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ヴィーザル王国物語  作者: 沙羅咲
竜の瞳
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第2章  屋敷

「死んでるんじゃないだろうね?」


 ざらざらした女の声が耳につく。


「がっちり生きてるって。まだ眠っているだけだ。ぴったりなガキだろう?」


 同じくざらざらした男の声が響いてくる。まるで壁の向こう側で話をしているみたいに声だけが聞こえてくる。視界は真っ暗なままだ。


「ああ、これならぴったりだよ。ちょうど下働きが欲しかったんだ。読み書きはできるんだろうね?」


「あ…あぁ、多分な。大丈夫だろうさ」


「多分? 多分じゃ困るんだよ。買い物ぐらいはやってもらわないとね。年はいくつだって?」


 一瞬の間。


「たしか十ぐらいじゃなかったかな」


 女が覗き込む気配がする。


「そのぐらいな感じだね。ほそっこいよ」


「よし、ならいいな。売ったぜ」


「あいよ」


 気配がアレスに向き直る。その瞬間に頬に熱いものが走った。朦朧としていた意識が途端にはっきりする。頬がじんじんとしてくる。視界に男が手を振り上げているのが見えて、慌てて身体を起こした。


「いつまで寝てるんだ!」


 もう一発殴ろうとする男から、身体を捻って避ける。頬を狙っていた手は、そのまま肩を強く打つ拳となった。


「痛い!」


 アレスが文句を言ったところで、耳を引っ張られる。あまりの痛さにアレスは男が引っ張るがままに自分が居た場所を離れた。視界の端に馬車が映る。どうやら自分はあれに乗せられてきたらしい。


「ここは…」


 呆然としているアレスの前に、太った中年女が立ちはだかった。あちこちに染みがついた服から丸太のような足と手が出ている。下から見上げると見事な二重顎だった。こげ茶色の髪は、きっちりと頭の高いところでまとめられていて、それをさらに布で覆ってあった。良く見ると染みがついた服に見えたのは、エプロンだったらしい。もとは白かったであろうものに色々な染みがついて、まるで模様のように見えたのだ。


「寝ぼけてるんじゃないよ。あんたは親に売られてきたんだよ。今日からここで働くんだよ」


 何に対して怒っているのか、女がアレスに向かって怒鳴った。アレスは訳も判らず、自分の身の回りを見る。馬車の傍でニヤニヤと笑ってみている男。くぼんだ目ととがった顎。日に焼けた肌に節くれだった手。そしてその手には今しがた得たであろうジャラジャラと音がする革袋を持っていた。


 その男は、にやりと気味悪い笑顔をアレスに向けると、そのまま馬に鞭を当てて馬車を操っていってしまった。アレスは傍らにもう一人、女の子が居ることに気付いた。


「君は…?」



 女の子が怯えたようにアレスを見た瞬間、アレスの頬がまた熱くなった。今度は目の前にいた女がアレスをぶったのだ。思わず手の平で頬を庇う。今まで頬をぶたれたことなど一度も無かった。あまりのことに呆然と女を見返すと、女がまた手を振り上げた。


「無駄口を叩いている暇があったら、さっさと働く準備をするんだよ。あんたたちは売られたんだ。このあたしの許可が無かったら、飯を喰らうことも、息をすることも許されないんだからね。わかったね!」


 アレスはあまりのことにびっくりしたまま女を見つめた。そんな馬鹿げたこと、今まで聞いたこともない。


 誰かの許可がないと呼吸もできない? その問うような視線が女の怒りを加速させたのか、もう一度女の拳がアレスの上に落ちてきて、アレスは身体ごと吹っ飛ばされて、しりもちをついた。


