第6章 真ん中(2)
アルマンが去って、呆然と座っているうちに日が傾いてきた。納戸の中は、もう細部が分からないほど暗くなっている。外では慌しく明りが灯される音とパチパチと火がはぜる音がし始めた。
はっと気づいて、自分の肩口にごしごしと唇をなすりつける。唇に残るまったりとした感触が気持ち悪かった。オージアスにキスをされたときには、こんな気持ちにならなかったのに。驚いたけれど、気持ち悪いとは感じ無かったのに。
唇を肩口にこすりつけているうちに、涙が溢れてくる。あんなにも憧れたアルマンとの口づけが、こんなものだったとは…。自分が思っていた「好き」という感情と、アルマンが男として持っていた「好き」という感情に、大きな隔たりがあるということを、ライサは思い知った。
次に頭に浮かんだのは逃げるということだった。このままこの場所にいるわけにはいかない。こんな気持ちのままアルマンの花嫁になれるわけがなかった。後ろ手に縛られた手を動かしてみる。ビクリともしない。
足が自由なのは幸いだった。とりあえず立ち上がって周りを見回す。
ライサが座っていた場所の隣には草の山がおいてあり、その向こうには木箱が山積みにしてあった。さらにその向こうの壁際に、鋤や鍬がおいてある。上手くすれば、その刃で手を縛っているロープを切れるかもしれない。ライサは、草山に登ろうと藁の中に足を踏み入れた。
そのときカサリ…と音がした。自分がさせたのではない音だ。上の方からホコリが落ちてくる。ライサが不思議に思って視線を上げると、納屋の天井の板が一枚外されているのが見えた。
「え?」
そのまま見ていると、ひょいっと髭だらけの顔が覗く。
「ユ…」
ユーリーと叫ぼうとして、慌ててユーリーが自分の唇に指を当てて、声を出すなと合図したので、その呼び声を飲み込む。一本のロープがするすると上から降りてくると、それに器用に足を絡めて、ユーリーが降りてきた。その巨体からは考えられないほどの身軽さだ。
「大丈夫か?」
ユーリーはライサの耳元に囁くと、手早くナイフでライサが縛られているロープを切った。ぱちんとナイフを腰元に戻すと、ライサの前に背を向けて屈み込む。
「背負うから、俺の首に腕を回してくれ。ベルトのところに足も掛けるといい」
ライサは一瞬躊躇したが、恐る恐るユーリーの首に腕を回してしがみつく。ユーリーが立ち上がると、ライサの足は着かなくなる。言われたとおりに、ユーリーのベルトにそっと足をかけた。立ち上がったユーリーは、ちらりとライサが座っていた草の山の隣に目をやった。その瞬間にひゅっと低い口笛が洩れ出る。
「何?」
ライサは自分が何かやったかと思って、ユーリーに囁いた。だがユーリーの視線は、草の隣にある箱の山のままだ。
「すごいな」
「だから何?」
「この匂い、気づかなかったのか?」
ライサは首をかしげた。ユーリーが軽く肩をすくめる。
「首を締めないでくれよ」
軽い口調で行ってから、ライサにウィンクすると、ユーリーは両手ロープを握って、またもやするするとライサを背負ったまま、ロープを登っていった。
「すごい…」
「だから言っただろうが。昔、軽業師だったことがあるのさ」
ライサは眼を見張って、ユーリーの横顔を見た。
「ほとんどの国を回ったんだって。まあ、残念ながら育ちすぎて、さすがに軽業師としてはやっていけなくなったけどな」
すぐに天井が間近に迫ってきた。そこから手が伸びている。ライサは片手を伸ばして、その手にすがりついた。
「到着」
オージアスだった。天井のすぐ裏は屋根の上で、星が瞬いているのが見える。反対側にはラオもいてユーリーが身体を持ち上げている横で、ロープを引き上げていた。
「お帰り。お嬢さん」
オージアスが微笑んだ。ラオが無愛想な顔のままロープをユーリーに渡す。ロープを受け取りながら、ユーリーが下を指差した。
「気づいたか?」
オージアスとラオが覗き込み、眉を顰めた。
「火薬か」
ラオがぼそりと言う。
「凄い量だ」
オージアスも独り言のように呟いた。
「このままにしておくわけにはいかないな」
オージアスがユーリーとラオを見て言った。ラオは渋い顔をしながら、ユーリーは何かに期待したような表情で、頷く。
「何? どういうこと?」
なにやら理解しあっている男たちの間で、ライサは一人訳がわからずに三人の顔を覗き込んだ。オージアスが、ちらりと下に眼をやってからライサを見る。
「トラケルタが軍事行動を起こしそうだっていう話があってね」
オージアスの言葉に、ライサは息を呑んだ。
「ここは国境に程近い位置にある村だ。各地では兵が集められてる。そして、この火薬の量。ここから少し東に行くと国境の街。その向こうは…」
オージアスの視線が東へと向かう。国境の街アイテル。その向こうはヴィーザル王国。
「ほいほい。帰り道を作るか」
ユーリーが、ライサの思考をせき止めるように言って、無造作にロープを近くまで来ている木の枝に投げた。
「おまえ、緊張感なさすぎ」
オージアスが軽くユーリーを睨む。
「こんなところにいたって、何にもできないだろ? まずは降りないとな」
くいくいと、ロープのたるみを引くと、上手い具合にロープが絡まったらしく手ごたえがする。ユーリーは何度かロープを引っ張ってみて強度を確認すると、オージアスの方を見た。
「どうぞ」
その言葉にオージアスが頷く。そして両手でロープを握ると、ゆっくりと空中へ身体を浮かせた。右手、左手と順順に繰り出して、少しずつ枝に近づく。枝まで行ってしまったら次はラオの番だった。ラオも同様にして枝にたどり着いた。
ユーリーが首だけで振り返って、ライサを見た。
「もう一回背負うから」
そう言って、広い背中をライサに向ける。さっきと同じ要領でライサはユーリーの首に腕を回した。
「しっかり捕まってろよ!」
ユーリーはロープをくるりと自分の足の周りに回すと、片手でロープを握り、片手でライサの背を支えると、そのまま空中に身を躍らせた。ライサが驚く暇もないまま、空中でロープを手放して木の枝を掴む。
「まるで親子猿だな」
オージアスが感心とも呆れとも取れる口調で、ユーリーに言った。
「ふふん。まさか俺様が、こんなに身軽だったとは知らなかっただろう?」
「まあな。おまえもたまには役に立つ」
「なに?」
ユーリーがオージアスに言い換えそうとしたときだった。ざざっと音がして、ロープが下に落ちた。ライサが視線を落とすと、ラオが下でロープをまとめているのが見える。
「まずは降りるほうが先だな」
「ああ」
オージアスの言葉にユーリーも頷いた。
「このまま下まで降りるからな」
ユーリーはそう言うと、背中にいるライサの返事を待つ間もなく、軽々と枝を降りていく。その後ろにオージアスがお世辞にも身軽と言い難い様子で、降りていった。




