第4章 再会
アレスの逃げようと思っていた気持ちは最初の数日で吹き飛んだ。周りの守りが堅いからではない。リーザがいじめられているのを見てからだった。
明らかに自分よりも年下の少女。その子が自分の見ていないところで、やっぱりいじめられている。しかもどうやら何人かの男が目をつけているらしいことまで気付いた。
さすがに昼間の人が大勢いる場所では、あからさまではない。しかし夕方の片付けのとき。夜寝る前に部屋に戻るとき。そういうときが一番危ない。
アレスはできる限りリーザと一緒にいるようにした。リーザにも、自分かマリアといるようにと言いつける。
マリアのことは良くわからなかった。奥方様と旦那様のお気に入り…と召使たちは言うが、どうも違う気がする。
なんとも言えないが、この二人がマリアを見る目は、まるで術に掛かっているようだった。それでもマリアはリーザにもアレスにも手をださなかった。それだけは約束として守られていた。
特に庇ってくれることはないが、特にいじめることはない。そして夜は安全な場所を提供してくれていた。
水汲みをしていた手がふと止まる。何かの音を聞いたような気がしたのだ。胸騒ぎがして水桶を置いたまま、召使の寝室へと走る。扉の向こうから何か音がした。
「おい、しっかり押さえてろよ」
ぴしりと何かを叩く音と、くもぐった音が聞こえる。
「暴れるなよ。おまえは俺のものなんだからよ」
下卑た男の声が聞こえた。アレスは周りを見回す。モップの柄だけを外すと、手に持ってドアを開けた。
「おまえたち、何やってるんだ!」
大声と共に、モップを構える。床に寝かされて手足を押さえられたリーザがいた。頬を打たれたのか赤くはれ上がっている。男のうちの一人が、リーザの両手を押さえたままアレスを見上げた。
「なんだ? おまえ、俺のやることに口を出そうっていうのか?」
「手を離せ」
モップの柄を突きつけるように構える。剣よりは軽い。でも無いよりはましだった。
「やる気か?」
足を押さえつけていた男がアレスを見る。向こうは三人だ。最初に動いたのはリーザの上に馬なりになっていた男だった。
「おまえも仲間に入れてやるぜ! ただしやられる側でな!」
そう言って馬なりになっていた男はにやりと嗤うと、アレスの方へ腰を落としたまま突進してきた。それをアレスは避けて、首筋にモップの柄を落とす。的確な狙いに、そのまま男がダウンする。
「一人」
アレスが数え上げる。その声に両手を押さえていた男が、切れたようにアレスに向かってきた。その男の腹にモップの柄を叩きこむ。
「二人」
最後の一人が、リーザから手を話すと、傍にあった棍棒に手を伸ばした。男が護身用に用意したものだろうか。それを両手で握り締めてアレスの方へ向いてくる。しかしその足はガタガタと震えていた。アレスはその男を睨みつけたまま、視線は外さずにリーザの方へ手を伸ばした。
「おいでリーザ。早く」
あまりのショックに動けないリーザは立ち上がれない。アレスは一歩踏み出した。
「早く!」
アレスの厳しい声にようやくリーザが立ち上がって、アレスのところまで来た。
「このままマリアのところに行って。早く」
アレスはそのままリーザを逃がすと、男を睨みつけたまま扉のところまで下がった。後はそのまま井戸まで戻るだけだ。倒れている二人の男を視界に捕らえたまま、棍棒を握った男を睨みつけて、扉を抜けてそれを閉める。
そのままモップの柄をドアに立てかけて、井戸のところに一目散に走った。きっとあいつらは諦めないに違いない。だけど今はリーザを助けたことを良しとしよう。
何もなかったように水を汲み、台所の水がめを一杯にする。背後の気配には気を使った。いつあいつらが仕返しをするか分からない。それでも夕食の時まで何もなかった。
夕食時、顔を合わせた男たちは苦々しげに視線をアレスと、その隣にいるリーザに送ってきただけだった。大勢のいる場所での乱暴はご法度だった。それはお互いに分かっていることだ。それが知れたら、さすがに首になって仕事を失う。身寄りがないものが多いこの召使たちの間の、それは不文律だった。