 一緒にいた少女が走りよる。更にもう一回、アレスを打とうとして、女が一歩アレスに近寄ったときだった。


「おやめなさいな。ジュリエッタ」


 若い女の声がした。洗濯物を抱えた黒髪の女性がこちらを見ていた。ジュリエッタと呼ばれた女が、黒髪の女の方に向き直る。


「あんたの口出すところじゃないよ。マリア。いくらあんたが、奥方様や旦那様のお気に入りでも、台所のことには口を出さないでもらおうか!」


 目を剥くように、ジュリエッタが毒を吐くと、マリアは何でもないことのように微笑んで見せた。


「あら、あまり殴りすぎて使い物にならなくなったらどうするの? 奥様は小姓にもなる子が欲しいっておっしゃっていたんでしょう? だったらその子は青痣を抱えて、奥様の前に出ることになるわねぇ。そうなると困るのはあなたじゃなくて? ジュリエッタ」


 うふふ。と声を上げて笑うと、マリアはジュリエッタを見つめる。そしてアレスともう一人の少女に視線を向けた。


「一緒にいらっしゃい。奥方様と旦那様にご挨拶をさせます」


「マリア! それはあんたの仕事じゃない」


 ジュリエッタの怒号をマリアは視線だけで制して、もう一度アレスを見た。そして視線をジュリエッタに戻す。


「この場を私に任せてくれるなら、あなたがこの子を殴っていたことは黙っていてあげるわ。ジュリエッタ。それはあなたにとっても得なのではなくて?」


 ジュリエッタはぐっと一瞬黙った。それは図星だったのだろう。


「いらっしゃい」


 マリアの声におずおずとアレスと少女が動き出す。その背中にジュリエッタの怒号が届いた。


「覚えておいで、この売女! あんたたちもだよ。どうせあたしの下で働くんだ! あたしに逆らったらどんなことになるか、思い知らせてやるよ!」


 その言葉にアレスが身を震わせたとたんに、すでにその場を離れようとしていたマリアが振り返った。


「彼らに手を出したら、あなたの身が危なくてよ。ジュリエッタ」


「それは脅しかい?」


 ジュリエッタの声が響く。


「いいえ。事実の指摘」


 平然とマリアは言うと、身を翻した。大量の洗濯物を抱えたまま、アレスと少女の前に立って歩いていく。アレスは後ろで仁王立ちしているジュリエッタを盗み見ると、慌ててマリアの後を追った。隣に並ぶ。少女はアレス達の後ろから大人しくついてきていた。


「あ、ありがとう。マリアさん」


「どういたしまして」


 そっけなく返事だけが返ってくる。まっすぐに前を向く横顔は意思の強さを思わせる強い瞳が印象的だ。腰まで長く伸ばしたまま、軽いウェーブがかかった黒髪が、背中でベールのように踊っている。


「僕、アレス…」


 そこで一瞬躊躇する。口篭もったところで、後ろの少女から声がした。


「あ、あたしの弟と同じ名前」


 思わず、アレスの足が止まった。少女がおずおずと微笑む。


「私、リーザ。リーザっていうの」


「あ…よ、よろしく」


 先を行くマリアの足がピタリと止まった。


「早くいらっしゃい!」


 ぴしりとした声が響く。慌ててアレスとリーザは、マリアに追いつくべく走りだした。







 マリアに紹介された奥方様と旦那様は、この地方の富豪のうちの一人らしい。らしいというのは、良くわからなかったからだ。とにかく二人はこの館の主人に挨拶した後に、多くの使用人が寝起きしている屋敷の中の大きな一室に連れてこられた。


「この衝立のこっちが男。こっちが女。これが全てよ」


 たんに広い空間に、藁の上に布を敷いただけの寝床が並んでいる。絶句しているアレスをマリアがちらりと見た。


「床に直接寝せないだけでも、まだいいほうよ」


 アレスは曖昧に頷いて見せた。それでもまだ息が継げずにいた。ここで寝る? 全員で?


