第1章 玉座の飾り
まさに王にしてみれば戯言だったのだろう。ライサの父が手柄を立てたという話だったので、その褒美も兼ねていたのかもしれない。
あれは六年前。ライサがまだ十歳だった。両親と一緒にお城に行き、初めてお目にかかった国王陛下から言われたのだ。礼儀作法が良いと。そしてそのご褒美に好きなものやるから言ってみろと。
キラキラ光る宝石も目の前に見せられ、美しい布も見せられた。どれも幼かったライサには今ひとつ価値がわからなかった。そのときにちょうど窓の外から声が聞こえたのだ。
『玉座の取っ手についている丸い飾りをもらえ』
と。
その声はライサにしか聞こえない声だった。幼い頃から聞きなれている木々や草花の声だったから。窓の外に視線をやると、楡の木が覗いているのが見えた。この木がライサに告げたに違いない。
玉座の取っ手は木でできていた。丸い飾りはちょうど王の指先が触れるか触れないかのところにある。それも木で作られたもので、あまり高価なものには見えない。
だが、もう一度、楡の木は同じ言葉を繰り返した。なぜかは分からないけれど、きっと意味があるのだ。そう思って、ライサは楡の木が言ったとおりの言葉を唇に乗せた。
「では、玉座の取っ手についている丸い飾りをくださいませ」
優雅な仕草でお辞儀をしながら、そう伝えた。その時に王がどのような表情をしていたかは、床を背景に自分の赤い髪の毛が、お辞儀の角度に従って落ちてくるのを見つめていたライサには見えなかった。ただ顔を上げたときに、呆れたような顔をした父と母が視界に入った。
王は愉快そうに笑って、片手で右側の丸い飾りをもぎ取ると、そのままライサに投げて寄越した。
ライサはちらりと楡の木を見た。もう一つ左側に飾りが残っていたけれど、楡の木は何も言わない。では、この右側の飾りが楡の木が言っていたものなのだろう。そう思って、ライサはそっと自分の小さな両手の中にその飾りをしまいこんだ。ちょうどライサの片手の中に入ってしまうぐらいの大きさの飾りを、まるで宝物のように思いつつ。
そして今、十六歳になったライサの胸には、その丸い飾りをペンダントにしたものがぶら下がっている。その後数年たってから、またお城に行く機会があったときに、ふと幼い日の楡の木が言ったことが気になって問いただしたところ、肌身はなさず持っていろと言われたのだ。
草木たちは余計なことは一切喋らない。だがなんらかの助言をくれた。それはライサが彼らの言葉を解するからなのか、それとも誰に対してでも助けてくれていて、たまたまライサが分かるからなのか。どちらかは分からないが、どちらにしても、彼らの言う言葉に耳を傾けておいたほうが良いと思われた。
すっかり忘れて、棚の奥にしまわれたままだった木の飾りは、その日からライサのお守りになった。まん丸だったものを、家人のアルマンが、少しだけ両側を平らにした上で、器用に花の模様を彫ってくれた。ちょっと分厚いペンダント。だがあまりおしゃれに頓着しないライサには十分だった。
その日、トラケルタ王国内の空気は重かった。いや、重く感じていたのはライサだけだったのかもしれない。湿気を含んだ重い雲に閉ざされた薄暗い空。そして遥か遠くに見える森の木々の色はいつもよりも暗く見えた。
「白鳥の城」と呼ばれるバルテルス候の館の中にも重苦しい雰囲気が漂っていた。普段ならきれいな夕暮れが見える時間だというのに、もうすでに館の中では蜀台が必要なぐらいだった。しかしいくら蜀台に火をともしても、重苦しさは拭えない。
「うっとおしい天気ね」
ライサは空を見ながら呟いた。窓ガラスに映るのは胸に木彫りのペンダントをかけた赤毛の少女。ちらりと顔を斜めに傾けて、自分を見つめる。
窓ガラスの反射ですら見えるそばかすが気になっていた。鼻の脇の皮膚に手を当てる。そこが一番そばかすが多い。母も小さいときにはそばかすだらけだったのよ…と言って笑っていたことがあったが、自分のそばかすが消える日が本当にくるとは、どうにもライサには思えなかった。
今度は部屋の鏡台を覗き込んだ。意思の強そうな茶色の瞳は父親譲り。バストショットで映る自分ににっこりと微笑んでみせる。
「ん…。もうちょっと胸が大きければいいのに」
ライサとて自分の細い身体は嫌いではなかったが、不満なところはいくつかある。
