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ヴィーザル王国物語  作者: 沙羅咲
精霊の剣
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第2章  司教(1)

 矢が掠っただけだったのと、その後のラオによる手当ての早さに加えて薬も効いてきたためか、エフライムは命に別状は無かった。ただ、翌日もまだ全身に軽く痺れが出ていたために、ベッドから起き上がるのはラオが禁止した。


「もう寝なくても良いってラオには言ったんですけどね。聞いてくれなくて」


 青い顔をして、エフライムはクリスティーナに微笑んで見せた。


「ダメです。バース様は、すぐに無茶なさるんですもの」


 枕もとで果物の皮をむいているクリスティーナの手をエフライムが握った。


「クリスティーナ。二人きりなんだから、名前で呼んで欲しいんですけどね」


 ぱぁとクリスティーナの頬が染まった。


「あ…、エフライム」


 可愛らしい声に、エフライムが横になったままにっこりと微笑む。


「そう。そう呼ばれるほうが、早く治る気がするんですよ。それにね、果物よりもあなたの唇の方がいいな」


 クリスティーナは赤かった頬をさらに赤く染めて、エフライムを見つめた。エフライムの片手がクリスティーナの頬に触れるのに誘導されるように、クリスティーナの顔がエフライムの上に覆い被さっていく。


 そして二人の唇の距離が無くなろうという時に、扉をノックする音が響いた。慌てて離れていく美しい唇を見ながら、エフライムが軽くため息をつく。


「無粋ですね。きっとラオですよ。こうタイミングが悪いのは」


 その言葉を証明するように、許しを得るよりも先に、ラオが扉を開けて入ってきた。


「ラオ…。ちょっとタイミングを計ってくれるといいんですけどね」


 軽い口調で苦情を言うエフライムに、ラオは片眉だけ上げて見せる。


「扉の中の状況を確認してからノックしたほうが良かったか?」


「あなたが言うと、洒落にならないんですが」


「洒落など言ったつもりはない。視覚的に見る力は無いが、それ以外の方法を試してみるという手はある」


 ぶっきらぼうなラオの言葉に、エフライムは苦笑するしかない。


「いえ、私の言ったことは忘れてください。扉を開ける前に中を確認されていたら、おちおちキスもできやしない」


 問うようなラオの視線を、エフライムは受け流し、クリスティーナにウィンクして見せた。クリスティーナは真っ赤になって、エフライムのベッドの側で果物を剥くことに専念しているふりをして俯いている。


 そんなクリスティーナの様子に構わず、ラオはエフライムに薬壜を渡した。


「数日分作ってある。身体が一部でも痺れているうちは飲んでおけ」


「ありがとうございます。でも、ラオ?」


「俺は明朝にもクレテリスに発つ。クレテリスのなんとかって言っただろう、あいつから戻ってこいと矢のような催促だ」


 エフライムは、クレテリス郡をラオに代わって治めているジョエル・カンボンに同情した。


 ジョエルは頭が切れる上に、忠誠心に篤く、バルドルの部下だった男だ。政治に関してはまるっきりダメなラオを支えて良くやっているというのは、王を始めとする身近なものたちの評価だったが、ラオ本人がその男の名前すら覚えていないとは。


