第3章 散策(2)
一方、無言のまま、ラオとアルマンは部屋の中で過ごしていた。正確に言えば、何度かアルマンはラオに話し掛けようとしたのだが、そのたびに「ああ」とか「いや」とか短い言葉で返事をされて、会話は終了していた。そしてあの目。ちらりと見る鋭い視線に、下手なことは喋れないという圧迫感を受けていた。これがユーリーかオージアスなら、もっと会話があったかもしれない。しかしラオから話し掛けることはなく、アルマンのなけなしの言葉を交わそうという努力も、もうすでに尽きていた。
ベッドで眠ろうかとも思ったのだが、それも失礼に当たる気がしてアルマンは部屋の隅で立っていた。ラオは窓際に陣取ると、そのまま何をするでもなく窓の外を眺めている。
「俺に遠慮せずに、好きにしろ」
突然聞こえてきた言葉に、一瞬アルマンは反応できなかった。ちらちらと周りを見て、自分とラオ以外は誰もいないことに気づき、今の言葉はラオが自分に言ったのだと、ようやく理解できた。慌てて自分の荷物を抱き締めて、壁際に立っていたものを、さらに壁際へとつめる。ラオがため息をつくのが聞こえた。窓の外を見ていたアイスブルーの瞳がアルマンを捉える。
「俺に遠慮しなくていい。好きに部屋を使え」
もう一度、今度は言葉を噛締めるように言う。アルマンは首が壊れたように、がくがくと頷くと、ベッドに近づいた。ベッドにしがみつくように手をつき、荷物を乗せる。そして自分の身体をベッドの上に持ち上げて、両膝をついた。
そこまで見ていたラオの視線が、ふっとそらされて、また窓の外に戻る。逢う魔が時。魔に出会いそうな夕暮れ時をそう呼ぶ。外は夜とも昼ともつかない世界だった。かすかな明りが部屋の中に差し込んで見える。その明りの中で、ラオの銀髪は浮き上がるように見えた。アルマンはベッドの上で、ようやく靴を脱ぐと、ふとラオを見た。窓の外の景色とラオの横顔が、まるで絵のようだった。
「なぜおまえは…」
ラオが呟いた。アルマンの手がビクリと止まる。だがラオの呟きはそこまでだった。アルマンを見るわけでもない。窓の外に視線を留めたまま、まるで独り言のような呟きだった。だがアルマンの心にはその先が聞こえた気がした。なぜおまえは…。
「許してくださいっ!」
都が完全に夕闇に沈み、蜀台の蝋燭に火を灯したところで、そんな声がいきなりラオの耳に飛び込んできた。声のしたほうを見ると、アルマンが苦しそうにうめいている。
「お願いです。お嬢様は…お嬢様だけは…」
悪い夢を見ているようだった。ラオは手にした蜀台をテーブルの上に置くと、アルマンのベッドの側に立った。そして起こすべきか、どうするか思案する。その瞬間に扉を軽く叩く音がした。
「開いている」
ラオがボソリと返事をした。扉が勢い良く開き、ユーリーがオージアスとライサを引き連れて入ってきた。
「おい、ラオ、食事に…」
アルマンのベッドの側で立ち尽くすラオを見て、ユーリーが言葉を止めた。ライサが唸り声をあげているアルマンに駆け寄る。そしてアルマンの肩に手をかけながら、肩越しに振り返り、ラオをきつい目つきで睨みつけた。
「何をしたの?」
「何もしていない。悪夢を見ているようなので、起こすべきか思案していたところだ」
その言葉に、ライサは視線をアルマンに戻すと、肩を大きく揺すった。
「アルマン、大丈夫? アルマン」
アルマンが、その唸りを止め、うっすらと眼を開いた。
「お嬢様?」
「大丈夫?」
ライサが心配そうにアルマンの顔を覗き込んでいる。アルマンはゆっくりとライサの顔を見、部屋を見回した。今居る場所が宿屋だということを思い出したのか、大きなため息とともに、安堵した表情になる。そしてそっとライサの両手を自分の肩から外した。
「申し訳ありません。夢を見ていました」
そして怯えたようにラオに視線を向けた。
「何か、私は言ってましたか?」
ラオが無言のままアルマンを見る。じっとアルマンの目をラオの薄いブルーの瞳が見つめた。その瞳に怯えながら、アルマンはじっと祈るような表情でラオを見ている。
「何も…」
ラオがボソリと答えた。それを聞いたアルマンの表情がほっとしたものになった。
宿の食堂で五人は、質素ながらも美味い夕飯にありつくことができた。
「匂いの段階から、美味そうだと思ってたんだよな」
ユーリーが喜んでスープを飲み込む。
「この鳥の煮込み方がなかなか」
オージアスもそういいながら、料理を口に運ぶ。それらをライサはぼんやりとしながら見ていた。同様に、無口ながら一生懸命食事をしていたアルマンが、ライサの食が進んでいないのに気づいた。
「お嬢様?」
突然声をかけられて一瞬ビクリと身体が揺れる。そして自分が食事の途中でぼーっとしていたことにライサは気づいた。一同の視線がライサに集まってくる。
「ごめんなさい。ちょっと考えごとをしてしまって…」
ライサは慌ててスープを口の中に流し込む。味はおいしかった。多分おいしいのだと思うのだが、なんだか無味乾燥に感じられるほど、ライサの気持ちはこれからのことを考えて沈みこんでいた。
無理やり引きずり込んだ三人。果たして彼らと共に行けば、すんなりと隣国に入れるのか、それも疑問だった。そして両親のこと。きっと生きている。そうライサは信じていた。