扉が軋む音がした。開く音がして、誰かが入ってくる。振り向くと母、リディアが立っていた。
「ライサ」
青ざめた顔で、呟くような声だった。こんな時間にリディアがライサの部屋を訪れるとは珍しい。
「どうなさったの? お母様」
あくまでおしとやかに。貴族の娘らしく返事をする。そうすることを母は気に入っていたから。だがいつものように満足げに頷くこともせずに、リディアは思いつめた顔をしていた。
「ライサ、よく聞いて。地下道は覚えてるわね?」
「お母様?」
ふっと母の視線が窓の外に泳いだ。ライサも窓の外を見ようとして振り返った。思わず息を呑む。窓の外に広がっていたのは、明りの川だった。松明を持った人々がこの館に押し寄せてきているのだ。
先頭に立っているのは、この地域の教会の司祭長。両腕を縛られた女を連れている。良く見ると、それはバルテルス家の女中頭だった。
「ひっ!」
思わず悲鳴をあげようとして、喉が鳴った。声を出そうとしたのに出ない。リディアの顔の青さが増した。
「マギを殺せ!」
「領主はマギだ!」
「奥方もだ! リディア・バルテルスを引きずり出せ!」
「ニール・バルテルスを引きずり出せ!」
人々が口々に叫んでいた。
「行きなさい! 早く! あの人たちの目的はお父様と私。あなた一人なら地下道を通って行けば、逃げられるはず!」
リディアがライサが持つ上着の中でも一番目立たないものを着せてくれる。フードがついたマントをその上に被せることによって、さらに母親譲りのライサの赤毛も目立たないものになる。そして皮袋を押し付けられた。硬いコインの感触がする。
「お母様! お願い一緒に逃げて」
ライサは母に縋った。
窓の外から人々の声がする。遠かった叫び声が、だんだん明瞭に、大声になってくる。
「マギを殺せ!」
「人々を惑わす奴らだ!」
その声を聞いて、ライサは青くなった。マギ。魔術を使い、人に害を為すとされているものたち。
「お母様、お母様はマギなんかじゃない! マギというなら…」
リディアはライサにその先の言葉を言わさずに、ぐっとライサを抱き締めた。ライサも母親の背中に手を回す。人々からマギと疑われた者は、裁判を受けることになる。しかし、その前に地獄のような責め苦が待っているのだ。
マギかどうかの判別方法も酷いものだった。水に浮かべて、浮かべばマギ。沈めばマギではない。沈んだ場合には生き残れない。浮いた場合には、やはり火刑が待っていた。
または火にくべて、燃えなければマギ、燃えればマギではない。燃えなければ、槍による串刺しの刑が待っている。
どちらにせよ、マギと疑われたものは死ぬしかない。それが定めだった。そしてそのマギ狩りを否定したものも、マギの仲間とされる。
だから一度マギ狩りが始まれば、辺り一帯の人間が参加する。自分をマギと間違われないために。参加しないのは動けない病人や年寄り、そして年はもいかない子供だけだ。
「お母様!」
リディアがライサの手を無理やりに引き離した。
「お父様と私も裏から逃げます。親子で一緒に逃げれば目だってしまうから…。大丈夫。ヴィーザル王国で会いましょう」
リディアは気丈にも笑って見せた。ライサはその姿をしっかりと瞳に焼き付ける。
「ヴィーザル…」
それは隣国の名前だった。トラケルタ王国の東に位置する国だ。
「ヴィーザル王国ではマギ狩りを禁止しているとか。疑いをかけられたものも生きていける土地です。首都イリジアに行きなさい。さあ、ライサ」
ライサは涙を浮かべながら、母の顔を見た。そのとき、ドアが荒々しく開いた。
「お嬢様!」
金髪のひょろりと背が高い青年が飛び込んできた。リディアが居るのを見て大きく眼を見開いて立ち止まる。
「お、奥様もこちらにおいででしたか! 人々が来ています。早くお逃げください!」
金髪の青年、アルマンが叫んだ。リディアがライサを見、そしてアルマンを見た。
「ああ、アルマン。ライサを頼みましたよ。地下通路を使って生き延びなさい。道はライサが知っています。私たちは別の通路を通ります。さあ、早く!」
リディアの言葉に一瞬躊躇したようにリディアとライサに素早く視線を走らせると、アルマンはリディアに向かった頷いた。なおもぐずぐずしているライサの腕をひっぱる。
「失礼します。お嬢様。さあ、早く! 奥様も、ご無事で」
