第1章 サロン(2)
その言葉にライサが眼を見開く。何を言いたいのだろう。ラオは…。そう思ったとたんに、ラオがライサとマリアの方を向いた。
「俺が信用できる人間を、アレスに…陛下につける。おまえたち二人だ。陛下の側に居てくれ」
「でも…あの…」
ラオは盾と言ったのだ。ライサに何ができるというのだろうか。おずおずと問おうとしたところで、テノールの声が柔らかくライサの耳に入ってくる。
「大丈夫ですよ。陛下には近衛がついていますから。心配せずに。ラオが盾と言ったのは心理的な意味で…なので、物理的な意味は含まれていません。私からは、クリスティーナに同じことをお願いする予定…というか、お願いしますね」
エフライムの視線に、クリスティーナが慌てて「かしこまりました」と返事をして、頭を下げた。ラオがちらりとエフライムを見るのを視線で制して、エフライムは言葉を続ける。
「ちょっと一部話が逸れましたが、三人に陛下のお世話をお願いしたらよいだろうと言うのが、ラオと私の提案です」
そこまで話したところで、軽いノックの音が響いた。アレスが入るように言うと、おずおずと扉が開いて、小太りの中年男性が入ってくる。くるりとしたまん丸のこげ茶の瞳と丸い鼻が、人の良さそうな雰囲気を醸し出している。財務大臣、サイラス・ホール。ライサは頭がクラクラしてくるのを感じた。ヴィーザルを動かす王と四役のうち、神殿の総司教を除いて、揃ってしまっているのだ。しかも王の居室で。そんな場所に、この国では一介の小間使いに過ぎない自分がいること自体が不思議だった。
「遅くなりましてすみません」
ライサの思考を引き戻すように、サイラスの声が部屋に響く。サイラスは慌てたように王に向かって挨拶をすると、きょとんとした顔で三人を見た。
「えっと…。ライサ・バルテルスとマリア・ショブン、それにクリスティーナ・ペンノですよね?」
「そうだよ」
ライサとマリアが返事をするよりも早く、アレスが返事をする。
「この三人を僕の小間使いにしようと思うの」
まるで自分のおもちゃを増やす子供のような口調で、アレスが気軽に言った。サイラスが眉を顰める。
「陛下。何度も言いますが、こういう人事は理由なく行ってよいものではありません。気分で決めていたら、規律というものが乱れます」
ぴしりと言うサイラスの口調は、まるで父親が聞き分けのない子供に言うようだった。それに笑ってアレスが答える。
「理由がないわけじゃないんだけどね。ラオとエフライムの推薦」
その一言で、サイラスの視線がラオに移る。ラオが肯定すべく頷いた。次にエフライムに視線を向けると、エフライムの唇の両端が持ち上がる。
サイラスは考え込むように視線を天井に向けた。マギであるラオの推薦ということは何かあるのだ。自分が伺いしれないところで。それにエフライムからも推薦ということは…。今それを小間使いたち三人の前で聞くことはさすがに憚られた。疑問はあとで解消することにして、さっと思考をまとめる。
エフライムのところは数多くの小間使いが居て、希望者も多い。問題はラオのところだった。再度ライサ、マリア、クリスティーナと順番に視線を投げかけてからアレスを見た。
「それで? メリクリウス様のところはどうするんです? ただでさえ人が少ないのに」
アレスがにっこりと微笑んだ。その微笑にサイラスは悪い予感がするが、視線をそらすことはできない。
「それをサイラスに頼みたいんだよね」
サイラスはため息をついた。陛下は何かを決めてしまってから、サイラスに後始末を依頼することが多い。
「サイラスだったらできると思うから、よろしく」
すばやくアレスが付け加えた。この一言に弱いのだ。陛下から信頼を受けていると思うと、思わず頑張りたくなる。まったくこれではどちらが年上か分からない。
サイラスはもう一度ため息をついて、頭の中で現在いる小間使いたちを思い浮かべた。
財務大臣であるサイラスの下には、料理長、女中頭、執事という、城内の細々したことを取り仕切る三役がついている。その女中頭の下にいるのが、各貴族付きの筆頭小間使いで、そしてその下に個別の小間使いがいる。うまく調整すれば何とかなりそうだった。特にラオは手がかからないので、人数が少なくともしばらくは問題ないだろう。とは言え、早急に女中頭には相談しないといけないし、陛下の筆頭小間使いにも話を通しておかないといけない。