代々バルテルス家の人間は粘り強い。だからこそトラケルタ王国の中でもかなり広い領土を確保してきたのだ。だが代々の領主に比べて、父のニール・バルテルスはちょっと、いやかなりお人好しなところがあったことは、ライサも感じていた。正義感の強い良い領主様。多分、ニールの周りにいた人が誰もが思っていたことだろう。まじめで、頑固なところがある。その割には情にほだされやすい。そう女中頭がこぼしていたのを聞いたことがある。
「この後どうするか…」
オージアスが独り言のように呟いた。
「国境を抜けることを気にしてるのか?」
ユーリーが周囲に聞こえないように、小声で尋ねる。オージアスが曖昧な笑みを浮かべてみせた。
「まあね。今のところ一番の心配ごとだからね」
「なんとかなるさ」
ユーリーが他人事のように言う。その言葉にオージアスが苦笑いをした。いつものことだ。心配するのはオージアスの役目。
「来るときはどうやってきたの?」
ライサがオージアスに尋ねた。
「もちろん、これさ」
オージアスがちらりと懐から見せたのは、通行証だった。ヴィーザル王国が発行した通行証らしい。獅子ともう一つ何かをかたどった紋章が一瞬見えた。ライサの中で、何かが頭の片隅でひっかかったが、あまり深く考えずに納得顔で頷いてみせる。
「行きと帰りの人数が違うとダメかしら?」
オージアスが肩をすくめて見せた。分からないという意味だろう。ライサもトラケルタ国内から抜け出るのに、どのような手順を踏めばいいのか、分からなかった。ちらりとユーリーが視線をラオに向ける。オージアスの視線もラオに向かった。
二人の視線と、それにつられて見たライサとアルマンの四人分の視線が自分に向けられているのに気づいて、ラオがスープを飲んでいた手を止める。顔を伏せたまま、ちらりと眉を顰めるのが見えた。だが顔を上げて、ぐるりと四人を見回してから、視線が一瞬、ふっと遠くなったかと思うと、オージアスの目線に戻ってきた。
「なんとかなる」
無愛想な物言いだった。その言葉にユーリーとオージアスが、困ったような視線を交差させる。ライサはそんな二人の様子を見ていた。きっとラオには何か策があるのだろう。
翌朝、宿で朝食を食べた後に、オージアスとユーリーは、この先の旅の用意をしに行くと言って出て行った。ライサは自分の部屋で一息ついた後で、ふと街を見てみようかと思い立ってアルマンとラオがいる部屋を訪ねる。ドアをノックをすると、ラオの声で返事が返ってきた。
「開いている」
ドアを開いて中を覗くと、ラオが一人で窓から外を見ている。ライサはぐるりと部屋の中を見回して、アルマンがいないことを確認してからラオを見た。
「アルマンは?」
「用事があると言って、出かけた」
「用事?」
「詳しいことは聞いていない」
ラオはそのまま、また窓の外へ視線をやった。ライサは手持ち無沙汰になり、窓の傍に近づく。ライサにとって、アルマンがいないのであれば、一人で外を歩くのはあまり勧められたことではなかった。一人で帰って来られる自信がない。宿がどこにあるかさえ、分からなくなってしまう可能性がある。
「何か面白いものがあって?」
ラオの傍に並んで窓の外を見た。
「いや…」
ラオがぼそりと返事をする。窓からは細い通路が見えた。人々が歩き、窓からは洗濯物が干され、その下で子供が遊んでいるのが見える。
「そうだ…薬、ありがとう」
ライサは不意にラオが以前くれた軟膏のことを思い出した。あの痛み止め。非常に良く効いたのだ。おかげで馬に乗るときに、痛い思いをしなくてすんだ。
「すごく良く効く薬ね。あれはどうしたの?」
「俺が調合した」
ラオが窓の外を見たまま呟く。
「え?」
問い返したライサに、苦虫を潰したような、はにかむような表情をしながら、ラオがライサを見る。ラオが照れているということに、ライサは気づいた。にっこりと笑顔で礼を言う。
「すごいわ。ありがとう」
「礼には及ばない。単に作ってあっただけだ」
ラオは、ぶっきらぼうに言うと、また窓の外を見た。だが先ほどほどの熱心さは無いようだ。まるでライサの視線を避けるようだとライサは思った。思わず笑みが零れる。無愛想だけれど悪い人ではないみたい…とライサは考えた。
「ねえ、街を見に行ってみない? せっかく南の宝石と呼ばれるクアントラに来てるんですもの」
「いや、俺はいい」
「でも…」
ライサは言いよどんだ。その様子に、ラオの視線がライサのところに戻ってくる。
「正直言うと、私、あまり方向感覚が良くないの。一度宿から出てしまったら戻って来られるかわからないから、一緒に行ってくれないかしら?」
ライサは「お願い」と付け加えて、ラオの顔を見つめた。ラオが軽くため息をついて、窓際から立ち上がる。
「わかった」
ぼそりと言うと、そのままマントを羽織って、出る支度をし始めた。その様子に、一方でライサは自分が何も用意をしてきてないことに気づいた。慌ててラオに声をかける。
「すぐに用意をしてくるわ。玄関で待っていて!」
ライサはそういい残すと、慌てて自分の部屋に戻っていった。