「一応、位の高い順から壁から中心へと場所を取るの。だから、あなたたちの場所は、この真ん中ね」


 衝立のすぐ傍をマリアは示して見せる。リーザも同じ気持ちなのか、青ざめた顔で見ていた。


「マ、マリアさんはどこに?」


 震える声で、救いを求めるようにリーザが尋ねる。マリアは肩をすくめて見せた。


「私はここでは寝ないわ。ここは下働きの者達の寝るところですもの。私は奥様付きだから、上の部屋で奥様の部屋の隣よ」


 マリアが真っ直ぐにアレスとリーザを見る。それに…とマリアは続けた。


「真ん中っていうのは、お互いから襲われやすいのよ。特に新入りの場合はね。それで真ん中にしているっていうのもあるわ。憂さ晴らしにね」


「どういうこと?」


 その口ぶりにアレスは、さらに悪いことがあるような気がして、尋ねた。


「簡単なことよ。腹いせに痛めつけられることは日常的だわ。眠る場所がなくなったり、殴られたり、蹴られたりは当たり前だし。それ以外に性的なこともあるわね。異性を求める場合もあれば、同性を求める場合もあるわ。あなたたちぐらいの年齢であれば十分なのではないかしら。そうじゃなくても人の好みなんて千差万別だしね」


 さらりと言われた言葉に、アレスは吐き気がしそうだった。そういう営みがあることを知識としては判っている。でもこの場で言われたことは、あまりにもリアルだ。


「それに、ジュリエッタ、彼女はやる気満々よ。気をつけなさい」


 マリアがそれだけ言って立ち去ろうとする。アレスの中の何かが行動することを求めていた。このままでは、自分の身すら守ることは危うい。


「ちょっと待って」


 その言葉にマリアが立ち止まる。


「何?」


「僕たちを守って欲しい」


 マリアが振り返った。美しい眉が片方だけ上がる。


「もう私は充分にあなたたちを守ったと思うけど?」


 焦っちゃいけない。アレスはマリアを見ながら急いで頭をめぐらした。多分、彼女を逃したら次のチャンスはない。アレスの勘が伝えていた。


「あなたの言葉通りだとしたら、問題は今までじゃなくてこれからだ。ここでは眠ることすらできないでしょう?」


「そうね」


「ここを出られたらお礼は充分にする」


 アレスの言葉にマリアが吹きだした。


「ここを出るですって? 売られてきた子はね、大きくなるまで出られないの。いいえ、一生ここから出ることはないわ。ずっとこの家に仕えて暮らすのよ。ジュリエッタだってそうなんだから。かわいそうなジュリエッタ。子供の頃に売られてきて、そのままここの召使。あなたたちもね。子供を売る親なんてろくでもないわ」


 アレスはぎりりと唇を噛んだ。自分の身分を明かすわけにはいかない。信じてもらえないということは、アレスとて判っていた。たった十三歳の少年が言う言葉にどんな重みがあろうか。考えろ。考えて、取引できる言葉を捜せ。それが今、彼にできる精一杯のことだった。


「あなたは何故ここにいるの? マリア。売られた来たわけではないんでしょう?」


「うふふ。私は私の理由でここに居るの。それはあなたと関係ないでしょう?」


 マリアとアレスの目に見えない戦いをリーザは息を呑んで見ている。アレスはリーザを背にしてマリアを睨みつけた。何もできない自分が悔しい。


 何もできなくて…じっと見ているうちに、視界にありえないものが映っていることに気付く。マリアの右肩の上。透けて、まるで陽炎のように立ち昇っているように見えるが、あれは…。


 頭の中で組み立てる。もしもここがグィード村なら?


