第3章 思案の外(1)
活気溢れる酒場の中で、エフライムは彼がいつもは着ないような派手な服装をして酒を飲んでいた。
無造作にあちらこちらで跳ねる髪、口元にある黒子。肌蹴た胸元からは金色の鎖が覗いており、野性味が溢れる雰囲気をまとった姿は、まともな職業の男には見えない。
「あ~。ルゥ?」
おずおずとエフライムの偽名を呼んで声をかけてくる男がいた。ちらりと視線を移せば、濃い肌の色に濃い髭が印象的な男が困ったような表情で立っている。
「相変わらずだな。ヴィンセント。言った通りの服装してきているのに、なぜ俺だと分からない?」
ドサリと身を投げ出すようにヴィンセントがエフライムの前に腰掛けて、顔を顰める。
「当たり前だろう。毎回、毎回、別人のようになりやがって。声をかけるこっちの身にもなってみろ」
「それは俺に対する褒め言葉として受け取っておくよ」
「まったく。口調まで別人だ」
エフライムは軽く肩をすくめてから、ヴィンセントのために飲み物を注文してやると、自分の分の杯に口をつけてから促すように彼を見る。
「それで? 何を掴んだ?」
飲み物が運ばれて、ヴィンセントは少しだけ喉を潤すと、ぐっとエフライムのほうへ身を寄せた。
「あ~。頼まれたのは城関係の情報だったな。掴んだのは一つだけだ。ロベリオの弟が近衛隊長エフライムを狙っている」
「ロベリオ? どこのロベリオだ?」
「ロベリオ・ガラバーニ」
名前を聞いて、エフライムの瞳がすっと細められる。ヴィンセントは慌ててエフライムの前でその場の凍ったような雰囲気を乱すように手を振った。
「おっと。何があるか知らないが、俺に八つ当たりするなよ。俺は話を持ってきただけだ」
「奴らは何故近衛隊長を狙っている?」
「あんたも裏の世界に詳しいなら、死の天使エフライムの噂ぐらい聞いたことがあるだろう? 姿を見たものは必ず死ぬと言われている殺し屋だ。とは言え、十年近く前にロベリオの一家を皆殺しにしてからは、かき消すように消えちまったが」
「ああ。聞いたことぐらいはある」
聞いたことがあるも何も、本人だ。だがそんなことはヴィンセントの前では全く匂わせもせずにエフライムは話の先を促した。
「その死の天使エフライムを雇っていたのがロベリオだったらしくて、飼い犬に手を噛まれたらしい。そのエフライムっていうのが、かなりの美少年だったらしいぜ」
「それで?」
「今の近衛隊長のエフライムっていうのが、名前も同じ、顔立ちも似ているらしい。だから生きていて、近衛隊長に納まっているんじゃないかって奴らは思っているらしい」
「お前の話は『らしい』『らしい』ばかりだな」
「しかたねぇだろうが。こんなの本人に聞けるかよ。なんで狙ってるんですかって訊けってか? それに十年近く前の事件の目撃者は皆死人だ。俺に地獄まで聞き込みに行けってか? ムリだろ」
「まぁな。だが本当に狙っているのか?」
「それは確かだ。何人か声をかけられた奴に直接会って確認した。しかし…殺し屋から近衛隊長って…無理があると思うがなぁ。大体、近衛隊長って貴族だろう?」
エフライムは心の中で舌打ちをする。ヴィンセントはそんな様子には気づかずに、もう一口酒を飲んでから言う。
「なんでも殺し屋のほうのエフライムって奴は、ロベリオの親兄弟を全滅させたんだってな。奴らが根城にしていた娼館を丸ごと全滅させたって話だ。たった一人で殺ったって噂だけど本当だと思うか?」
「弟が残っていたのなら全滅じゃないさ。手抜きな仕事をしやがる」
「それにしたって本当なら、おっかない話だ。エフライムって奴には近づきたくもない」
気楽に答えたヴィンセントを凍るような瞳がじろりと睨んだ。その視線の硬さにヴィンセントの背筋に冷たいものが流れる。
「そのロベリオの弟の名前と外見を教えろ」
「簡単に言ってくれるぜ。奴ら、あちこちに移動しているんで情報を仕入れるのに苦労したんだぜ?」
「それが仕事だろう?」
ヴィンセントはあきらめたように息を吐き出した。
「名前はマリオ。外見は…」
エフライムはヴィンセントが持ってきた情報を頭の中に叩き込んで、とんとんと机を指で叩く。心得たもので、ヴィンセントが手を伸ばせば皮袋の感触が手の中に押し込められた。
「毎度」
「奴らの居場所が分かったら、教えてくれ。連絡はいつもどおりに」
「わかった」
エフライムは振り向きもせずに、酒場を出ていった。
人通りの無い道を通り、わざわざ森に入り川を渡り大回りをして城に戻る間に、エフライムは少しずつ変装を解いていった。もちろんつけてくるものが無いことは、何度も確認する。
裏を取る必要はある。だがロベリオの弟が生きているという話は聞いたことがあった。それであれば、自分を狙っているという話もあながち嘘ではないだろう。
もしもエフライムを狙う刺客が、誤ってアレスの身にも及んでいるのだとしたら?
