第1章 道行
「ここでじっとしていてくださいね」
エフライムの言葉にアレスは頷いた。周りは暗い森。すでに陽は落ちかけていて、森の中までその力を伸ばすことができない時間だった。乗ってきた馬をそれぞれの木につなぐと、夜の支度を始める。今夜はここで野宿の予定だった。
軽くくしゃみをしたアレスに、エフライムは自分のマントを脱いで差し出した。腰に下げた剣が鈍く光っている。エフライムが近衛隊長として就任した際に、アレスがプレゼントしたものだ。
エフライム・バースの緑の瞳がアレスを覗き込む。薄い茶色のさらさらとした髪に、最上級の笑顔。エフライムを女性たちが放っておかないのも無理はない。
「俺は残ろう」
影のようにアレスの後ろにいたラオが、ボソリと呟いた。
ラオ・メイクレウス。銀色の髪に色素が抜け落ちたような薄い水色の瞳は、この薄暗がりではぼんやりとして見える。黒いマントを羽織っているがために、なおさら髪の銀色が引き立っていた。
銀髪のせいで年をとって見えることもあるが、これでも二十代後半。エフライムよりは年上だが、アレスの父親に間違えられることもあるのは本人とて不本意だろう。
アレスは、十三。ラオと出会ってからやっと二年が経とうとしている。この無口で、いつも言葉が足りない男との付き合いもだいぶ慣れてきた。
森は暗い。きっとこの男のことだから、アレスが一人でいることを恐がると思ったのかもしれない。
アレスは心の中で軽く笑った。彼らの中で、まだ自分は小さな子供なのだ。出会ったばかりのころの泣いてばかりいた子供のまま。
「大丈夫だよ。ラオ。焚き火でも作って、二人が戻ってくるのを待っているから」
そう。野宿をするには、水を汲み、木々を集め、焚き火を作り…と色々とやることがあって忙しい。なんども慣れた手順だ。ラオをここに残す必要もない。せいぜい来るといっても野犬の類。それもしばらくの間ならアレスだけで持ちこたえることができるだろう。アレスは腰の剣の重さを確認した。
過信は禁物ですよ、とエフライムなら言ったかもしれない。でも既にアレスの周りで、アレスの相手ができる人間は限られつつある。決死の覚悟で習ったものは何であれ、驚くほどの勢いで身につくものだ。
アレスの言葉にラオは顔をしかめた。不本意な際に見せる表情をする。それももう慣れてしまった。安心させるように微笑んで見せる。
「大丈夫。さあ、行って。でもすぐに戻ってきてね」
エフライムはアレスの顔を見て軽く肩をすくめた。
「水汲みと周囲の確認が終わったらすぐに戻ってきますから。何かあったら大声を出してくださいね」
エフライムの言葉にアレスが頷く。ラオは黙って片手で腰に下げた袋を外して、その中からなにやら掴むとアレスに渡した。アレスが手に押し付けられたものを見ると、木で出来た小さな入れ物のようだった。
「何?」
「香だ。何かあったら、それをぶちまけろ。ただし自分には掛けるな。そして口と鼻を塞いで一気に逃げろ。いいな?」
アレスはもらったものをぐっと握り込んでから、ポケットに入れた。そしてもう一度にっこりとラオに笑いかける。いつも自分のことを気にしてくれる、この男の瞳を見た。感情をあまり表さないけれど、それはこの男の不器用さだ。
「ありがとう。ラオ。使わないと思うけど、もらっておく」
ラオは頷いて、踵を返した。エフライムが軽く手を振ってそれに続く。アレスはその二人を見送ってから、この馬を止めた場所の周りにある小枝を集め始めた。
そこは暗い森の中。ヴァージの森とも呼ばれているブレイザレクの山の麓だった。本来であれば、西の国境の町アイテルから東の港町アセルダに抜ける街道を通って移動するのが、この国で一番楽で確実な移動手段だ。
このような森の中は、野犬や盗賊の類が未だ出没し、あまり安全な道ではない。それでもこの道を選んできたのには理由があった。
このヴィーザル王国の西に位置するトラケルタに、不穏な動きがあるという噂をエフライムが聞きつけてきたからだ。西のトラケルタとの国境の町はアイテル。しかし場所はそこではなくて、そのもっと北側に位置した場所にあった。
「グィード村?」
その時の会話をアレスは思い出した。首をかしげたアレスにエフライムが説明を加える。
「アイテルのもっと北にある村です。表向きは貧しい農村だと言っていますが、その実、トラケルタからの交易品を通すという名目で、領主が勝手に税を掛けているとも聞いています。正規のルートでは禁じられている品も通しているとか。とは言え、周りから聞こえてくるのはあの村が貧しいということばかり。領主と領民との間にかなりの格差があるとしか思えないですね」