「マリア。ここはグィード村なの?」


 ゆっくりと、確認するようにアレスは質問を唇に乗せた。


「ええ。そうよ。だから何?」


 マリアが肯定する。


「だったら…」


 ゆっくりと焦らずに。視線は左側、彼女の右肩の上に固定した。


「それはマズイよね」


 リーザには判らない。リーザに背を向けたまま、リーザからは見えない表情で。でもマリアからアレスの目線は見えているはず。そしてそのままマリアの顔に視線を移した。薄暗い部屋の中でも判るぐらい青ざめている。


「な、何のことかしら?」


「口に出さないほうがいいよね? ここはグィード村だよ。ヴィーザル王国の中でも特殊な場所だから」


 ゆっくりと。相手に考える時間を与えるほどゆっくりと。静かに告げる。マリアが驚愕の表情になる。


「あなた…何者?」


 初めて、初めてマリアが対等な視線でアレスを見た。


「僕があなただったら、僕を敵に回すことはしない。むしろ恩を売っておこうと考えるけどね」


 アレスがたたみかける。マリアの視線は外さない。いや、実は外していた。しかし彼女から見たら、瞳を覗き込まれたように見えただろう。目の淵に視点をあわせ、目の前の人物の気をそらさない。


 そう。なぜか判らない。もしかしたら、自分に憑いているというネレウス王の、おじい様の加護かもしれない。アレスにはマリアの右肩の上にいるものが見えた。それは竜のように見える。翼を持った爬虫類。そうであれば、もしも彼女がそれを認識しているのであれば、彼女はマギであるはず。


 イチかバチかの賭けをアレスはやったのだ。認めればアレスの勝ち。認めなければ彼女の勝ち。そして彼女の表情は、彼女を裏切ってアレスに勝ちをもたらした。


 ヴィーザル王国の中で唯一、グィード村はマギ狩りがある村。だからこそ彼女はその秘密を知られたくないに違いない。まずは優勢を得たのだから、ここでボロを出してはいけない。アレスの頭は更に回転を早めていた。どうやってこの優勢を維持して、彼女に協力させるかが問題だった。


「あなたの部屋で眠るか、または新しい部屋を用意してもらえるように交渉してくれないかな」


 アレスの言葉にマリアがはっと我に返った。


「馬鹿な…」


「そう? 僕たちは奥様付きとか旦那様付きの小姓になるんでしょう? だったら一緒の部屋でも問題ないじゃない」


「何を言ってるのよ!」


「あ、僕は誓ってあなたにもリーザにも手を出さないから」


 アレスは両手を上げて見せた。そのあまりのさりげなさに、マリアの方が呆気に取られる。やれやれ…とばかりにマリアは首を振った。何を感じたのかわからない。しかし、次の瞬間に顔を上げたときに、アレスを見る眼は穏やかだった。


「あなた、本当に只者じゃないわね?」


「そう? 僕は単に売られてきた子だよ?」


「そんな訳ないわ。私、こう見えても人を見る目はあるの。あなたはまるで世界の覇者みたいな眼をしてるわ」


 その言葉にアレスはにやりと嗤って見せた。


「それは最高の誉め言葉だね。あなたも只者じゃないって雰囲気だけど? マリア」


「私のことはいいのよ」


 その言葉に照れたようにマリアは頬を染めると、くるりと背中を見せた。


「さぁ、いらっしゃい。じゃあ、私の部屋に案内するわ。でも狭いから覚悟しておいてね」


 アレスは戸惑うリーザの手を取ると、マリアの背中を追い駆けて歩き始めた。









 翌日から、朝日の前に起きて下働きの者達と一緒に台所の床を磨き、馬屋の掃除をし、そして奥様や旦那様が起きてくるころには、食事の給仕をし…という生活が始まった。屋敷の裏にある井戸から水を汲みあげる役目はアレスの仕事となった。水がめの水が無くなっていると、打たれ、蹴られる。こればっかりはマリアの助けを求めるわけにはいかなかった。特に下働きのものをまとめているジュリエッタと料理人のトビアスという男が、四六時中回りに怒鳴り散らしていた。


 あっというまにアレスの手はアカギレができて、豆だらけになっていた。剣の稽古でできた豆もあったが、それ以外に井戸の水をくみ上げる際に、新たな豆ができてしまっている。しかし寝る時間になってマリアの部屋に帰ると、ほっとした。何もないが、少なくとも安全だった。


