第2章 司教(3)
「困りましたね」
エフライムが柔らかいテノールが、アレスの耳に届く。食後、アレスは自分の部屋へと戻る際にバルドルとエフライムを伴っていた。
「昔から妙に勘のいいところがあるからのぉ。あやつは」
「そうなの?」
アレスの問いにバルドルは自分のあごひげを撫でつけながら頷く。
「あの内乱の折、あやつは行方をくらましていたという話もある」
「え?」
「周りの主たるものも一緒にじゃ。連れて行きおった。おかげで大神殿は被害に会わずに済んだという話もあるがな」
「どこへ行っていたんです?」
エフライムの問いにバルドルが一瞬だけ躊躇した後で口を開く。
「慰安旅行だそうじゃ」
「はい?」
「神官の慰安旅行なぞ前代未聞じゃ。なんでも海辺の街へ、魚を食べに行ったと言っておった」
「タイミングがいいというか、なんというか」
エフライムの呆れたような口調にバルドルも頷く。
「まったくじゃ」
その夜、またエフライムの耳に竪琴の音が届いていた。昨夜と同じく爪弾かれた柔らかな音楽。
朝食の席で、セレーネは竪琴を弾くと言っていた。これはセレーネが弾いているのだろう。温かく穏やかな音色。どこか遠慮がちなその音は、彼女が奏でているのであれば納得できる。
ゆったりとした曲から少し早い曲へ。それでも弾き方は荒くなることはなく、きちんと音階が上がり下がりする。複雑な旋律が絡み合って、繊細なメロディーを生み出していた。
静かに奏でられる音楽に乗せて、静かな歌声が聞こえ始める。セレーネの歌声だろうか。思い出と共に孤独の中で、戦場に出た恋人が戻ってくるのを待っていると告げる歌声が、ゆったりと爪弾かれる音の上に流れていく。
風の音やふくろうの鳴き声の向こうから聞こえてくる音楽を、いつか目の前で聴いてみたいと思いつつ、エフライムはゆっくりと眠りに落ちていった。
同じ頃、ベッドの中にいたライサにも音楽は聞こえていた。貴族の娘であったライサの部屋としては質素な召使のための部屋。
狭かったがベッドは温かく部屋は清潔だ。王の傍仕えをしている貴族の娘たちの部屋とは比べようも無かったが、それでもライサは満足していた。
もう何も知らなかった頃の自分ではない。自分の国から逃れ、幸運なことにオージアスという後ろ盾を得て、何とかこの待遇を手に入れたのだ。隣の部屋はイザベラだ。ラオの元で一緒に働いていた彼女が今も隣の部屋のままなのは心強い。
聞こえてくる竪琴の音に、白鳥の城と呼ばれたバルテルス候の館にいたころを思い出す。自分の誕生日のときには、両親がちょっとしたパーティーをしてくれていた。パーティーの中ではこのように竪琴を奏でながら物語を語る吟遊詩人などもいたものだ。
「お母様。お父様」
依然として二人の行方は知れなかった。誰にも見咎められずに国境を越えるには、ブレイザグリク山脈を越えるしかない。山道を行ったのか、あるいは…。
考えが暗いほうに行きそうになるのを押しのける。優しい笑みを浮かべた少年、アレス陛下を思い出す。約束してくれたのだ。見つけたら教えてくれると。そのような話が入ってきたら、ライサに伝えてくれると。
だから今は待つしかない。二人は大丈夫。ライサは幸運なことにラオたちに出会ったために、かなり順調にこのヴィーザル王国の首都イリジアに辿り着いただけだ。二人が遅くなるのは当たり前なのだ。そう考える。
音楽が変わる。静かな中で恋する人が戻ってくるのを待つ歌になる。そう。待っている。大切な両親が辿り着くのを、ここで待っている。
やがてライサにも穏やかな眠りが訪れていた。




