのかもしれないと今では思えるようになった。もっとも、この境地に至るまでにそれなりの時間はかかったが」

「そうか……」

「結局、今となっては警察に残っているのは直江一人になってしまったわけだ」

 大科は直江にそう振るが、直江は少し暗い表情でこう言った。

「確かにそうだが、結局大して出世もできず、現場にも出られない内勤の警官だ。正直言って張り合いのない毎日でしかない。そういう意味では榊原や大科が羨ましいよ」

「おいおい、随分な言い草だな」

「私立探偵として今でも事件を解決し続けている榊原は当然として、お前だって学校の守衛という事は何かしらのトラブルに遭遇する事も多いんじゃないか?」

「そりゃあ、な。榊原ほどドラマチックじゃないが、それでも学校で起こりそうなトラブルは一通り経験したよ」

「……人生、三者三様、だな」

 榊原の言葉に、全員何かしら思うところがあるのか一瞬その場が静まり返った。

「……やめやめ! 飲み会の席でしんみりするのはなしだぜ。今日はそう言うのは全部忘れて、今日は飲み明かそうぜ」

「そうだな……悪かった」

 直江はそう言って頭を下げ、榊原は無言で手元の酒を少し飲む。それから一時間ほど三人は近況や思い出話、またはたわいもない世間話などをして過ごす事になったのだった。


 ……そうこうしているうちに、やがて時間となったので三人は勘定を払って店を出る事になった。代金は割り勘で払う事となり、代表して榊原がお金を預かってレジに向かい、残り二人は先に店を出て待つ事になった。

「悪いな、榊原」

「このくらい構わんよ」

 そう言うと、榊原はレジの前に立ち、残り二人が居酒屋を出るのを横目で見ながら会計に移った。アルバイトと思しき若い店員が伝票を預かって清算をし、榊原が預かったお金を払ってお釣りを受け取ろうとした……その時だった。

「キャアァァァァァ!」

 店の扉の外から若い女性の甲高い悲鳴、そして何か争うような音が響き渡った。レジにいた榊原と店員は反射的に扉の方を見やって固まり、直後、榊原は手に持ったお釣りをレジカウンターに放り出してためらうことなく扉を開け、外に飛び出した。

 そして、店の前には地獄が広がっていた。

「直江! 大科!」

 そこには腹部から血を路上に流しながらうずくまるようにして倒れている直江と、そこから数メートルほど離れた場所で太ももから血を流しながら倒れて呻き声を上げている大科、そしてそんな二人を見ながら真っ青な顔で腰を抜かしている大学生と思しき派手な格好の若い女性の姿があった。どうやら、悲鳴を上げたのはこの女性らしい。

「大丈夫か! しっかりしろ!」

 榊原はまず近くに倒れていた直江に駆け寄ったが、すでに彼の顔は顔面蒼白になっており、脈や呼吸も確認できない。もはや彼が手遅れである事は元刑事である榊原にはよくわかった。歯を食いしばりながら今度は大科の方に駆け寄るが、こちらは意識こそないものの呼吸や脈はしっかりしている。これならまだ助かるかもしれない。

「な、何だ、これ……」

 と、榊原に続いて店から出てきたレジの店員が真っ青な顔でそう呟いた。それを見て、榊原は鋭く叫ぶ。

「警察と救急車を呼んでくれ! 早く!」

「は、はい!」

 店員は慌てて店内に駆け戻る。騒ぎに通行人が集まってくるが、近づいてくる人間はいない。榊原は目撃者と思しき女性の方へ近づき声をかけた。

「何があった?」

「え……?」

「何があったと聞いているんだ!」

 ショックでぼんやりしていた女性は、榊原の声でようやく我に返ったらしい。

「そ、そこのオジサンが、誰かに刺されたんです!」

「誰にだ?」

「わ、わかりません! 黒いレインコートみたいなのを着た変な人が近づいてきて、いきなりそっちのオジサンを刺して……」

 そう言いながら女性が震える手で動かなくなった直江の方を指す。どうやら、先に刺されたのは直江の方らしい。

「それから?」

「相手はそのまま逃げようとしたけど、もう一人のオジサンが怒鳴りながら追いかけて……でも、相手も反撃して、そのまま太ももに刃物を刺されて、もう一人のオジサンもそのまま倒れちゃって……あ、アタシ、どうしたらいいのかわからなくて……」

