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ヴィーザル王国物語  作者: 沙羅咲
精霊の剣
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第5章  赦し(3)

 エフライムは首都イリジアの裏道を歩いていた。血を吸った古いマント、中古の剣とナイフは川に捨てた。


 場所さえ分かれば、エフライムを狙っていたというマリオ・ガラバーニを葬り去ることは容易だった。昼間だろうとなんだろうと関係ない。建物の中に入ってしまえば密室も同様だ。


 数人いた仲間と本人を殺し、同じ家にいた家族を殺した。その中にはマリオの幼い息子も含まれていた。何も考えてはいけない。禍根を残さないためには全滅させるのが一番なのだ。


 動きはすべて身体が覚えていた。足音を忍ばせる方法も、後ろからナイフで喉元を掻き切る方法も。そして心を凍らせる方法も。


 馬を預けていた宿場まで戻り、身支度を整える。マントを調えれば、旅人に見えるだろう。もう一回、森の中で着替えれば近衛隊長に戻れる。


 馬の背でエフライムは頭を切り替えていた。これでもう全ては終わったのだ。





 ライサは城の中を探し回った末に見つからないエフライムを追いかけて、城の外まで出ていた。木々の言葉に導かれるように森の中へ入っていく。


 午後の明るい陽の光の中で、木々のざわめきが大きくなる。


『人殺しがくるよ』


 その言葉にライサの足は止まった。誰が来るですって?


『血の匂いがする。人間の血の匂いだよ』

『たくさんの人を殺しているよ』

『さっき殺したんだよ』

『逃げて』

『逃げて』


 木々のざわめきにライサの足が震えた。何かが来る。森の向こうから何かが来ている。怖いものが…。


 慌てて背を向けようとしたところで、馬が走ってくるのが見えた。その背に乗っているのは知っている人物だ。


「バース様…」


 馬がライサの前で止まった。エフライムがライサの姿を認めて、馬上から見下ろしてくる。


「君は…こんなところでどうしたんです?」


 エフライムの優しげな声にかぶさって、木々の声が響く。


『血の匂いだ』

『たくさんの人を殺した匂いがする』


 じりっとライサはエフライムを避けるように下がった。一瞬怪訝な顔をしてからエフライムが馬を下りて、ライサに近寄ろうとする。さらに一歩、ライサは下がった。無意識の行動だった。


「あの…わたし…あの…」


 口がうまく動かない。クリスティーナのことを慰めに来たはずだった。そのエフライムが何故、木々がざわめくほどの血の匂いをさせているのか。


 突如、ライサは気づいてしまった。優しげに微笑むエフライムの全身から立ち上る獰猛な気配と、唇だけが笑みを形作り瞳が笑っていないことを。


「どうしました?」


 エフライムがまた一歩、ライサへと近づいてくる。


 もうダメだった。柔らかな物腰で貴公子だと思っていたエフライムが、まるで非情な死神のように見えてしまう。足が震えた。思わず座り込みそうになったところでエフライムが立ち止まる。彼の顔から表情が消えた。


「何に怯えているのか知りませんが…心外ですね」


 そう言うと、ライサに興味を失ったかのように馬に戻り、ゆっくりと傍を通り過ぎていった。


 怖かった。ただ彼が怖かった。その恐怖から開放された安堵感で、思わずライサの瞳からは涙がこぼれた。






 虫の音がふっとやんだ。庭先で虫の音と風の音を楽しみながら竪琴を爪弾いていたセレーネは、そのまま顔を庭の奥の方へ向けた。かすかに知っている人物の香りが流れてくる。それは本当にかすかで、きっとセレーネでなければ気づかなかっただろう。それよりもさらにかすかに混じるのは錆びた鉄の匂い。洗い流しても残る血の匂いだった。


「こんな時間にどうされましたか? エフライム」


 セレーネは優しい声でその方向に呼びかけた。月明りを受けた細身の人影が、ゆらりと木の陰から驚いたように目を見開いて現われた。残念ながらセレーネにその人物を見ることはできないが、消していた気配が戻ってきているのはわかる。


「月の姫は、気配を消していても私がわかるのですね」


 エフライムは内心の驚きを押し殺すように、そっと呟いた。なぜ自分はここに来てしまったのか・・・その理由を見出せないまま、エフライムはセレーネの屋敷の中に忍びこんでいた。


 怯えたライサの顔を見たとたんに気持ちが乱れて、城には戻れなかった。ライサの怯える瞳と、自分が殺した子供の怯える瞳が重なってみえた。

そのまま方向転換をしてふらふらとやってきたのが、情報としてだけ知っていたこの場所だ。せめて彼女の竪琴の音を聞けば気持ちが治まるかもしれない。そんなことを考えたからかもしれない。