そのエフライムの説明に、バルドルが目を剥いた。
バルドル・ブレイザレク卿。ブレイザレクの山々の名前を持つこの老人は、王の懐刀とも、知恵袋とも呼ばれる。ヴィーザル王国三代の王に仕えている歴史の生き字引だ。
すでに真っ白になった髪と顎鬚を持ちながら、武人としてのいかめしさは相変わらず健在だった。
「そんな場所での交易は禁じてあるはず。アマステラ公は何をしてるのじゃ!」
その言葉にエフライムが苦笑する。
「いくらなんでも、監督領域が広すぎますよ。上手い具合に交易を隠されたら、それこそ田舎の片隅の村の状況なんてわからない。それにアマステラ公は正規の国境の町のアイテルも領土の一部なんですからね。そっちの監督だけで精一杯でしょう」
エフライムの言葉に、傍にいたオージアスも頷く。
近衛副隊長のオージアス・ザモラはエフライムとは対照的な印象を人に与える。エフライムよりもちょっと年上だが、鼻梁の高い鷲鼻とちょっとつりあがった目のおかげで、黙っているだけで怒っているような表情だ。それにダークブロンドの髪とダークブルーの瞳が、拍車をかける。
笑うと可愛いんだけどな…とアレスは本人が聞いたら、悶絶しそうなことを考えていた。
「それにね」
エフライムが続ける。
「もう一つ気になることを耳にしたんですよ。マギ狩りをしていると」
アレスの後ろにいたラオの気配が一瞬濃くなる。それだけでアレスにはラオの驚愕が感じ取れた。
「それもネレウスが禁じたはずじゃ!」
バルドルが怒鳴った。エフライムが手で耳を塞ぐ真似をしながら、苦笑いする。
「落ち着いてください。バルドル殿。まだ噂の域を出ないんですから」
「まずは証拠ですね。確認をしないことにはしらばっくれて終わりになりますよ」
オージアスが冷静な口調で、結論を口にした。その日はそれで終わりだった。表向きには…だが。
「バルドル…怒ってるだろうなぁ」
アレスは実際に見て見たかったのだ。そのグィーダ村を。一体何が行われているのか。貧しい領民と勝手に交易をして私腹を増やしている領主。すでに禁じられているはずのマギ狩りまで行って…。それは許せないことだった。いや、しかしそれ以上に、人の話を聞いている以上に、自分で見聞したいと思っている自分がいた。そのことをアレスは知っていた。
どちらが自分の中の気持ちとして上なのか、アレス自身もよく分からない。でも、だからこそ、証拠集めという話を聞いた瞬間に思ってしまった。自分が見に行ってやろうと。
実際、バルドルに保護され、エフライムやオージアスに守られた生活が嫌なわけではない。王である以上は仕方ないことだ。
「王様かぁ…」
ほとんど組み終わった小枝に火をつける前に、アレスは空を見上げた。かすかにあった太陽の残りはすでに消え去り、いくつかの星が見え始めている。肉親同士が争った戦いから、すでに二年。バルドルやたくさんの人の助けを得て、アレスは王に就任した。
王アレス・ラツィエル・ヴィーザル。戦うものを意味するアレスと言う名。そしてあまり知られてはいないが、天使ラツィエルの名をも持つ。ヴィーザル王国の正統な継承者であることを意味するヴィーザルの姓。
年齢は関係ないとバルドルは言うけれど、それでもアレスは自分が王であることが正しいのかと思うことがある。たった十三歳の少年。それが今、ヴィーザル王国を導いている王だった。
アレスの祖父は、歴代の王の中でも名君との誉れが高いネレウス王。その名に恥じないように一生懸命、この二年間は戦いで荒れた国を建て直すために、がんばってきたはずだった。だがそういう生活は息苦しいということに、どこかで気付いてしまった。
王という名の重さ。その責任の重さに気付いたということだろうか。
小枝に火をつける。火打石の使い方も手馴れたものだ。王となった後も、忘れないように使ってきた成果だった。腰の剣を外して傍らに置く。
エフライムが残したマントに身を包んだ。マントからかすかにエフライムの匂いが立ち上る。優しい匂いだった。何か香を焚き染めているのかもしれない。思わず、くんくんと匂いを嗅いでから苦笑する。
「エフライムって本当におしゃれっていうか…」
呟いてから、また空を見上げた。本当は一人で抜け出そうとしたところをラオに見つかった。そう、アレスに影のように付き従っている彼を出し抜ける訳がない。いつだってアレスの行動はラオに筒抜けだった。
どこへ行くと問われて、思わず口篭もった。しかしラオはアレスの行動には反対はしない。賛成もしない。いつでもアレスが決めたところについてくるだけだ。何も答えられないままラオをつれて、馬屋まできたアレスを見つけたのはエフライムだった。彼の驚くほどの気配の感知能力もごまかせない。
