受難(1)
最初にその話を聞いたときに、ジョエル・カンボンは耳を疑った。
相手がよく知る人物で、こういうときには冗談を言う性質ではないと知っていても、冗談であって欲しいと願う。
「すみません。もう一回言っていただけますか」
「聞こえんかったか?」
目の前では上司であるバルドルが、長い顎ひげを撫でながら視線を送ってくる。
いい年だと思えるのに、今もなお現役の武人であるバルドルの視線は鋭い。
それを受けるジョエルは三十代前半で武人であり、がっしりとした体格に焼けて浅黒い肌をしていた。肌にあわせたような濃い茶色の髪に、茶色の瞳。
全身が茶色というのが、初対面の人物がジョエルに抱く感想だろう。
バルドルがじっとこちらを見ているのをジョエルは感じていた。
だがその視線に負けてもいられない。じっと見つめ返す。
とたんにバルドルの視線がそらされた。
「おまえさんにグィード村に行ってもらいたいじゃよ。クレテリス郡を治める手助けをしてもらいたい」
視線を逸らしつつも言いたいことを言うバルドルに、ジョエルも負けてはいられない。
アレス国王陛下が戻ってきて二年。同じ長さをバルドルと共にいたのだ。
伊達にバルドルの下で働いてはいない。言いたいことを言ってもいいと、常日頃から言い続けているのはバルドルだ。
「私にも所領がありますが」
「わかっとる。そこはそのままでいい。グィード村の一帯は、クレテリス郡としてイリジア州に入ることになったんじゃ」
「はい? かなりの距離がありますよ?」
「その通り。特別措置としての飛び地じゃよ」
「そこを私に治めろと?」
バルドルの視線が戻ってきてジョエルを射抜く。
「いや。治めるのは別の人間じゃ。新米領主を据える。お前にはその手伝いをしてもらいたい」
ジョエルは頭が痛くなってきた。つまり自分の所領は守りつつも、田舎の地であるグィード村まで行って、人が治める領地を代わりに治めてこいということだ。
「無茶苦茶です。領主がいるならば、その者に治めさせればいいではないですか」
「それができれば苦労せん」
「では無能な領主から領地を没収するべきです。与えるべきではありません」
「それもできん」
ジョエルはイライラしてきた。ちっとも話が見えてこない。
「一体、誰なんです。その新米領主は」
「知りたいか」
「当たり前です。仮にも私がその話を受けたら、私の上司になるではないですか」
「ラオ・メイクレウス」
一言で答えた後で、バルドルがにやりと笑った。
ラオの名前は、さすがのジョエルも知っていた。王の傍についている遠見。実はマギだというのは公然の秘密だ。
雨を起こし、風を起こす。矢を跳ね返した。ひと睨みしただけで兵が動けなくなった。
噂で出てくるラオの力は計り知れない。
ジョエルは見たことがないので、話は半分…もしかしたら1/10 ぐらいだと思って聞いているが、それでも得体の知れない力を持っているのは、どうやら本当らしい。
加えて思い出すのはグィード村だ。
かなり閉鎖的な村で、マギ狩りが行われているという話を聞いたことがあった。
まさか…。
そう思ってバルドルの顔を見れば、唇の片側だけが意地悪く上がってくる。
「目には目を。マギを信じている連中には…ま、これ以上は言えぬが、そういうことじゃよ。もうここまで聞いたら、後には引けぬぞ。ジョエル」
例えとして間違っているとは思うのだけれど、それどころではなかった。
そんなところに行ってしまっては、苦労するのが目に見えている。なんとしてでも断らなければ。
そう思ったときだった。
「陛下にもお前を推薦したところ、非常にお喜びになって『よろしく頼む』とのお言葉を受け取った」
「いや。ちょっとっ」
「何? お前は陛下じきじきの勅命を断るつもりか?」
「いえ…あの…」
やられた。
気づいたときには後の祭りだ。陛下の名前まで出されては、引くに引けない。
「よし。ジョエル。ラオのことをよろしく頼むぞ」
ぽん。軽くジョエルの肩を叩くと、バルドルはにやりと人の悪い笑顔を見せた。