それ以降、リーザは無口になった。まるで言葉を忘れてしまったようだった。笑顔も見せることがない。そんなリーザの様子は痛々しいほどだった。
「アレス、買い物に行っておいで!」
ジュリエッタの声がした。読み書きができるとわかったとたんに、アレスが買い物に出されるようになった。
「おつりをごまかしたら承知しないよ!」
背中でジュリエッタの声を聞きながら、アレスは街に出る。それはささやかなアレスの楽しみでもあった。
買い物に行って言われたものを買ってくると同時に、上手に値切って、浮いたお金でリーザにお土産を買ってきた。ほんのちょっとした菓子だったり果物だったりしたが、それでも食事が満足に与えられていない二人に取っては大きな収穫だった。
そしてもう一つ。この街と屋敷の位置関係を掴みはじめていた。逃げるならリーザと二人だ。そのためには、この街を把握しておく必要があったのだ。
市場の中でメモを片手に歩きまわる。野菜に、肉、両手に抱えるほどの荷物を持って、アレスは歩きまわっていて、不意に何かにぶつかった。すでに山ほどの荷物で前が見えない。
「ごめんなさい」
アレスは見えないままに、ぶつかった人物に謝った。そのとたんに、包みの一部が零れ落ちる。
「あっ」
追い駆けようとして、さらに多くの野菜が零れていこうとしたところを、ぶつかった人物が上からすくい上げる。
「アレス! 大丈夫ですか」
聞き覚えのある声に、アレスは視線を上げた。アレスが今まで持っていた包みを抱えた人物。見覚えのある緑の瞳がアレスを見つめていた。
「エフライム…」
不覚にも涙が落ちそうになる。さっとエフライムが片膝をついて、落ちた野菜を拾うと包みに戻した。その間、あまりの現実感のなさにアレスはぼーっとしている。
エフライムが片膝をついたまま、アレスに視線を合わせて、頬をそっと撫でてきた。
「酷い状況だ。まずは私たちの宿に」
その言葉に思わず頷きそうになりながら、アレスは踏みとどまった。
「アレス?」
エフライムの言葉に、アレスは悲しげに首を横に振る。
「だめなんだ、エフライム。僕が戻らないとリーザが酷い目にあう。今は戻らないと」
アレスの言葉にエフライムが首を傾げる番だった。
「リーザ?」
「うん。一緒に売られた子だよ。酷い目に遭いそうになってる。ううん。すでに酷い目に遭ってるんだ。逃げるなら一緒に逃げないと」
エフライムがアレスを見てから立ち上がる。膝についた土を軽く払うと、そのままアレスに向き直った。
「わかりました。アレス。なんだかわからないけど、わかったことにします。その代わり、今のあなたの状況は酷すぎる。お腹が空いているでしょう? 飢えた目をしていますよ」
「わかるの?」
「わかりますよ。まずはお腹に溜まるものを買いに行きましょう」
喉から手が出るほど欲しいエフライムの言葉に、アレスは首を横に振った。
「アレス?」
「ダメだよエフライム。もうあまり時間がないんだ。すぐに戻らないと、僕も酷い目に合わされる。その…打たれたりとかね」
この言葉にエフライムが目を瞠った。王を打つものがいるとは…。その思考を読んだようにアレスが慌てて両手を振る。
「待ってよ、エフライム。僕はいいんだ。僕は。そりゃあ、辛いけど。でも今はダメだ。まずはリーザを助けないと…見捨てては行けないよ」
エフライムは呆れたようにため息をついた。
「まったく。あなたは変わらない。言い出したら聞かないんですから。せめてそこまで送りますよ。この荷物はあなたには重いでしょう?」
アレスは三度目に首を振った。この申し出も受けられない。
「門のすぐ外には、門番がいる。エフライムに助けてもらったことが分かったら、それも酷いことになると思う」
エフライムは再度ため息をつくと、ポケットから何かを出してアレスに手渡した。小さな包みのようなものだ。
「何これ?」
「非常食ですよ。私特製のね。木の実を砕いて蜜に絡ませて作ったものです。小さいですが、栄養はありますから。少しずつ食べてください。まあゆっくり食べれば三日ぐらいは持つとは思いますよ。あとは水をしっかり飲むようにね。まずは一口食べてください」