 竪琴の音を少しでも聞ければ立ち去るつもりだったのだ。まさか自分のことをセレーネが見つけるとは思っていなかった。しかし見つかった以上、ここで立ち去るのはさらに不自然。


 仕方なく、そのままセレーネの前まで歩いていく。セレーネの表情は穏やかで、その視線はしっかりとエフライムを捕らえているかのようだった。

庭先の椅子に腰掛けたセレーネの前に立った途端に、セレーネがエフライムの方に手を差し出す。まるで見えているかのような所作だ。


「セレーネ?」


 怪訝に思いながらも、エフライムはセレーネの手を取ることを躊躇していた。血塗られた自分の手。そしてほんの数刻前に、さらに人の命を奪った身だ。いくら洗ったからといって、ついさっきまで血に濡れていた手で、この神聖なる娘の手を取るのは憚られる気がした。


「どうぞ。手を。エフライム」


 セレーネが見えない目でじっとエフライムを見る。エフライムの手がおずおずと手を掴もうとして、ほんのわずかな距離のところで止まった。まるでその動きを読んだように、セレーネはエフライムの指先に触れ、掌に触れ、ゆっくりと自分の手をエフライムの手に重ねようとしていく。エフライムは自分の指先が震え始めるのを感じた。今までにない反応を自分の身体がしている。


「月の姫…」


「良いのです」


 エフライムの手を探り当てたセレーネは、そのまま手を自分の頬に持っていく。


「いけません。私の手は…」


「分かっています」


 その言葉にエフライムの身体がびくりと揺れる。何をこの女性は分かっていると言うのだろうか。思わずセレーネを見つめると、その瞳から一筋の涙が零れ落ちるのが見えた。


「見えない分、感じるのです。あなたの心が泣いていることを」


「セレーネ…。私は罪人です。何人もの…」


「おっしゃらないで」


 セレーネがそっとエフライムの手の平に唇を近づけた。自分の意志とは無関係にエフライムの手から力が抜けていく。


「私が側にいたいのです。エフライム。あなたの側に」


 エフライムはセレーネの顔を月明かりで見つめた。穏やかな表情だった。エフライムの手をまた自分の頬に戻し、その唇がゆっくりと微笑みの形を作る。


「今ひとときだけ一緒にいましょう。あなたの心が落ち着くまで。大丈夫。あなたは穢れてなどいませんわ」


 エフライムの手がセレーネの頬で細かく震えていた。それでも力をいれて離れようとした瞬間に、エフライムの手の上から押さえていた彼女の手に力が入る。そしてさらに頬を押し付けてきた。エフライムはため息をついた。彼女は分かっていないのだ。


「わかっています」


 まるでエフライムの思考を読むように、セレーネが答えた。


「あなたが罪悪感を覚えているのも。表面は冷静な仮面を被っていても、心の奥底には闇と苦しみがあることも」


 それはまるで宣託のような口調だった。エフライムはセレーネの頬に自分の手を預けたまま、セレーネの前に膝をついた。身体を下げるにしたがって、エフライムの手はセレーネの頬から離れていく。それでもセレーネの手は彼の手を離しはしなかった。


 男にしては細いけれど剣を握るものが持つ筋肉質な手が、セレーネの女性らしい小さな掌の上で微かに震えている。


「あなたは何もかもお見通しなのですね」


「私の眼は見えなくとも、神様が下さった心の眼がありますもの」


 エフライムが顔を上げて見上げれば、月明かりに照らされたセレーネの美しい顔が自分に向けられていた。見えない瞳は焦点が合っていないはずなのに、視線を感じる。


「あなたは自分の喜びのために人を殺したのですか」


 落ち着いた静かな声がエフライムに問う。思わず反射的に答えていた。


「いいえ」


「あなたは殺した相手から金銭や財産を奪いましたか」


「いいえ」


「あなたが相手を殺したことで、あなた自身は何か得をしたのですか」


「いいえ」


「あなたは誰のために、何のために剣を振るったのですか」


「…陛下を…巻き添えにしないために…。禍根を断つために…」


 エフライムの返事を聞いたセレーネは微笑んだ。


「ならば、あなたが持つのは精霊の剣。私利私欲のためには使えない剣。それでいいではないですか」


「精霊の剣…」


「陛下のために。この国のために。あなたの剣を捧げてください。それがこの国の平和と民を守ることになるのですから」


 自分の剣で陛下を、国を、民を守る。


「あなたの罪は許されました」


 セレーネが厳かな声で宣言をする。副総司教直々の神官としての宣言に、エフライムは思わず頭を垂れていた。




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