 日がたつにつれて、見る見るうちに二人とも痩せてしまった。それもそのはずだ。ジュリエッタもトビアスも、何かにつけて人の食事を奪うのが趣味だった。


「明日の朝食は抜きだよ!」


「夕食は抜きだ! 怠け者に飯はやらん!」


 昼もかりかりに乾いたパンだけということも少なくない。子供は一人前いらないというのはジュリエッタとトビアスに共通した見解のようだった。マリアはどこで食事しているのか、いつも食事の時間にはいなかった。その割にはお腹をすかせた風情もない。


 あまりお腹をすかせすぎると、自分がお腹すいているのかそうでないのか、麻痺してくるものらしい。いや、すごく空腹なのだが、それ自体が夢のように感じてくる。それでいて、頭の中に浮かんでくるのはスープやパンのことだった。


 不思議なことに、アレスにとって思い出されるのは豪華な食事ではなくて、旅の途中で仲間たちと食べたささやかな食事のことばかりだった。エフライムが作ってくれた干し肉を入れたスープや、ラオの薬草だらけのスープ。あのまるで一見雑草だらけのように見えたスープが思い出される。


 くすりと笑みが零れた。あのスープ。飲んだらおいしかったけど、みんな退いてたもんなぁ。緑が一杯ぐちゃぐちゃ入っていて…。


 次の瞬間、背中に熱いものを感じて膝を突いた。思い切り背中を打たれたのだ。顔は奥様や旦那様に見つかる可能性が高いので、最近は服に隠れている部分を叩かれたり蹴られたりするのが常だった。


「何やってるんだい! にやにや笑ってるんじゃないよ。この役立たず! さっさと仕事しな」


 ジュリエッタが両手を腰に当てて後ろに立っていた。慌てて立ち上がる。そこを足払いで転がされた。アレスの身体と一緒に片付けてあった鍋やヤカンが転がって大きな音をたてた。


「片付けるんだよ。このうすのろ! 食堂の床の拭き掃除も残ってるだろう! さっさとおやり!」


 アレスはのろのろと立ち上がり、雑巾とバケツがある隅に歩いていった。食堂の床の拭き掃除は、今日は自分の仕事じゃなかったはずだったが、でもそんなことはジュリエッタにはどうでもいいことだった。いつでも誰かに当たってないと気がすまないのだ。


 身体が動かない。さっさと動きたくても、今打った膝が痛くて上手く動けない。その背中にまた何かがぶつかった。眼の前に鍋が転がる。ジュリエッタが投げつけたのだろう。


「先に片付ける! いいね」


 アレスは黙って頷いて、鍋に手を伸ばした。ここを逃げ出すことは何度も考えた。しかし、そう考える召使も多いのだろう。夜は城門が閉ざされて、犬が放たれる。それにこの屋敷の正確な位置がどこだかわからない以上、行き場は無かった。


 エフライムとラオのことだ。自分を探しているだろう。だとしたら、それまでの辛抱だった。下手にここを抜け出て野たれ死ぬよりも、まだここであれば辛くても命までは取られない。


「でも、早く迎えに来てよ…エフライム。ラオ…」


 気を緩めると、そのまま溢れてしまいそうな涙腺を抱えたまま、アレスは鍋を取り上げて元の場所へと戻し始めた。


 一日が終わるとほっとする。打たれ、殴られ、傷つき疲れきった体を引きずってマリアの部屋へと戻るのはアレスもリーザも一緒だった。


 マリアの部屋は狭く、マリアのベッドの横に、アレスとリーザは藁を持ち込んでその上にシーツをかけて眠っていた。最初はちくちくして眠れなかった藁のベッドもなれてしまえば、なんということはなかった。それよりも疲れの方が大きくて、ぐっすり眠るのが常だった。