「ジョエルですよ。ジョエル・カンボン。名前ぐらい覚えなさい」


 やれやれ…とため息をつきながら、エフライムはラオに言った。


「努力はしている」


 ラオもちょっとは悪いと思っているのか、いつもの歯切れの良さはなく、ぼそぼそと答えた。エフライムはぷっと吹きだす。


「まったく。万能なあなたが、どうして人の名前は覚えられないんでしょうね」


「万能じゃないと言っているだろう」


「どっちでもいいですよ。いろいろ出来ることは確かなんだから。ともかく、ジョエル・カンボン。手にでも書いておきなさい。名前を呼んでもらえないと、相手は拗ねますよ」


 ラオがじっと自分の手を見つめた。


「クリスティーナ、ラオにインク壜とペンを渡してあげて」


「でも、バース様…」


「いいんですよ。それぐらいさせなさい」


 おずおずとクリスティーナがインク壜とペンを差し出すと、ラオは真面目な顔でなにやら手に書き付けた。それを見て思わずエフライムの目が丸くなる。


 自分でやらせておきながら、あまりにも素直なラオの反応に吹きだしそうになるのを、寸でのところで押し留めて平静を装った。


「そうそう。ちゃんと名前を呼んで挨拶するんですよ」


「わかった。おまえこそ、ちゃんと薬を飲め」


「わかってます」


「それと…」


 ラオが何かを言いかけた。それをエフライムが目で制す。


「分かってます。陛下と、その他もろもろ、任せてください」


 エフライムの言葉を聞いて安心したように、ラオはエフライムに頷くと、くるりと背を向けて扉を開けて出て行った。


「やれやれ」


 エフライムの声に安心したのか、クリスティーナが詰めていた息を吐き出すように、深呼吸をする。


「変わっていらっしゃいますわね。クレテリス侯爵様は」


「悪い人じゃないんですよ。人付き合いはヘタですけど。いたって素直な性格なんです。それがなかなか理解されないのが、彼の可哀想なところですね」


 さっき手に文字を書いていたラオの姿を思い出して、エフライムはくすくすと笑った。


「まさか本当に書くと思っていませんでしたよ」


 その言葉にクリスティーナが目を見開く。


「まぁ。クレテリス候をおからかいになったのですか?」


「まあね。どんな反応をするか見たかったんですよ。でも思ったとおりというか、予想どおりというか。ふふ」


 エフライムの笑みに、クリスティーナの控えめな笑みが重なる。ふっとエフライムの笑みが止んで、クリスティーナの頬に手が添えられた。


「まぁ、愛すべき遠見殿も消えたことですし、続きをしましょうか。クリスティーナ」


 クリスティーナの頬がほんのりと染まり始め、エフライムの側へと近づいていった。








 静かな夜の帳の中で、微かな音が聞こえた気がしてエフライムは目を覚ました。まだ軽い痺れば手先に残っていたが、動くのに支障はない。音は弦を弾く音で、微かながらはっきりとした音律を持っていた。


「竪琴?」


 どこかの部屋でひいているのだろう。強く奏でるのではなく、隠れるように爪弾かれているその音は、柔らかな音楽を紡ぎだしていた。


 ベッドの中で目を瞑ると、ふっと幼いころに近所で流れていた竪琴の音を思い出した。それはこんなゆっくりとした上品な曲ではなく、踊るために用意された元気一杯の曲だった。曲にあわせて芸人たちが踊り、報酬を得ているのを、よく遠くから眺めたものだ。


 憧れていた世界だった。光の中で動きまわる人々が報酬を得ていく。いつか、自分も光の中で生きたいと、それだけを考えていた気がする。


 琴の音色が変わる。先ほどの優しい音楽から、少し物悲しいものへと。


 その曲は小さい音ながら、ゆっくりとエフライムの感覚を過去に引き戻していく。やせ衰えて栄養失調で死んだ妹。病気で死んだ母。


 エフライム自身が幼かったゆえに、あまりはっきりしない面影が、エフライムの中の焦燥感を思い出させる。


 あの時、今の自分の力があれば…。曲のテンポが少しだけ早くなる。それはエフライムの過去の焦りと覚悟を思い起こさせた。血塗られた自分の手。這い上がるために、過去にするために、すべてを流れる他人の血の中に沈めてきた自分の手。


 ふっとまた曲調が優しいものに変わる。包み込むような、癒すようなその音色に、いつしかエフライムの思考は途切れ、眠りの中へと引き込まれていった。






 アレスの身の周りでは、着飾った地方の有力貴族の娘が一生懸命世話を焼いていた。ライサはそれを遠巻きに見ている。「近づかないで」というオーラが、同じ小間使い仲間のはずなのに、アレスの側にいる娘から出ているのだから仕方ない。


 とりあえず控えているのも仕事のうちだろうと考えて、ライサは側で所在無げに立っているしかなかった。今朝早くにラオは数人の供を連れて旅立っていった。一人で行きそうになるのを押し留めて、付き人をつけるのは大変だったようだ。ラオらしい。


「ライサ」


 アレスが手招きする。


「はい」


「今朝は、総司教イエフ・シャインと、そのご息女のセレーネ・シャインが一緒に朝食を取るんだ。ライサは僕の小間使いとして、一緒に来て控えていてくれる?」


「かしこまりました」


 アレスの側にいた娘が睨んだけれど、ライサはその視線を無視した。それどころではない。「俺がいないときは、必ずどちらかと一緒にいろ」というラオの言葉が頭を巡る。その瞬間に気がついた。


「ラオの代わり?」


 ぽそりと声が出る。慌てて口を抑えて周りを見ると、誰も聞いていなかったらしい。ほっと息をつく。そして、まだ用意をしているアレスを見ながら、ゆっくりと考えるを巡らせた。


 ラオの代わりならば期待されているのは、マギとしての力のはずだ。だが…ライサにはラオのような予知能力も、攻撃能力も持っていない。あるのは樹木を感じる力だけ。


「私に何ができるの?」


 自分に対して呟いて、思考をまとめようとしながら、食堂へと歩いているアレスに従った。



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