否。思いなおす。あの矢はアレスを狙っていた。誰かがかばうことは予測できたと思うが、あのタイミングならエフライムよりも先にバルドルやラオがかばってもおかしく無いのだ。
とはいえ、陛下の傍に仕えている近衛隊長が命を狙われているということは、それだけでも大きな問題だ。誤って陛下に害が及びかねない。エフライムの脳裏には故人となってしまった人々の顔が浮かんでいた。彼らに対してもアレスを守ると誓った自分であったのに。
どちらにせよ降りかかる火の粉は自分で払うしかない。何年前であろうと発端が自分自身ならなおさらだった。
何故自分は、名前を捨ててしまわなかったのだろうか。名前を変えることなど造作が無いことだろうに。いつでも良かった。どこかで名前を変えたら良かったのだ。後生大事に母親からもらった名前を使い続ける必要は無かったのに。苦い気持ちがこみ上げる。
完全に変装が解け、洗練されたいつもの雰囲気に戻った頃に城が間近に見え始める。エフライムはもう一度振り返り、誰もついてきていないことを確認すると、城の門をくぐっていった。
その日の夜更け。自然の風景ように見せながら、その実は計算されて整えられた中庭で、花壇のふちに腰掛けてセレーネは竪琴を爪弾いていた。
辺りは月明かりだけのぼんやりとした闇に包まれているが、もともと目が見えないセレーネにとっては昼も夜も違いは無い。
その見えない目で天体を追う。空に星たちが瞬いているのを感じる。セレーネは見えない目の変わりに、月の明かりを暖かさとして感じ、星の光を冷たさとして感じる。それはもともと見ることがかなわないセレーネに与えられた、別の「視覚」だった。
「流れ星」
爪弾く手を止めて、消え行く星を追う。あっという間に消えていく命を思った。ここ数年で本当に沢山の人の命が失われてしまった。その思いを音色に込めて、祈りと共に琴を奏でる。いつもよりも静かに。できるだけかすかな音で。
こうして独りで琴を奏でている時間は、セレーネにとって祈りの時間でもあった。神々に祈りを捧げる神官としてではなく、セレーネ個人として祈りを捧げる時間。普段は見せない憂いを琴の音に込める。
何かが聞こえた気がして、セレーネは琴を爪弾きながら聴覚に集中する。何かが近づいてくる。庭の中は暗く、人気はない。しかし遠くからかすかに聞こえる足音と人が発する香りをセレーネは捕らえていた。
その人物はセレーネに見つからないように、あるいは自分がそこにいることを誰にも気づかせないために、気配を殺している。それでもセレーネには、はっきりと誰がどこにいるのかすらわかっていた。琴を爪弾いていた手を止める。
「どうそ。ここへいらして。エフライム」
その声に、一瞬人物の足がぴたりと止まる。しかし次の瞬間には、気配を消すこともせずに、潔い足音を立てて近づいてきた。
「あなたには適いませんね。セレーネ。私が来たことを、いつ気づいたのですか?」
「最初から。中庭の門をくぐっていらしたときから、気づいていました」
エフライムの目がわずかに見開かれる。セレーネが微笑んだ。
「冗談です。先ほどからですわ。耳と鼻は人よりもいいんです」
「それにしても…」
そう。それにしてもよすぎる。しかしこの神官の変わったところは追及しても仕方ないのだ。そうエフライムにはわかっていたから、あえてその話題を追うことはやめた。
「お隣に腰掛けても?」
「もちろんですわ」
セレーネの返事を待って、エフライムはそっと隣に腰をかける。お互いに話題が見つからず、じっと黙り込んで暫くした後で、エフライムが口を開いた。
「よければ…琴を聞かせていただけませんか」
「それは構いませんけれど…」
「できれば、いつも歌っていらっしゃる歌をここで聴かせていただけませんか」