ラオの筆頭小間使いであるマリアを引き抜くというのだから、後任を決める必要がある。さっと顔ぶれを頭の中に浮かべる。そして、シフトも組み直させないとならないし…。
瞬時にそこまで算段してから、サイラスはアレスを見た。なんとかなりそうだった。
「わかりました。陛下。なんとかしましょう。でも次からは必ず、本人たちよりも先に私に話をくださいよ」
「そうだね。次回はそうするよ。ありがとう。サイラス」
アレスは躊躇いもなくそう言って、にっこりと笑う。サイラスの苦情がアレスの内には届いておらず、笑顔の表面で漂っているのは明らかだった。ため息を出したいが、さすがに立て続けに三回はまずいと考えて、深呼吸でやりすごす。やるせない気持ちで、サイラスは視線をバルドルに移した。バルドルの無表情な顔とは裏腹に、かすかに腹部が震えていて笑いをかみ殺しているのが分る。いつものやり取りなのだ。サイラスとアレスの。
助けを求めるような視線を投げると、あからさまに避けられる。まったく。サイラスを財務大臣に引き上げてくれたのはバルドルを始めとするここにいるメンバーだが、アレスに無茶をさせてサイラスの仕事を増やしているのもここにいるメンバーだった。
「頼みますね」
アレスだけではなくて、バルドルやエフライム、そしてラオを見ていう。バルドルは軽く右目を瞑ってみせた。エフライムは右手の人差し指を一本だけ軽く立ててみせる。了解の意図だろう。そしてラオはじっとサイラスを見つめた。それを了解の意思だとサイラスは勝手に理解して、すこしだけ気が晴れた。
一方、頭の中が混乱しているのはライサだった。何もできない小間使いであるということを充分自分で理解しているのだ。自分のことは自分でできてしまうラオに付いていたからこそ、なんとかそれらしく振舞っていたが、アレスの側であれば、自分がいかに能無しかということが暴露されてしまうだろう。身寄りのないライサとしては、それで役立たずとして城から放り出されるのは困る。泣きたいような気持ちになりながら、思わずラオを見つめた。ラオがその視線に気づいてため息をつく。
「おまえは何もしなくていい。ただアレスの…陛下の側に居ればいい。そして時がきたら俺の代わりに陛下を守れ」
ライサの思考を読んだように呟いたラオの言葉は、ライサを貫くように頭の中に響いてくる。ラオは言ったのだ。俺の代わりに守れと。そして先ほどエフライムは物理的には近衛がいると言った。その意味は…。
「怖れながら陛下。この場で発言することをお許しいただけますでしょうか」
それまで黙っていたマリアが、すっと頭を下げて声を発した。
「どうぞ」
アレスが気軽に言う。
「先ほどクレテリス侯爵様が、おっしゃったように」
マリアが喋りかけたとたんに、アレスが止めるような仕草で手を振った。それに気づいてピタリとマリアの言葉が止まる。じっと皆の視線がアレスに集まる中で、アレスが困ったような笑みを浮かべた。
「遮ってしまってごめんなさい。でもちょっと待って」
「はい」
マリアが怪訝な顔をしながら返事をする。アレスはラオへ視線を向けた。
「ラオ、一つ確認させて。ライサとマリアのことは信用しているんだね?」
ラオが黙って頷く。
アレスの視線がエフライムに向く。
「エフライムはクリスティーナを信用している?」
エフライムが微かに笑みを浮かべる。
「陛下…黙っていて申し訳なかったのですが、彼女は私の恋人なんです。恋人を信用しない人間がいると思いますか?」
その途端にクリスティーナがさっと頬を赤らめた。アレスがびっくりしたように眼を見開く。
「そうなの?」
「ええ。でも城内では黙っていてくださいね。彼女のファンが多いので、私が殺されますから」
軽い口調でそう付け加えると、エフライムはアレスに片目を瞑ってみせた。ライサは思わずエフライムとクリスティーナを見比べる。城内で全ての女性を虜にするといわれているエフライムだ。それはライサも例外では無かった。エフライムの柔らかい物腰と人懐っこい雰囲気は、誰でも魅了する。そして美女と名高いクリスティーナの二人は、お似合いとも言えた。口惜しいことに。なんとなくライサの心の中に苦い思いが広がっていく。エフライムと親しいわけではない。ラオの側にいたことで、数回言葉を交わしたことがある程度だ。それでも特定の恋人はいないと思われていたエフライムに、実は恋人がいたというのは、なんとなくライサの気持ちを消沈させた。
