第4章 森の中(2)
さっと身を翻すと、ライサはオージアスの正面に座り込んだ。オージアスもライサと視線を合わせるように、腰をおろす。
「いい? 私、最初にキスするなら、アルマンとしようと思っていたのよ。それをあんな風に奪うなんて酷いわ」
オージアスは瞠目した。
「奴が好きなのか?」
その言葉に、ライサは自分が何を口走ったか気づいた。頬がカッと熱くなる。しかし、もう後には引けなかった。
「そうよ。悪い?」
オージアスが困ったように視線を下ろし、地面にあった枝を拾いあげる。そして、それを火の中に突っ込んだ。
「悪いとは言わないが…。奴は召使だろう?」
「家人よ。小さいころから、ずっとうちに仕えているんだから」
オージアスが眉を顰めた。召使にしろ家人にしろ同じことだ。
「アルマンはとっても優しいのよ。ずっと私の側に居てくれたんだから」
「やれやれ」
呆れたように首を振って見せるオージアスの態度に、ライサは睨みつけていた目つきがきつくなった。
「やれやれじゃないわ。大丈夫かしら。アルマン。あの人が死んだら、私、生きて行けないわ」
ライサの自己陶酔したような言い回しに、オージアスは肩をすくめる。
「本気にしてないんでしょ」
「してないね」
「ひどい人ね。本気なんだから。第一、心配にならないの? ユーリーのことは?」
オージアスは冷ややかな目でライサを見た。
「あいつが死ぬもんか。だいたい追手は、お嬢さん、あなたを追い駆けていたんだ。だったら男だけの方が安全さ」
「そんな…」
ライサは再びオージアスを睨みつけた。しかしオージアスは冷たい視線でライサを見ているだけだ。
「あのね。オージアス。好きな人が死んだら、自分も死にたくなるっていうもんでしょ? もしそんなことになったら、私だって心臓発作でも起こして死んじゃうかもしれないわ。そうじゃなかったら、本当に好きじゃないのよ。本当に好きな人が死んだら、生きて行けないわ。そういうもののはずよ!」
ライサの言葉に、いままで冷ややかな視線で黙って聞いていたオージアスに、怒りに近い表情が見えた。
「な、なによ」
「いいか」
オージアスが押し殺した声を出す。
「そんなに簡単に死ぬだ、なんだと言うな」
「簡単になんか言ってないわ」
「死ぬっていうことは、戯曲なんかと違うんだ。旅芸人が演じてみせる劇でもない。きれいなものじゃないんだ。さっきまで口をきいて、動いていたものが動かなくなる。顔に何も浮かばなくなる。そして…死んだ人間の身体は腐っていくんだ。肌の色が灰色になっていく。下に置いた部分は、赤黒く。見たことあるか? 体勢を変えたら、まるで打ち身が体中にできているようになってるんだ。そして腐敗臭。人間の腐敗臭は生半可なもんじゃない。一度嗅いだら十日かそこらは忘れられない匂いだ。それがずっと続くんだ。そうしているうちに身体のあちこちに蛆が湧き始める」
「やめて!」
ライサは耳を覆った。オージアスはライサの様子を見て口を閉じる。そして苦い、辛いものを我慢するような表情を浮かべた。
「とにかく…そんなに簡単に死を口にするな」
視線を逸らしたオージアスを焚き火越しにライサは見つめた。あまりに細かい描写。何かを彼に思い出させたような気がしていた。気まずい静寂があたりを押し包む。その静寂を破りたくて、ライサは咳払いをした。
「で、でもね。だ、誰を好きになろうと、私の勝手でしょ。それをあんな…。本当に信じられないわ。もうちょっと考えなさいよ」
心持ち明るい声でいう。もうそんなに怒っているわけではなかったが、少なくとも静寂よりはマシだった。
「仕方ないだろう。俺は器用じゃないんでね。女性を慰める方法なんていうのは、知らないんだ」