「その犯人はどこへ?」

「そ、そのままあっちの路地の方へ逃げて……その後はわからない、です」

 榊原が振り返ってその路地を確認する。時間的に今から追いかけても意味がないのは確実で、逃げられたと判断する他なかった。

「君の名前は?」

「え、あ……その……佐久島、花美、です……。大学二年で……」

 なぜか急に彼女は口ごもりながら答える。榊原は少し違和感を覚えたが、ひとまずこの先は警察が来てからである。

「悪いが、このままここにいてもらう。警察の取り調べもあるだろうしな」

「……」

 そうこうしているうちにパトカーのサイレンが響き渡り、榊原は彼女を再び出てきた店員に任せると、自身は虫の息の大科の所へ戻ってできるだけの応急処置を始めたのだった。


 ……それから三十分後、居酒屋の前は駆けつけた警察関係者でごった返し、榊原は居酒屋の入口からそれをジッと眺めていた。救急車が駆け付けた時点で直江の方は死亡が宣告され、大科の方はすぐに近隣の病院へと搬送された。榊原の証言で被害者が現職の警部補である事がわかり、警察関係者も全員ピリピリしているようだった。

 と、そこへどことなく厳しい顔をした顔見知りが榊原の元へ駆け寄って来た。

「連絡を受けて驚きましたよ……まさか榊原さんが居合わせているなんて」

「斎藤、お前が担当か」

 目の前に立っていたのは、榊原の刑事時代の後輩である警視庁刑事部捜査一課第三係係長の斎藤孝二さいとうこうじ警部だった。

「えぇ。榊原さんが関与していると聞いて、橋本捜査一課長が私に担当するよう指示を出したんです。その方がやりやすいだろうと言って」

「あいつらしいな」

 現在の橋本隆一はしもとりゅういち捜査一課長は、榊原が刑事だった頃の元相棒である。榊原が刑事を辞めた後も捜査一課に残り、その後出世を重ねて史上最年少で捜査一課長の地位に到達していたが、本人曰く「榊原が警察を辞めなければ捜査一課長の椅子は榊原のものだった」という事で、橋本のみならず榊原をよく知る刑事たちの中にもそう思っている人間は多いようだった。

「しかし、珍しいですね」

「何がだ?」

「いえ、榊原さん自身が事件発生段階から事件に関与している……というより、事件の当事者になっているというこの状況が、ですよ。よく考えると、榊原さんは依頼で何らかの事件に介入する事は多くても、自身が直接何らかの事件の当事者になっているというケースは少なかったと思いますので」

「……確かに、言われてみればそうだな」

 推理小説などにおける探偵と言えば、行く先々で事件が起こる「死神」の側面を持っている事が多かったりするが、実はこう見えて榊原はそこまで「死神」属性を持っていなかったりする。というのも、介入する事件は「事件後に解決を依頼された」とか「たまたま事件発生時に近くにいて関係者から解決を頼まれた」とか「何らかの依頼を受けていてすでにきな臭い状況下で事件が起こった」いうようなあくまで仕事の範疇で関わっているケースが大半で、何の依頼も受けていない状況で榊原自身が事件の当事者として直接事件に巻き込まれているというケースは、ないとは言わないがかなり珍しいのである。ある意味現実的とも言える話だが、それだけに今回は警察に言われるまでもなく発生段階から事件に介入しているという珍しいケースだった。

「一応聞きますが、この事件にも介入を?」

「当然だ。探偵として目の前で友人を殺されておいて黙って引き下がれるわけがないし、私は一度関わった事件は絶対に途中で放り出さない主義だ。何よりここで引き下がる事はあの二人も望んでいないだろう。それに斎藤の言う通り私は事件当事者で、そんな人間を警察側も解放する事はないはずだ」