アレスはエフライムからもらったものを一口噛んだ。甘い味と木の実の味が口の中に広がる。一気に飲み込みたいのを我慢してゆっくり噛んで、飲み込んだ。
そして残りを未練が残る視線で見てからぎゅっと握り締める。
リーザと分けないと…そのことが頭に浮かんだ。そっとポケットにしまいこんだ。その様子をエフライムはなんとも言えない表情で見守っていた。
「そうだ…まだラオの香は持ってますね?」
アレスは黙って頷いた。もうあまり話している時間はない。それをエフライムも察したのか、アレスに荷物を返した。
「あなたがいるのは、ドロテア氏の屋敷でしょう?」
アレスはびっくりしたように、エフライムの眼を見る。
「ようやく突き止めたんですよ。すみません。遅くなって」
荷物を持ったままのアレスの両肩を、エフライムの両手が握りこんだ。
「三日です。三日以内に助け出しますから。その間、がんばってくださいね」
アレスはぎゅっと唇を噛締めて頷いた。そしてにっこりと笑う。
「来てくれるって信じていたんだ。三日ぐらい耐えて見せるよ」
エフライムもその笑顔に笑い返した。
「ええ。待っていてください。ドロテア氏には、目にものを見せてやりましょう」
「お手柔らかにね」
エフライムの凄みのある笑顔に、アレスの方がドキドキしてしまう。この近衛隊長はたまに驚くほどの凄みを見せるときがあるのだ。そして彼が一度口にした言葉は、ほぼそのまま実行される。
エフライムに背を見せてアレスは立ち去った。
大丈夫、彼らが自分を見つけてくれた以上、言葉どおり自分たちを救い出してくれるだろう。あと三日。もっと短いかもしれない。それだけ我慢すればいい。
重い荷物とは裏腹に、アレスの足取りは軽かった。
「アレスを見つけた?」
ラオはなにやら調合していた手を止めて、戻ってきたばかりのエフライムを見た。部屋には菓子でも作っているような甘い匂いが立ち込めている。これはラオ流のカモフラージュだった。実際に調合しているものの匂いとは似ても似つかない。
「ええ。やっぱり睨んだ通りの場所にいました」
「なぜ連れ帰ってこない」
珍しくラオのアイスブルーの瞳に怒りが見えた。読み取れてしまった感情を無視して、エフライムは肩をすくめる。
「アレスが言ったんですよ。残るってね。なんでも一緒に助け出して欲しい女の子がいるとか」
「ありそうなことだ…」
ラオはボソリと呟いて、止めていた調合を再開する。エフライムは優雅な身のこなしで上着を脱ぎ剣を外すと、ベットの上に腰をかけた。
「私だってアレスをそのまま攫いたいぐらいでしたよ。でもアレス本人に拒絶されちゃ仕方ないでしょう。それで三日ほど待って欲しいと伝えました。三日もあればバルドルたちも駆けつける」
「今夜だ」
エフライムの言葉をラオが唐突に遮った。
ふっと感じた感覚。エフライムが持ち帰ったアレスの残り香とも言えるものが、ラオの感覚を刺激した。
「ラオ?」
「今夜しかない。そうしなければ、アレスは殺されるぞ」
エフライムの眼が見開かれる。
「ラオ。それは予言ですか?」
「予感だ…いや、今はどっちでもいい。それよりも出かけるぞ」
ラオが調合していたものをそのまま置いて、ベットの上に投げ出してあったマントを掴んだ。慌ててエフライムが立ち上がって、その進路を塞ぐ。
「ちょっと待ってください。何がなんだか。何も用意をせずに突っ込むつもりですか?」
ちらりとラオが考え込むように目を閉じる。そしてその目を開けた瞬間に、にやりとエフライムに嗤いかけた。瞳には何か楽しいものを見たような、怪しい光が宿っている。
「用意なんているまい。俺が調合した香をアレスが持っている。それで充分だ」
エフライムの身体を下げさせると、ラオは扉のノブに手をかけてから振り返る。
「それで、おまえは来るのか? 来ないのか?」
呆気に取られていたエフライムの呪縛はそれで一気に解けた。
「行くに決まってるでしょう!」
今しがた脱いだばかりの上着を掴み、剣を腰に差す。しばし考えてからアレスの剣も手に取った。扉がパタンと閉まり、部屋には甘い香りだけが残された。