「唯一の方法があれっていうわけ? 一体どこの馬鹿よ。そんなのあなたに教えたの」
オージアスがふと黙った。また、あたりを静けさが包んでいく。ぱちぱちと火がはぜる音だけがライサの耳に聞こえている。今まで意識できなかった虫の声が、そこに混ざって聞こえてきていた。黙ってしまったオージアスの顔をライサが覗き込もうとしたときに、彼が息を吸い込んだ。
「俺の恋人だ。泣いてるときには、キスぐらいしろってね」
オージアスが吐く息に乗せてつぶやいた。俯いてしまって表情は見えないが、搾り出すような声は、普通に恋人のことを語るものではない。ライサはオージアスの俯いた姿を炎の向こうに見た後に、すっと立ち上がって彼の隣に移動した。
「その恋人には…振られたの?」
俯いたままオージアスが首を振る。
「死んだ」
ライサは息を呑んだ。恐る恐る言葉を続ける。
「なぜ?」
「病気だ。流行のね」
「うそ…」
「うそなもんか。俺の目の前で苦しんで、死んで、腐っていった」
ライサは何かを言いかけて、言うべき言葉が見つからず、そのまま口をつぐんだ。オージアスの隣で俯く。しばらくしてから、ライサが何か呟いた。オージアスには聞こえず、思わず顔を上げて、ライサを見る。ライサはその細い肩を震わせていた。
「…ごめんなさい…」
絞り出すような声で、ライサが呟く。オージアスは、じっとライサのその姿を見つめていた。
「知らなくって…私…ごめんなさい」
またライサが呟いた。オージアスは軽く頭を掻くと、夜空を見上げた。もう既に月は真上から傾き始めたようだ。もう一度ライサを見る。オージアスも泣きそうな目をしたまま微かに笑みを浮かべると、ライサの頭の上に軽く手を乗せた。
「泣くな。いいんだ。もう昔の話だ」
まだライサは静かに肩を震わせている。ぽつんぽつんと、手の上に雫が落ちていくのがオージアスからも見えた。オージアスは軽く息を吐くと、務めて明るい声で言う。
「そんなに泣いてると、また口を塞ぐぞ」
その瞬間にパッとライサの顔が上がって、オージアスを見た。目は真っ赤に泣き腫らしていて、頬には涙の筋が残ったままだ。しかも鼻が垂れてしまって、見られた顔ではなかった。思わずオージアスは吹き出した。それを見て、ライサの頬が血の気を帯びる。
「笑うなんて!」
「失敬」
口ではそう言いつつ、オージアスは笑ったままだった。ライサの目の前にオージアスからハンカチが差し出される。さらにライサの頬は赤みを増したようだった。慌てて差し出されたハンカチを受け取ると、涙を拭いて、さらに鼻までかんだ。
「おいおい」
「洗って返すわよ」
オージアスから借りたハンカチをライサは畳んで、そっとポケットにしまい込む。そして寒そうに肩を抱いた。
「マントは?」
「宿においてきちゃったみたい…」
オージアスがわざとらしくため息を吐く音が聞こえた。
「何よ」
ライサがさらに文句を言おうとしたところで、ぐっと引き寄せられた。肩から布が被せられる。
「半分だけだ。俺も寒いからな。文句があるんだったら、その辺で凍えていろ」
文句を言う代わりに、ライサはオージアスに身体を寄せた。オージアスの体温が伝わってきて暖かい。
「ありがとう」
そっと呟いて、ライサは瞼を閉じた。
「みんな…無事よね?」
そのままオージアスの体温を感じながら、ライサは呟く。
「ああ。ユーリーは死ぬような奴じゃないし、ラオもいくつもの修羅場をくぐっている奴だからな。俺たちより、よっぽど上手くやるさ。アルマンも…その、大丈夫だろう」
頭の上と近づけているオージアスの身体と耳と、両方から声が伝わってきてライサに届いた。




