受難(4)
翌朝。ジョエルが気づいたときには、綺麗にラオの痕跡は無くなっていた。前日、あれだけ説明をしたのに館から消えてしまったのだ。
「いらっしゃったか」
ジョエルを見つけて走り寄ってきたオズワルドに声をかければ、息を切らしたままで彼が答えた。
「いらっしゃいませんが…馬が一頭、馬小屋から消えています」
「何だって?」
あれだけ話をし納得したと思ったのに、まさか城に戻ってしまったのだろうか。
「とにかく行き先を探すんだ」
「はい」
「土地のものには気づかれないように」
「はい」
オズワルドが頷いて、ラオに付き従ってきた数人のものたちと一緒に、また走り出していく。
外を探すか。いや。もしかしたら、まだ館の中にいるか。
「おや。…城主殿のおつきの…」
くるりと振り返れば、フランツだった。ジョエルは急いで笑みを顔に貼り付ける。
「閣下はいかがいたしました」
「まだお部屋で休まれていらっしゃいます」
とっさに嘘をつく。
まさかと思いたいが、本当にここを投げ出して城に帰ってしまっていたのだとしたら、できればこっそりと引き戻したいと思っていた。
ところがフランツは驚いたように目を見張った。
「先ほどは館の中を精力的に歩きまわっておられましたが、疲れてしまわれたのですか?」
なんだって? 思わず声が出掛かって、寸でのところで口を開かずにすませる。
歩き回っていた?
「それは…どの辺りですか?」
「おや。ご存知なかったのですか? 朝早くから台所へ入ったらしく使用人たちが戸惑って私に連絡をしてきたのですよ。あのような場所へ入られるのは、どうかと思いましたのでお止めしましたが、お聞き入れいただけなくて…」
ジョエルは頭を抱えそうになった。
まさに昨晩話していたとおりだ。民が望むことを民に聞く。いや。それにしても唐突過ぎる。
「結局黙って長い時間、仕事ぶりをご覧になってから、次は掃除をしているものの後をついてご覧になっていらっしゃいました。その次は馬小屋です」
「はぁ」
「途中で私も追い払われましたので、その後はどちらにいらっしゃったのかわかりませんが…」
そこでフランツはちらりとジョエルを見る。
「そう言えば、少々耳にした噂がありまして…あの方はどのような方なのですか?」
「それはどういう…」
「貴族とは思えない立ち振る舞い。失礼かと思いますが…本当にイリジアにいらっしゃった貴族の方なのですか」
ジョエルはその言葉に一瞬だけ考え込んだ。
なんと答えるのが良いのだろうか。確かに言われてしまえば貴族の家系とは言えないかもしれない。
しかしネレウス王の側近であり、遠見だったフォルセティの息子なのだ。誰とも知らないものとも言えない。それにアレス陛下の信頼も厚く、エフライム・バース近衛隊長とも、バルドル・ブレイザレク国務大臣とも親しくしている。
「どこの方とも知れない方をこのグィード村に…クレテリス郡に領主としてお迎えするのは…不安な部分もありますので」
ジョエルの沈黙をどのように受け取ったのか、フランツはなおも言い募る。
「もしもあまり慣れていらっしゃらない方でしたら、私が代行させていただきますが」
「なんですって?」
ジョエルの問いにフランツが綺麗に微笑む。
「いえ。もちろん領主は閣下です。しかし領土を治めるということは、いろいろありますので、そこは微力ながら私がお手伝いさせていただければと…そういうことです」
「クレテリス候には、私がついていますが」
「もちろんですとも。けれどもこの土地のことはお詳しくないかと。いかがです。土地のことは土地の者にお任せいただければ…。もちろん悪いようにはいたしません」
あまりの言い草にジョエルが黙っていると、フランツはなおも媚びるように微笑んだ。
「お好きなことをなさっていらっしゃる間に、領土はきちんと治められるのですから、良いお話かと」
信じられない言い草だ。なんと言えばいいのかわからないままに、何も言えずにいるとフランツが頷いた。