覚悟したように顔を強ばらせているリディアに、軽く頭を下げるとアルマンはライサを部屋から連れ出して階段に向かった。
「お願い! お母様を!」
なおも母の側に残ろうとするライサを、すごい力で引っ張っていく。
「お嬢様! だめです。奥様のお言いつけです。早く!」
その一言にライサは、はっとした。思わず暗闇の中でアルマンの顔を見る。碧色の瞳がじっとライサを見ている。そう。母は言ったのだ。逃げろと。
涙をぐっと手で拭うと、そのままライサは地下に向かって走り出した。その後をアルマンの足音が続いた。遠くでは重い扉を開こうとする音がする。
こうなったら召使も狩る側に回るはずだから、ぐずぐずはしていられなかった。今はアルマンだけでも、自分の味方として側に居てくれるのがありがたい。
「こっちよ。アルマン!」
さっきとは逆にアルマンの手をとって、地下を駆け抜ける。かなり方向音痴のライサだったが、この地下道だけは何かあったときのために…と小さなころから道順を叩き込まれた場所だった。暗闇の中でも迷うことはない。
「こんな場所があったとは…」
アルマンの呟きが聞こえる。兄妹同然に育ったアルマンでも、それは館の娘と家人の差だった。そう。アルマンは家人。この家で召使の子として育ち、一生家に使える身。この地下道はバルテルス家のものにしか伝えられない。
地下道を抜けると、館のすぐ裏手に出た。そこは第二の馬小屋の側だった。この馬小屋はアルマンにとって謎だったのだ。なぜこんな辺鄙なところに馬小屋があるのか…と。
バルテルス家の馬小屋は三箇所に分けられていた。とりわけ、この第二の馬小屋が一番辺鄙な場所にあり、世話をするものは大変な場所だったのだから。
「なるほど…」
納得しているのもつかの間、ライサはさっさと馬の用意をしていた。アルマンも慌てて我に返り、馬に鞍をつける。手馴れた手つきで鞍をつけ終わったとき、あたり一面が明るくなった。振り返ると屋敷から火の手が上がっているのが見える。
「お母様…」
ぐっと唇を噛締めるように、搾り出すようなライサの声が聞こえた。じっと火を見ている。
「お嬢様!」
アルマンが呼ぶと、ライサが我に返って馬に乗り上げた。アルマンもそれに習うように馬に乗る。ライサは馬の頭を東に向けた。
「東へ行くわよ。アルマン」
火を睨みつけたままライサが呟く。ヴィーザル王国首都イリジアに、なんとしてでもたどり着かなければ。
「お母様もお父様も生きているわ。きっと。あの館には色々な仕掛けがあるんですもの」
まるで自分に言い聞かせるように呟くと、ライサは手綱をさばく。
「やぁ!」
馬が闇に向かって走り出した。アルマンもちらりと館の火を見てからライサの馬を追いかけていく。ライサと一緒に過ごした館。その館が焼け落ちる音が二人の背中から響いてきた。
館から火の手が上がる前、ライサの部屋から戻ったリディアを待っていたのは夫であるニール・バルテルスだった。
「リディア、ライサは?」
リディアはニールに黙って頷いて見せた。ニールは、ほっと安堵したような表情を一瞬見せたのちに、さっと表情を引き締めた。
「裏で手を引いているのはシード家のものだろうな。先日の王の御前での一件を根に持ってのことに違いない。だが誰が教会へ訴えたのか。例え偽りといえど、かなりの量の証拠を出さなければ、ここまで多くの人間を動かせまい…」
ニールは話しながら、王の御前であったすれ違いを思い出した。リディアはニールの言葉を聞きながら、さっと自分の身支度を済ませる。すでにニールも地味な色のマントを羽織り、腰に剣を差していた。
「用意はいいかね?」
リディアが黙って頷いた。その手には短剣が握られている。
「まずは館に火をかける。混乱に乗じて逃げよう。何、こういった修羅場は戦地で慣れっこだ。君一人ぐらい守れるさ」
ニールがリディアに片目をつぶってから微笑んで見せた。リディアもその微笑に、無理やり笑みを返す。
「ライサを逃がすためにも、派手にやらんとな。そして我々も生き延びなければ、ライサに申し訳なかろう」
「そうですわ」
リディアがニールの顔の前に伸び上がって、軽く唇を重ねた。一瞬視線が合う。
「行こう」
ニールが廊下へ続く扉を開いた。正面の扉が開かれたのだろう。奥から多くのものが踏み込んでくる足音が聞こえてきていた。




