第4章 信用(3)
その夜、アレスの居室でサイラスは諦め口調ではありながら、言うだけは言っておこうというつもりで、口を開いた。
「この状況下で突然の予定変更は困ります」
しかしサイラスの苦情など予想していたのだろう。バルドルがいつもの何とも読めない表情で返事をする。
「このままここに居ても危険だと判断したんじゃ。皆の前で言うのは避けたが、3日後、アレスをラオの庵に移すつもりじゃ」
バルドルの言葉に、部屋に集まっていたライサ、クリスティーナ、サイラスは解せないというように眉をひそめた。
「それは安全なのですか?」
おずおずとサイラスが問い返せば、バルドルの頬にふっと笑みが浮かぶ。
「ヴァージの森…通称、マギの森の中にある。一度、壊したそうじゃが、エフライムが密かに建て直させたそうじゃ。特別な術がかけてあるために、そう簡単には庵に近づけないらいしいぞ。まあ、多少は不便するじゃろうが、そこは我慢していただくしかない」
「あの…」
おずおずとクリスティーナが声を出した。
「陛下にはラフドラス伯とクレテリス侯が付き添われるのですよね。私たちもお供させていただけるのでしょうか」
「わしらにはやることがあるからの。付き添いはせん。陛下が隠れている間に、城の中で暗殺者探しじゃ」
「そういえば、ラフドラス伯…エフライムはどうしたんです?」
サイラスが部屋の中を見回しながら言う。病気となっているアレスは寝室にいると聞いているが、エフライムの姿も見えなかった。足を怪我しているラオと付き添っているマリアは、あの日以来この会合には欠席していたので、今晩いなくても気にはしなかった。
「エフライムは別件で近衛隊の宿舎のほうへ行っておる。先日の木箱の件でわかったことがあったらしいのでな」
「そうですか」
サイラスがバルドルの返事に考え込むと、一瞬だけ静けさがその場を覆った。
「とりあえず3日間。陛下を守りきらねばならん。どうするか…。今晩の警護は、エフライムは無理じゃろうと言っておったから残ったもので対応する必要があるじゃろうな」
「そうですね。ラオも足が治るまでは無理でしょうし…」
サイラスも返事をして集まっている面々を見る。バルドルが「ふむ」と一言発すると、ちらりとサイラスを見た。
「今宵はわしとクリスティーナで良いじゃろうか」
クリスティーナが緊張した面持ちで「かしこまりました」と返事をする。
「明晩は、エフライムとライサ。出発前の晩はマリアとサイラス…だけだと、ちと不安かの? まあ、ドアの外に近衛はいるが…。明晩の様子を見て、考えることにするかの」
バルドルの言葉に、それぞれが同意を示すとその晩は解散となった。
皆それぞれが部屋に戻り、バルドルとクリスティーナも一度自分の部屋に戻って、一晩を過ごす用意をした後に、そっとアレスの寝室に入った。
ベッドの上にはドアとは反対側を向いて、布団に潜り込むようにして眠っている頭の一部が見える。かすかな寝息だけが聞こえてきていた。
バルドルが傍の椅子を示して、クリティーナに座るように示してきた。そのままバルドル自身も椅子に座る。頭のほうにバルドル。足のほうにクリスティーナが陣取る形となる。
静かに夜が更けていき、空気が冷え、そろそろ明け方も近くなったかと思ったころ、バルドルが立ち上がった。
「すまんな、ちょっとばかり出てくる」
「あの…どちらへ…」
吐息だけの会話でクリスティーナが問い返せば、バルドルが照れたように答えた。
「手洗いじゃよ。老人は近くていかん」
「あっ…」
「じゃあ、頼むぞ」
「はい」
物音を立てないようにそっとドアを開けて出て行くバルドルを見送って、クリスティーナはそっと息を吐く。
緊張している身体を緩めるように、そっと深呼吸をする。吸って。吐いて。吸って。吐いて。
そして椅子から立ち上がった。
屈み込んで膝から下げていたものを取り出す。
もう一度。吸って。吐いて。
そっとベッドの傍へと近寄った。
眠っている頭を見て、首の位置を確かめる。膝から下げていたもの…短剣を振りかざして、目をつぶって振り下ろした。
「ざくっ」
布が切り裂かれる大きな音がして、目を開ける。とたんに短剣を持った手首を強い力で掴まれた。
「あっ」