 それでも夜中、リーザの堪えた泣き声で目が覚めることもあった。そんなとき、そっとアレスはリーザの背中を撫でてやった。それだけでも落ち着いてくるのかもしれない。しばらくすると、


「ありがとう」


 と小さな声で言って眠りについていた。


 この日も誰かの泣いている気配で目が覚めた。夢うつつの状態の中で、リーザが泣いているんだったら、背中を撫でてあげよう…と思いつつ寝返りを打って、リーザを見ると疲れ果てて眠っている最中だった。朦朧とした意識の中で、涙の気配を探る。ふと視線をあげると、マリアが泣いていた。声を殺して、じっと宙を見たままで涙だけが流れている。


「マリア?」


 リーザを起こさないように、声を殺して呼びかける。マリアがその声に気づいて、慌てて涙を拭うのが見えた。そっとリーザを起こさないように、アレスは身体を起こす。


「大丈夫?」


 月明かりの中でマリアが涙を隠すように、そっぽを向くのが見えた。


「早く寝なさい」


 そう平坦な声で囁かれる。ちょっと声が震えていたのが、まだ泣いている証拠だった。そっと立ち上がって、アレスはマリアの前に立って、その頭を抱きかかえる。マリアが戸惑っていたが、構わずに、そっと背中を撫でた。


「僕の両親が死んだときに、ルツアがやってくれたんだ」


 アレスがそっと呟く。ちょっとマリアの頭が動いたが、そのままアレスが動かないでいると、マリアも諦めたように動かない。しばらくアレスの胸元から鼻をすするような音が聞こえていたが、それも静かになった。顔を上げようとしているのを感じて、アレスはようやく腕を放した。暗闇でも目が真っ赤になっていることが分かる表情で、マリアがアレスを見上げたいた。


「ルツアって誰よ?」


「僕を育ててくれた人。でもルツアも死んじゃった」


 マリアの眼が見開かれる。


「そう…」


「今でも死んだ人のことを思い出すと泣きそうになるよ」


 アレスはマリアに微笑んでみせた。マリアもふっと照れたように笑みを返す。そして視線を窓の外に逸らした。


「妹を思い出していたの」


「妹がいたの?」


「ええ。馬鹿な子。へんな男にひっかかって。挙句の果てに自分で命を絶ってしまった」


 そこでマリアは黙りこんだ。夜の静けさが染みてくる。遠くで鳴く梟の声が微かに聞こえてきた。


「いつも思うわ。何かできたんじゃないかな…って。止められたんじゃないかな…って」


 その瞳は遠くを見ていた。窓の外よりももっと遠く。きっと過去の自分の姿だろう。アレスも思い出す。自分が失ってきたもの、自分が奪ってきたもののことを。


「いつも何かできたんじゃないかなって思うんだよね。失った後に。でも、それが最善だったんだよ。その時点では」


 マリアが驚いたようにアレスを見る。


「そうでしょう? 自分ができる最善のことを、その時にやっていたはずなんだよ。それでも力が足りなかったんだとしたら、それは誰のせいでもない」


 アレスの瞳がまっすぐにマリアを見ていた。マリアが不思議そうにアレスを見返す。


「あなた…本当に何者? そんな言葉、十三歳の少年の言葉じゃないわ」


 マリアから何者か尋ねられたのは何回めだろう。アレスは苦笑した。


「僕はアレス。十三歳の少年だよ。そうだね。そのうちに僕が何者か教えてあげるね」


 いつか、きっと遠くない未来。エフライムとラオが僕を見つけたときに。


「今は言っても信じてもらえないと思うし」


 マリアがアレスの言葉にふと視線を外してはにかむように微笑む。


「今だったら、何を言われても信じてしまいそうだけど…」


 視線がアレスに戻ってくる。


「でもいいわ。いつか。ええ。いつか教えてちょうだい」


 アレスはその言葉に黙って頷いた。 



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