「えっと…。まあ、それなら、それで…いいって言うことで…。バルドルは?」
アレスが歯切れの悪い口調で言い募ってから、バルドルへ話を振る。自然と皆の視線がバルドルに向いた。
「わしはこの三人とは接点が少なすぎて、判断できん。だがラオとエフライムがいいと言うなら、いいじゃろう」
アレスは満足そうに頷いて、サイラスに視線を移す。サイラスは苦笑した。
「ここまで来て、私に選択肢があると思うんですか? 陛下」
「でも意見は聞きたいよ」
サイラスは肩をすくめた。
「三人とも仕事に対しては真面目です。業務能力の有無は別ですが、ちゃんとやろうという気持ちは見えますね」
ライサになんとかウィンクだと判明できるものを送ってから、サイラスは視線をアレスに戻した。
「じゃあ、いいよね。カードは全部オープンで」
アレスの言葉に皆が怪訝な顔をする。
「めんどくさいのが嫌なんだよ。何とか公だの、何とか伯だの」
バルドルとサイラスが嘆くような視線を素早く取り交わす。エフライムは額に手を当てて俯いて見せた。
「はーい。じゃあ、僕が紹介しまーす」
そう言うと、アレスはすとんと立ち上がった。
「ここにいるのは、仲間! いい? こっちはバルドル。僕のお祖父様みたいなもの。こっちはエフライム。僕のお兄さんみたいなもの」
そして小走りに移動すると、ラオの隣に立つ。
「ラオです。そう言えば、ラオもお兄さんみたいだよね。お父さんかな。いつも心配してくれるから」
その言葉にラオが憮然とする。
「こんな大きな子供を持った覚えはない」
その言葉にエフライムが吹きだした。アレスはラオの言葉が聞こえなかったかのようにサイラスの横にくる。
「お父さんと言えば、サイラスだよね。僕のことを真面目に叱るもんね」
サイラスが困ったような顔をする。その顔を楽しそうに見て、アレスはマリアの横に立つ。
「マリア、僕の上司だったんだよ」
マリアが慌てたように口を開きかけると、アレスが悪戯っぽく笑いかける。
「こき使われたよね」
「あ、あれは知らなくて…」
「いいの。いいの。ここではあの調子で居て」
マリアが謝罪しようとするところを、ひらひらと手を降って拒否すると、アレスは元の位置に戻っていく。そしてクリスティーナ、ライサ、マリアの顔を順番に見るとにっこり笑った。
「ようこそ。僕のサロンへ。ここでは無礼講。遠慮なし。ついでに名前はお互いにファーストネームで呼び合うこと。ここでは僕たちは同等の仲間だからね。いい?」
訳もわからずに、三人がまじまじとアレスの顔を見詰めていると、アレスが椅子に座りなおした。その瞬間に今までの笑顔が消える。
「僕の暗殺をしようとしている人間がいるんだよ」
さらりと言ったアレスの言葉が、場の人間を貫いていく。ライサも血の気がひく思いだった。誰かがこの少年を殺そうとしているというのが信じられない。微かに風が起こって衣擦れの音がしたかと思うと、いつの間にかエフライムがクリスティーナの側にいて、その細い身体を支えていた。クリスティーナの顔色は真っ青になっている。ライサ自身も頬に手を当てると、ひんやりとした感触がした。顔色を変えなかったのは、議題を知っていたらしいエフライム、ラオ、バルドルの三人だけで、サイラスも青ざめた顔をし、マリアも驚いたように目を見開いている。
「だ、誰がそんなことを…」
サイラスが震えた声を出した。
「まだ分からないんですよ。食事の中に毒が入っていたぐらいで。毒見役がちょっと体調を崩しましたが、大事には至りませんでした」
エフライムがクリスティーナの横から答えた。アレスが肩をすくめた。
「僕が狙われていると、被害は周りの人間に及ぶんだ。だから被害が大きくならないうちに、ここにいる仲間で阻止する。誰が狙っているか分からないから、隠密に。信用できる人間だけを集めたからね。話は急ぐ必要がある。僕はあなたたちを信用する。だから、まどろっこしいことは止めよう。力を貸して欲しい。僕を狙っているのは誰なのか。何が目的か。それを突き止めよう」
ライサの頭の中にアレスの言葉が響いていく。射抜くようなアレスの瞳がライサを見つめていた。
『僕はあなたたちを信用する』