慌てて手を引こうとしたけれど、手首は動かないどころか痺れてきて、その細い指からポロリと落ちてしまった。
慌てて逆の手で拾おうとした短剣は、大きな男の手で奪われる。短剣の動きに従って、拾った男の手を見て、胸を見て…顔を上げて気づいた。
目の前に居るのはアレスではない。
「エフライム…」
「残念です。クリスティーナ」
「そんな。だって…今までそこに寝ていたのは陛下で」
「私ですよ。身体を小さくして呼吸を殺して寝ているのは骨が折れました」
クリスティーナが大きく目を見開く。
「そんな…。なぜ? どうして?」
「あなたが私の恋人になりたいと告白してきたとき、必死すぎました」
クリスティーナが息を呑む。
「恋の告白にしては、まるで生死をかけたような雰囲気でしたからね。何かあると思ってはいたんですよ」
「そんな。私は…。私に下さった愛の言葉は…あれも嘘だったのですか?」
エフライムは軽く肩をすくめた。
「あなたのことは女性としては好きでしたよ。信用していなかっただけです」
「で、でも…、陛下の前で、私を信用していると仰ってくださったではないですかっ!」
大きく首を振って言い募るクリスティーナをエフライムはいつもの静かな微笑みを浮かべたままの表情で見つめた。
「あれですか。私はね。アレスに忠誠を誓ったんです。アレスにだけは嘘をつかないようにしようと思っているんです」
「だったら…」
「だから言ったのですよ。『恋人を信用しない人間がいると思いますか?』と」
クリスティーナの頭にゆっくりと言葉の意味が染みていく。
「信用しない人間は、いるんです」
クリスティーナの膝から力が抜けて、がくりと身体が崩れ落ちた。
「美しく、可愛いらしいクリティーナ。お別れです」
告げたところで、静かにバルドルが入ってきてクリスティーナの肩に手をかけた。とたんにクリスティーナの身体がびくりと大きく動く。必死で声を絞り出した。
「脅されていたんです」
「ええ。そうでしょうね」
「弟を人質に取られて…」
「弟さんの借金のためですよね?」
その言葉にクリスティーナは床に座り込んだまま、呆然とエフライムを見上げた。
「そこまで分かっていたのですか」
「ええ。知っていました」
「それならば、なぜ…。私を助けてくれなかったのですか」
「あなたは私に助けを求めるよりも、陛下を亡き者にするほうを選んだのですから。仕方ありません」
エフライムはいつもの調子で告げると、手にしていた短剣をバルドルに渡した。
「あとはお任せします。私はやることがあるので」
「おまえさん…一時とは言え情を交わした女に冷たいのう」
バルドルの呆れたような声に、エフライムはドアを見つめたまま返事をする。
「陛下に仇なすものにかける情けはありません」
そしてクリスティーナに視線すら投げかけないまま、ドアの向こうへと消えていこうとした。
「もう遅いですわ!」
ふいにクリスティーナが叫んだ。エフライムの視線がクリスティーナへと向かう。そのことにどこかで安堵のようなものを感じながら、クリスティーナはエフライムに縋るような目をしてもう一度言う。
「もう遅いのです。すでにトラケルタ王国の軍がすぐそこまで来ています。明日の朝には攻め入ってくるのですから」
その言葉にエフライムは冷たい笑みを浮かべた。
「ええ。知っています」
クリスティーナの顔に驚愕の表情が浮かぶ。
「そんな。そんなはずは…」
バルドルが大きなため息をついた。
「トラケルタ王国とは少しばかり前に、揉め事があっての。動向には注意しておった。間者を放つぐらいのことは、やっておるよ」
「でも何の準備もしていなかったではないですか。来ることを知っていても何もしていなければ同じですわ」
なおも言い募るクリスティーナに対して、エフライムが冷たいまなざしを向ける。
「戦うのではなくて追い払うだけならば、軍隊を動かさなくてもうってつけの人物がいるんですよ。わが国には」
「あ…」
クリスティーナは、まさかと思いつつも一つの答えにたどり着いていた。
「クレテリス候…」
「ご名答。ラオに任せておけば、追い返すぐらいのことはしてくれるでしょう。もういいでしょうか。長居をしてしまいました。次の予定があるので失礼」
今度こそエフライムはドアの向こうへと消えていった。




