第3章 散策(4)
ラオとアルマンがそれぞれ宿に帰ってきたのは、夕飯ぎりぎりの時間だった。宿の食堂でようやく顔を合わせる。食事をしながらユーリーとオージアスの買い物の話とその後の食い逃げに間違われた話を聞く。ライサは話を聞きながら、ふと思った。
「ねえ、ラオはどうしてあそこにオージアスたちがいるって分かったの?」
ラオのスプーンの動きが止まった。
「いや、別に…。偶然だ」
ぼそりと返事をして、ラオのスプーンが動き出す。ライサはその様子を見ながら小首をかしげた。
「それよりも」
ちらりとラオが外へと続く扉の方へ目をやった。つられてライサも振り返ったが、何もない。
「部屋に荷物は残してないな?」
このラオの言葉に、一同は不思議な表情をしながら頷いた。扉をこじ開けて忍び込む泥棒も多い。基本的に荷物は持って歩くのが鉄則だ。
「では、出るぞ」
ラオが立ち上がった。オージアスとユーリーが顔を見合わせる。ライサとアルマンはラオの顔をまじまじと見つめた。冗談ではないらしい。ラオは懐から皮袋を取り出した。その袋をオージアスがじっと見つめる。
「それ…俺の皮袋だ」
ぽんとラオがオージアスに皮袋を投げた。
「ああ。おまえのだ。取り戻した。それでここの払いをしてくれ」
「取り戻した? 誰から…いや、それよりも、払い?」
「ああ。宿代と食事代だ」
訳がわからないまま、オージアスは中を確かめる。金額は減っていないようだ。そこからいくつかの硬貨を出すとラオに渡す。
「これで足りるか?」
「多分足りるだろう」
ラオは受け取った硬貨を皿の下に置いた。こうしておけば、片付けに来た主人が見つけるということだろう。
「時間がない。さあ、来い」
ライサが何のことか問おうとした瞬間だった。食堂の扉が勢い良く開いたと思うと、数人の男たちが踏み込んできた。振り返ったライサの眼に映ったのは、ライサを追ってきていた教会の男の顔だった。
「い、いたぞ!」
一番先頭にいた男がライサを指差す。その男は森の中でラオに剣で殴られた男だった。ちっとラオが舌打ちをする音がライサの耳に聞こえた。その瞬間にオージアスから腕を捕まれて、立たされる。そのままオージアスに引きずられるようにして台所に向かって、ライサは走り始めた。ラオの黒いマントが目の前で翻っている。後ろから、大きなものが倒れる音と、続いて陶器が割れる音が聞こえてきた。ユーリーが食器棚を倒した音だった。
ライサの頬に外気が当たる感触がして、目の前が大きく開ける。相変わらず視界にはラオのマントが踊っているが、その周りの風景はこの宿屋の裏手に出たことを示していた。
「馬は駄目だ! 街に逃げ込め!」
馬小屋に向かおうとしたオージアスとライサを、ラオの声が制する。オージアスは、慌てて進路を変更して、そのまま街の路地の中に飛び込んだ。ライサの腕を握ったままなので、ライサもオージアスに引きずり込まれるようにして、路地裏に隠れる。家と家の間の窪みにライサの身体が押し付けられて、その上からオージアスのマントが包み込んだ。あまり間近にオージアスの顔があるのに驚いて、声を上げようとしたライサの口をオージアスの手が塞ぐ。そのすぐ側を数人が走っていく足音が通り過ぎていった。
「静かに。ラオが囮になってくれたようだ」
オージアスの押し殺した声が、ライサの耳元で聞こえた。見つかれば殺される。そのことがライサの頭には渦巻いている。今は見つからないように、祈るばかりだった。頷いて了承の意思を表したライサの口から、オージアスの手が外れた。そのままオージアスの手が壁に置かれ、ライサを潰すかのように身体ごと壁に押し付けられる。自然とライサの顔はオージアスの胸元で固定されることになった。
じっとしていると、自分の呼吸音と心音が響いてくる。それは、この音で見つかるのではないかと思えるぐらい、はっきりした音だった。押さえようとすれば、返って呼吸音が響くようだ。意識して、ゆっくり息を吐くように気をつけてみる。それでも、ライサにとって自分自身の呼吸音が耳に障る。
押し付けられたオージアスの胸元で、ライサは自分の呼吸音が外に洩れないように、息を潜めていた。
ふっとライサを圧迫していたものが消えた。オージアスが頭から被っていたマントを取り去り、ライサを自分の身体から離したのだ。
のろのろと、自分の正面に立っているオージアスを見上げると、彼のダークブルーの瞳と出会った。その瞳にあった緊張が、ふっと緩むのが見える。
オージアスは顔だけを道の方へ向けると、そのままの姿勢で独り言のように呟いた。
「行ったな」
一瞬安堵した表情を、また引き締めてから、オージアスはライサを見つめた。そしてまだ呆然としているライサの腕を取る。
「行こう」
「ど、どこへ?」
「街を出る」
またしても引きずるようにして、ライサの腕を掴んで宿とは逆の方向へ走り出そうとして、足を止めた。くるりと宿の方へ向かう。
「オージアス!」
「馬を取ってこよう。今なら追手が宿から離れているから、うまくいくかもしれない」
宿の様子を道の影から確認し、誰も外には出ていないのを見ると、オージアスとライサは馬小屋に向かって走り出した。幸いなことに馬小屋の周りには誰も残ってはいない。
「うまい具合にラオが引きつけてくれたな」
二人は急いで馬具を乗せる。そこにはラオの馬もユーリーとアルマンが乗ってきた馬も残っていた。ちらりと考えた上で、オージアスは三頭目にも馬具を乗せる。
「ついて来れるな?」
「大丈夫よ」
ライサはまだ強ばったままの表情で、オージアスに答えて見せた。オージアスは二頭分の手綱を持ったまま、走りだした。それにライサの馬も続く。
馬が走り去る音に、宿から誰かが出てきた気配がしたが、二人は振り返らずにそのまま闇の中に走り去っていった。