「えぇ。もっとも、一部の刑事から関係者を捜査に介入させてもいいのかという意見が挙がる可能性もありますが……」

「私が犯人でない事は簡単に証明できると思うが?」

「まぁ、確かに。話を聞く限り被害者が刺された瞬間を目撃した通行人は多いようですし、何よりその時榊原さんがレジにいたのは店員が証言していますから」

 そう言ってから斎藤はこう付け加える。

「それに何より、榊原さんが捜査に加わってくれるだけでも百人力ですので。さすがに当事者なので捜査会議に参加する事は無理かと思いますが、捜査の情報共有ができるように上には話をつけておきますよ」

「悪いな」

「お互い様です。……さて、早速ですが事件について榊原さんからも話を聞いておきましょう。被害者二人との関係や事件前後の状況などを教えてもらえるとありがたいのですが」

 その後、榊原は事件に至るまでの流れを事細かに斎藤に説明した。その説明はさすがに正確で、普段と比べて斎藤自身もやりやすいようだった。

「なるほど、状況は理解しました」

「話した通り、事件発生時私は店の中で支払いをしていたから直接犯人が直江たちを刺す場面は見ていない。通行人の女性が見ていたようだから、彼女には残ってもらっているが……」

「そっちは所轄の刑事が話を聞いています。ただ、何かを隠している感触がありますが……」

「私もそれは感じた」

 と、そこへ居酒屋の中から先行して話を聞いていた最寄りの品川署刑事課の円城和史えんじょうかずふみ警部補が姿を見せた。

「斎藤警部、ご苦労様です」

「状況は?」

「目撃者の女に話を聞きましたが、何か隠していると思って追及したら泣きながら白状しました」

「というと?」

「あの女……いや、『あの少女』は未成年者です。確認したところ、十八歳の高校生でした」

 その言葉に榊原と斎藤は顔を見合わせる。

「援助交際か何かか?」

 斎藤は最悪の可能性を懸念したが、円城は首を振った。

「いえ、単に大学生に化けて夜遊びを繰り返していただけみたいですね。補導されるのが嫌で大学生だと嘘を言っていたようですが、詰めが甘い事に財布に学生証が入ったままでしたよ。名前も偽名で、本名は『西平靖奈にしひらやすな』。学生証によると英彩高校三年。『佐久島花美』というのは咄嗟に同じ学校の生徒の名前を拝借しただけのようです」

「英彩高校?」

 榊原が眉をひそめ、円城はそちらを見やる。

「何か心当たりが?」

「刺された大科が守衛として勤めている私立高校……そこの名前が英彩高校です。昼まで依頼でそこにいたからよく覚えています」

 その言葉に円城の表情が険しくなった。

「大科さんとあの目撃者は顔見知りだと?」

「いえ、あそこは全生徒数一〇〇〇人以上のマンモス校ですから、何か特別な事がない限り大科が彼女を知っているかどうかはわかりません。逆に、彼女は守衛の大科を知っているかもしれませんが……」

「そうですか……。なら、もう少しその辺りを締め上げてみます!」

 円城はどこか張り切った様子で再び店の中に引っ込んだ。

「あの刑事、随分張り切っているようだが」

「榊原さんに出会えて気合が入っているみたいです。聞いた話だと榊原さんの事をとても尊敬していて、榊原さんが事務所を構えている場所を管轄する品川署に配属されている事を誇りに思っているんだとか」

「私はそんな他人に尊敬されるような人間ではないんだがね。まぁ、やる気が出るなら結構だが」

 そこで話を元に戻す。

「それで、犯人の行方は?」

「目撃者の話でそこの裏路地の方へ逃げたという事はわかっているので捜索していますが、正直芳しくありませんね。証拠もほとんど残っていないようです」

 と、そこへ斎藤の部下で第三係主任の新庄勉しんじょうつとむ警部補が駆け寄って来た。

「駄目です。逃げた先を探してみましたが、手掛かりはありません。路地の先は人通りの多い表通りで、目撃証言は絶望的です。どうやら、路地の中で返り血がついたレインコートは脱いだようですね」

「付近に防犯カメラは?」

「少なくとも路地の出口を直接映せるような位置にはありませんでした。周辺のカメラを回収してはいますが、ここまで用意周到だとカメラに映らないように移動した可能性もあります」

 ある程度予想できたことではあるが、逃走経路から犯人を特定するのは難しそうである。

「予想通り、一筋縄ではいかなそうですね」

 斎藤の言葉に、榊原と新庄も重々しく頷いたのだった……。

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