頭の中でアレスの言葉が響いた。ヴィーザルの王が、決して友好とは言えない隣国から来たライサを信用しようとしている。
「あの…なぜ…」
ライサは思わず許可を求めるよりも先に、声を発していた。それは無意識だった。その言葉に、アレスの瞳が優しさを含む。再びアレスは椅子から立ち上がると、ライサの前に来た。
「僕は、ラオを、エフライムを、バルドルを、サイラスを、信頼している。それは絶対の信頼なんだ。彼らは僕を裏切らない」
その言葉に四人の男たちの顔がさっと引き締まるのを、ライサは感じた。王の絶対の信頼。裏切らないと言い切るほどの信頼をしていると言う。アレスの言葉は真摯な響きを帯びていた。
「その彼らが信用する人間を僕は信用したい」
ライサは、アレスをまじまじと見つめた。アレスの瞳はまっすぐにライサを見つめてくる。
「あ…」
その瞬間、ライサはこの少年に心を奪われていた。この少年の助けになりたい、この少年の役に立ちたいと願っていた。いつか自分もこの少年の「絶対の信頼」を勝ち得たいと思っていた。理屈ではないのだ。王だからではなく、この少年だから護りたいと、ライサは思った。
「お役に立てるか分かりませんが、私にできることであれば、なんなりと」
ライサは思わずアレスの前に膝をついていた。マリアがその横に跪く。そして反対側にはクリスティーナが。三人の姿を前にアレスがにっこりと笑った。
「三人とも、頼んだよ。僕を助けてね」
「はい」
三人が口々に返事をする。それをアレスが順番に手を差し伸べて立たせていった。そしてアレスは軽く首を傾けて、何かを思いついたような顔をする。
「言ったでしょ? 僕たちは仲間だって。跪く必要は無いんだ。そしてこの場所では、アレスって呼んでね」
楽しそうな光を眼に宿してアレスは言うと、椅子に戻って座りなおした。三人が困って顔を見合わせていると、エフライムがくすくすと笑いだす。三人の問うような視線が集中したところで、エフライムが笑いを収めて皆を見た。
「失礼。最初は皆戸惑うものなんですよ。アレスのやり方にはね」
「まったくじゃ」
バルドルが肯定する。サイラスがため息をついた。
「私なんか今だに振り回されっぱなしです。アレス…こうなったら勝手に椅子持ってきますよ。いいですね」
アレスの返事を聞くまでもなく、サイラスは奥の扉を開けていくつかの椅子やオットマンをひぱってくる。それをラオが無言で手伝った。用意された椅子にクリスティーナが座るのを手伝うと、エフライムは最初に居た位置に戻っていく。アレスの後ろの壁に身体を寄りかからせて楽な姿勢をとって、座る意思がないことを示す。そしてそれぞれが椅子を確保して座っていくのを眺めていた。
エフライムは内心で、アレスのやり方に舌を巻いていた。なかなかどうして。わずか十三歳だというのに、人の心を捉えるのに長けている。天性のものか、または教育係でもあるバルドルの教育の成果か。多分、半々だろう。エフライムがアレスと出会ったときも、すでにその頭角は表していたのだから。そうでなければ、あの人付き合いがヘタで世捨て人のようだったラオを、側近として引き込むことはできなかったに違いない。
『絶対の信頼』アレスの言葉を頭の中で反芻する。計算して言ったものではあるまい。アレスは心からそう思っているからこそ出てきた言葉だ。エフライムは自分の胸の内に浮かんだくすぐったいような感覚に苦笑した。
エフライムを除いたそれぞれが椅子に座り、アレスを見ている。その眼に浮かんでいるのは忠誠とか、母性本能とか、護りたいという気持ちとか、そういうものだった。まるで自分の弟を、息子を、孫を、見るような目で、アレスを見ている。
「じゃあ、始めようか。遮ってしまって悪かったね。マリア、どうぞ」
アレスが軽く言ってマリアに頷いた。緊張した面持ちで、マリアが口を開きかける。
「先ほどクレテリス侯爵様が」
そこまで言って、アレスとラオの強い視線を感じて、マリアは口を閉じた。深いため息をついて、覚悟したように顔をあげると、ラオに視線を合わせる。
「本当にいいのね?」
「気にするな」
ラオのぶっきらぼうな声が答える。マリアが諦めたように軽く頭を振ると、アレスに視線を移した。
「後で無礼だったって罰するのは止めてよ?」
「しないよ。そんなこと」
にっこり笑って、アレスは即答した。