「ラオ…私としては、アレスが抜け出すと知ってるんだったら、止めて欲しいんですけどね」
馬屋の前で立ち尽くす三人。最初に口を開いたのはエフライムだった。呆れたような口調のエフライムを前に、ラオは顔色も変えない。
「俺は自分の誓いに従って、アレスを守るためにいるだけだ」
予想された通りのラオの答えにエフライムは肩をすくめると、アレスをじっと見つめた。
「それで? アレス。あなたはどこに行くつもりなんです?」
それは責めるでもなく、なじるでもなく、単なる質問だった。
「グィード村まで…」
仕方なくアレスは正直に答えを言う。エフライムをごまかすなんて無理だっていうことは充分承知していた。エフライムに対しては、誰も偽りの情報を流せない。心を決めて乗り込んできた他国のスパイでさえも、エフライムを前にしてはすべての秘密を話してしまうだろう。
「なんで自分で見に行こうっていうんですか?」
エフライムの言葉にアレスはぐっと唇を噛んだ。一度目を逸らした後に、もう一度エフライムの目をまっすぐに見る。
「僕は自分の国をちゃんと見ておきたいんだ。自分の目で」
半分自棄になった声だった。こんなありきたりの言い訳を、誰も認めやしないことは自分でもわかっていた。だから声が震えてくる。ラオはともかく、エフライムは絶対に自分を見逃さないだろう。じっとエフライムを見つめる。その眼が一瞬笑ったような気がした次の瞬間だった。
「わかりました。お供しますよ」
アレスは自分の耳を疑った。今、何て言った?
「仕方ないでしょう? いつの間にか居なくなられるよりも、お供をさせてもらったほうがよっぽどいいです。ラオと私と二人いれば、まあ、大抵のことには対処できるだろうと思いますしね」
エフライムは片目を瞑って見せると、さっさと馬の用意をし始めた。あっけに取られたアレスも我に戻ると、慌ててその後に続いた。それが今朝のことだった。
起こした火はだいぶ大きくなってきた。これなら煮炊きに充分だろう。暖かい火を見ながらマントに包まれていると、眠気が襲ってくる。今朝は皆が起きださないうちに出てきたのだから、なおさらだ。
うとうととしたところで、後ろからガサリと草が動く音がした。エフライムかラオが戻ってきたのか…と寝ぼけた頭で考えてから、ふと目が覚める。二人とも、今のようながさつな音を立てるような動き方はしない。
振り返ろうとして、口を塞がれた。首筋に何かが振り下ろされる。身体を振りほどこうとして、意識が遠のいた。最後に思い出したのはラオの香だったが、もう手は動かず、目の前が暗転していった。
「戻るぞ!」
水を汲みに行っていたはずのラオが突然現われて、エフライムに声をかけた。その声色はただ事ではないことを伝えていた。ラオは水を汲んだ桶を持ったまま走っている。
エフライムもかなり暗闇で目が利くほうだがラオの比ではない。まるで見えてるように、倒木も背の高い草も、ものともせずにアレスを残した場所へと走っていく。
遅れること数歩、エフライムがその場所についたときには、すでに全てが終わった後だった。
残されていたのは、アレスの剣と自分のマント。そして焚き火が明るく燃え上がっている。ラオはアレスが居たであろう場所に膝をついていて、地面を調べていた。その横にエフライムも拾った薪を置いて膝をつく。
「何があったんです?」
語気がきつくなる。ラオはそれには答えずに、そのまま傍の木に手をついた。神経を集中するように目を瞑っている。エフライムは立ち上がって周りを見回した。遠くにざわめく木々の音がする。しかしすでにアレスの姿は無かった。
大きく息を吐く音が聞こえて、思わずラオを見つめた。ラオもエフライムを見つめ返している。
「アレスはさらわれた。さらった奴は今、西に向かっている」
「追い駆けましょう!」
ラオは黙って頷くと、手桶の水を焚き火にかけた。ジュッという音と共にあたりが暗闇に包まれる。馬の手綱を取ると、一本をエフライムに渡した。
「私がアレスの分も持ちますよ。それよりあなたは、アレスの後を追ってください」
ラオはその言葉に返事をせずに、もう一本の綱もエフライムに渡す。それがラオ流の返事だとエフライムにもわかっていた。そのまま馬が動く気配がする。馬は夜目が利くので問題はない。月の明りに馬の目が光って見える。あとは操っている人間が、どの程度使えるか…だけの問題だった。
低く馬の手綱をさばく音がして、馬が走りだした。エフライムはぽんぽんと馬の首をたたくと、ラオの馬を追いかけるようにして、暗闇の中へと駆け出していった。