セレーネは微笑んでから頷き、琴を構える。ポロンポロンと遠慮がちに爪弾かれた前奏が流れてひそやかな歌声が流れ出す。
戦場に出ていった恋人との幸せな日々を思い出し、自分の孤独と帰ってきて欲しいという願いが歌われる。戦争が終わっても恋人は帰ってこない。それでも待ち続ける。
伸びやかに歌うような琴の音と、美しくも悲しさを含むセレーネの歌声が綺麗に調和していく。一段と高い音に伸び上がって歌が終わっていく。そして琴の音も追いかけるようにして消えていった。
「素晴らしい。あなたは神から特別な才を与えられたのですね。月明かりの中で爪弾く琴の音色と歌声は、月の女神の寵愛を受けたようです。月の姫とお呼びさせていただきましょう」
心の底からの感嘆を表すと、セレーネの頬が微かに赤くなった。
「ほんの手遊びで身につけたものですの。ですから、あなたにそのように手放しで褒められると恐縮してしまいますわ」
「本当に素晴らしい琴の音と歌声です。なんという曲なのですか」
「これは吟遊詩人に教えてもらった『精霊の剣』というお話の中の一曲です」
「精霊の剣? どんな話なのですか?」
「聞きたいですか?」
「ええ」
ポロン、ポロンと琴を鳴らした後に、セレーネは静かな声で語りはじめた。
「昔、昔の話です。あるところに小さな村がありました。その村は盗賊に悩まされていました。収穫をして少しでも村に収入ができると、どこからともなく盗賊がやってきて、持って行ってしまうのです。これでは村人たちの生活がままなりません。このことに胸を痛めた村一番の優しい青年は、三日三晩かけて神が現れるといわれている泉のほとりで、祈りを捧げました。青年の祈りに心を動かしたのは、戦いの女神フレイムでした」
その名前を聞いたとたんに、つきりとした痛みがエフライムの胸を刺した。その雰囲気を感じたのか、セレーネは話をやめて、見えない目でエフライムを見つめた。
「すみません。物語りの最初から語り始めてしまいました。歌の部分だけで良いのですよね?」
「いいえ。続けてください。それでどうなったのです?」
エフライムの促しに、セレーネはしばらくエフライムの気配を探るようにしていたが、やがて続きを話始めた。
「フレイムは青年に一振りの剣を授けました。『これは精霊の剣。お前の願いをかなえる剣。ただしお前がもしも私欲でこの剣を振るったならば、この剣はたちまち消えうせてしまうだろう』青年は喜んでこの剣を受け取り、盗賊たちを追い払うことができました」
「それで? 歌はどこで出てくるのですか?」
エフライムが怪訝な顔で尋ねると、セレーネは微笑んだ。
「このお話は長いのです。全部話すと夜が明けてしまいますから。続きはまた今度」
「それは残念です。確かにもう少し聞きたいところですが、そろそろ冷えてまいりました。お体を壊すといけませんから、戻りましょう」
エフライムは立ち上がるとセレーネに手を差し出した。まるで見えているかのように、そっとセレーネは自分の手をその上に重ねる。
「手が冷たい。一体、どのぐらいここにいらしたのです?」
セレーネの手の冷たさに驚いてエフライムが問うと、セレーネは小さく笑った。
「もともと手は冷たいほうなのです。お気になさらないでください」
エフライムはさりげなく自分が来ていた上着を脱ぐとセレーネの肩にかける。これにはセレーネも慌てたように辞退しようとした。
「そのままで。セレーネ。月の姫。そのように身をひねったら折角肩にかけた上着が地に落ちます」
「それではあなたが寒いでしょう? エフライム」
「すぐそこまでですよ。私は大丈夫です。さあ、風邪をひかないうちに中に入りましょう」
エフライムはセレーネの手をひいて、その足元を気遣いながら建物の中へと入っていった。