「ご理解いただけて嬉しいです。何と言ってもここは私の故郷ですから。どうぞお任せください」
「いや。ちょっと待ってください。そんなことは私が決められることではありません」
「もちろん。そうですとも。後ほど閣下に了承を取りましょう。あなたが賛成してくださったとなれば、閣下も文句は言われますまい」
「いえ。私は賛成など…」
慌てるジョエルに対して、フランツがゆっくりと首を振る。
「分かっておりますよ。お立場ありますでしょうから。ここは私にお任せください」
「い、いや」
「それでは失礼」
言うだけ言うと、フランツは優雅に挨拶をして去ってしまった。後には茫然自失したジョエルだけが残される。
「何てことだ…」
まさかラオがあのような馬鹿げた提案を飲むとは思えないが、とりあえず彼を探し、いち早く状況を説明する必要があるのは明らかだった。
ラオが居室に戻ってきたのは、陽が落ちた後だった。
ドアを開ければ、ジョエルが恨めしそうな視線で睨んでくる。
「どこへ行っていたんですか」
「街だ」
「何故です」
とたんにラオがいぶかしげな表情になる。
「お前が言った。民の声を聞けと。昨晩は遅いから、明日に行けと。だから夜が明けてから館の者たちに会い、村の者たちに会いに行った」
もしかしてと思っていた通りの答えに、ジョエルは脱力しそうになる。
「どうしてお一人で行ったのですか」
「一人でいるのは慣れている」
「そう言う問題ではありません」
「いけなかったのか?」
「いけません」
「俺はアレスではない。守られる必要はない」
ジョエルはため息をついた。
「立場ある人間は一人で出かけたりしないんです」
「そうなのか? だが、エフライムもバルドルも一人で出かけることがある」
「はい?」
それは初耳だった。いや。だが彼らならやりそうだ。
「アレスも一人でよく抜け出そうとする」
「いや。陛下と一緒にしないでください」
「イリジアでは一人で歩いていたが…」
「ここはグィード村です。あなたの所領です。領主が一人で出歩かないでください」
ラオは暫く考え込んだのちに、ジョエルに視線を戻した。
「悪かった」
素直に謝られてしまい、逆にジョエルのほうが焦った。この場合はどうしたらいいんだろうか。
「わ、分かればいいんです」
「ああ。分かった」
「それで…」
収穫はありましたか? と尋ねようとしたところで、部屋にノックの音が響いた。
ジョエルが応えれば、ドアが開いて使用人が立っている。何かと思えば、晩餐会の用意ができたという知らせだった。
これにはジョエルも眉を顰めた。さすがに二晩続きはやりすぎだ。グィード村は本来裕福な村ではないのだから。
だが一方でラオのほうはそうでなかったらしい。
「今夜もあるのか。それなら手間が省けた」
そんな呟きをもらしている。
「手間?」
「お前が言っただろう。俺が信頼できる者を探せと」
「言いましたが…」
「晩餐会に集まれば探しやすい」
「まあ、そうですが…」
酔っ払いが集まる中で信頼できる人物を見つけられるのかと、ジョエルはいぶかしんだが、どうやらラオには何か考えがあるらしい。
「ついてこい。晩餐会へ行くぞ」
昨晩と打って代わってラオは乗り気だ。
それにジョエルは水を差す。
「服は着替えてください。その格好ではダメです」
ラオはいつもの真っ黒な服装をしていたのだ。あの黒尽くめの服装も持ってきていたのかとジョエルは驚きつつも、それはそれでラオらしいと思っていた。
少しばかりこの新米領主のことが分かり始めた気がする。
きっとジョエルの言葉に素直に反応するだろう。
「この服装ではダメか」
「ダメです」
ほら。
ラオは自分の服装を見て、着替えるために部屋の奥へと向かっていった。
「着替えたらお迎えにあがりますから、ここで待っていてください」
「一人でもいける。場所はわかる」
「それでもダメです。領主ですから」
ラオはため息をついたが、それ以上は何も言わずに素直に頷いた。




