第4章 森の中(1)
オージアスとライサは、街の城壁の壊れたところを抜けた。この時間に森に入るのは感心しないが、街中よりは見つかり難いのは確かだ。オージアスがまっすぐに暗闇の中に馬を進めていくのを見ながら、ライサはそれに続いた。森も怖いが、追手がいる街はもっと怖い。今は離れたい気持ちの方が強かった。
危なっかしい足取りながら森の中心部と思われるところまで来て、ようやくオージアスの馬は、その足取りを止めた。オージアスが馬を下りるのが、月明かりで微かに見えて、ライサもそれに習う。
「今夜はここで野宿かな」
オージアスがぼそりと言って、手綱を木に結わいつけた。そして足元から枝を拾い始める。その様子を見て、ライサも慌てて手綱を固定すると、目に見える範囲の枝を拾った。
「できるだけ乾いているのを拾って」
「はい」
オージアスの言葉に素直に返事をし、ライサは月明かりだけを頼りに地面を見る。足元の小枝を拾おうとして、自分の手が震えていることに気づいた。止めようと思うけれど止められない。拾おうとした右手を左手で包み込む。バラバラと音がしてせっかく集めた枝が落ちてしまったが、気にすることができなかった。右手の震えが、左手に伝染し、とうとう足が震え始めた。ぽとり、ぽとりと地面に雫が落ち始める。
「あれ?」
雫の原因は自分だということを、ライサはようやく気づいた。震える手が頬に手をやると、頬が濡れている。意識していないのに、瞳から零れる液体は、後から後から落ちてくる。
足の震えが最高潮に達して、自分では立っていられなくなったころ、オージアスがライサの異変に気づいた。
「ライサ?」
オージアスが近づいてくる音が聞こえる。ライサは自分の肩をオージアスが掴むのを感じた。
「どうした?」
ライサの耳に響いたのは優しい声だった。その声が皮切りになったように、ライサは声を上げて泣きはじめた。
「ライサ。落ち着いて」
ますます激しくライサは泣き喚き、オージアスの胸に顔を押し付けてくる。両手はしっかりとオージアスの上着を掴んでいた。
「森の中は音が響く。声を上げるな」
オージアスの声が耳元でしたが、ライサは自分の声を止められなかった。止められないことを示すように、頭を左右に振ってみせる。自分のものとも思えない泣き声が止められない。涙は堰を切ったように流れてくる。足は震えて立っていられないところを、辛うじてオージアスの上着を掴むことで支えていた。
不意にオージアスのため息が聞こえたかと思うと、ライサは顎に手を添えられて上を向かされた。視界は涙のためにぐちゃぐちゃだった。その上、月明かりではオージアスの表情を見ることもできない。次の瞬間、オージアスの顔が近づいてきて、そして何か冷たいものがライサの唇を塞いだ。
手で口を塞がれるよりは、もっと柔らかい薄い感触が唇の上にある。口づけを受けているとライサが認識したのは、呼吸が苦しくなってきてからだった。泣き喚いたために、鼻から息ができない。口から息をしようにも塞がれている。
慌ててオージアスの上着から手を離し、彼を突き放そうと胸元に腕を入れようとした。だがいつのまにか、しっかりと抱きかかえられていて身動きができない。オージアスの背中を何度も叩いてみた。だが離してもらえない。次第に、力が入らなくなっていく。
もう少しで意識が遠のくのではないかと思う寸前、ライサの唇を覆っていたものが離れた。慌ててライサは大きく息を吸った。
「し…信じられない…」
ライサは胸元に手をやって大きく呼吸しながら、呟いた。服の袖で大量の涙と鼻水をふき取る。鏡を見なくても、自分がかなり酷い顔をしていることは想像できた。俯いたままとりあえず、もう一度顔を拭く。そして深呼吸してから、頭をあげた。
「あなた! どういう…」
怒鳴ろうとして、オージアスが唇に指を当てるのを見て、声を落とす。
「どういうつもりよ。いきなり」
オージアスが苦虫を噛み潰したような表情で、ライサを見る。
「仕方ないだろう。どっかのお嬢さんが泣き喚いたんだ。放っておいて追手に見つかったほうがよかったか?」
「そういうことじゃないわ。他に方法があるでしょって言いたいの」
オージアスが肩をすくめた。
「悪いが、俺はそんなに慰め方を知らないんでね。唯一知ってる方法で慰めただけだ」
「慰めた! あれが」
「現に泣き止んだだろう? 効果があったな」
「一体、どこのどいつよ。あなたにあんな慰め方を教えたのは!」
「だから、大声を出すな」
オージアスはそれだけ言うと、足元のライサが落とした小枝を拾いあげた。
「信じられないわ。私、初めてだったんだから…」
そう言ってから、ライサはその事実に気づいた。ライサが呆然と立ち尽くしていた間に、ぱちぱちと木のはぜる音がし始める。ライサが気づいたときには、オージアスはすでに焚き火を始めていた。視線を向けると、黙って手招きをしているのが見える。




