第18章 夜明け前(2)
トゥールたちの軍の上に土砂降りの雨が降っている。ぽつりぽつりと降ってきたと思ったら、あっという間に土砂降りになってしまった。どんどん水嵩が増していく。中州が見えなくなるのも、もうすぐだろう。そうなったら渡ることはできなくなる。
「急いで渡れ!」
トゥールは大声を出した。近衛たちに囲まれるようにして、王とトゥールが渡りきったところで、濁流が押し寄せた。後に続いた者と馬が流されていく。その様子をレグラスは青ざめた顔で見ていた。川の向こう岸では残された者達が、川に入るのを躊躇していた。
「早く渡らせろ」
レグラスの声が冷たく響く。川の濁流が夜の闇に、さらに黒く見える。トゥールが側にいる者に、声をかけた。
「おまえ、向こう岸に行って、早く渡ってくるように言え」
声をかけられた者が青ざめる。今渡ってくるのでさえ、馬の脚を取られそうになり、大変だったのだ。すでに水嵩が増した川に再び入れと言うのか…。
「ヴェルダロス様…無理でございます。この雨で水があのように巻いております」
「王が行けといっておるのだ。行け」
レグラスが冷たく言い放つ。男は泣きそうな顔で、川へそろそろと足を踏み入れた。少しだけ進んだところで、身体のバランスを崩して水の中へ倒れこむ。そのまま何かを叫んだかと思うと、流されていってしまった。トゥールはそれを見て、目をそらす。それでも向こう岸の者に向かって手を振り上げて、こちらへ来いという合図をする。
雨はいよいよ激しくなっていた。さすがに目の前で流された仲間を見てしまっては、向こう側にいる者達も川に入るのには躊躇している。いくら王の命令とは言え、渡れそうにないものは渡れない。その様子に、レグラスは痺れを切らした。
「もういい。渡れるようになったら城に来るように言え」
側仕えの一人に言うと、レグラスは馬を城の方へ向けた。
「ついてこい。トゥール」
「私は行けません」
「トゥール?」
「あの者達は」
トゥールは向こう岸にいる兵達を指差した。
「我々の兵です」
「だからどうした。兵など、また集めればいい」
トゥールは顔色を変えた。側にいたオージアスとユーリーにもレグラスの声は聞こえたようだ。思わず視線を交わしたことにトゥールは気がついた。
「私はここで待ちます。そして兵をつれて陛下を追い駆けますゆえ、城へは先においでください」
トゥールはレグラスを見つめ返した。レグラスの唇に冷たい笑みが浮かぶ。
「勝手にするが良い。おまえ達はついてこい」
側に控えていた近衛たちに言う。オージアスは黙って頷いた。そしてトゥールに向かって会釈をすると、王に従って城へ向かって駆けていく。後にはトゥールとわずかばかりの供のものが残った。
トゥールは馬上で、川向こうを見つめていた。レグラスと自分に従った者達。戦いに疲れきった様子が見える。その疲れた身体で、川を渡ろうとじっと雨がやむのを川岸で待っている。
こんなに疲れきってしまっていては、明日、アレスの軍が攻めてきたときには、守りきれないだろう。一体どこで間違ってしまったのか。
――おまえの息子はおまえを殺し、そして王になる――
頭の中で三十年も昔のラーキエルの言葉が蘇った。
三十年前、ネレウス王は突然、マギおよび遠見と謁見すると言い始めた。マギや遠見は魔性の力を持つものとして恐れられ、迫害されていた者達だった。王の真意がどこにあったのか、それはマギと遠見を保護する法を作り、フォルセティを王家の遠見として召抱えたときに明らかになる。城の諸侯は、バルドル以外、謁見に対して反対の立場を取っていた。そこをネレウスが押し切って謁見を始めたのだった。
最初に来たのは、未来を見る力を持つマギ達だった。皆ネレウスに対し、未来の片鱗を語った。先を見る力を持つマギ達は、ネレウスが自分達を守ってくれるということを知っていた。だからこそ先を争うようにしてネレウスの前に跪き、忠誠を誓って去っていた。
その中にラーキエルがいた。白髪交じりの髪に、皺だらけの顔を持つ老女。薄茶色の眼だけはギラギラと光っていたのを、トゥールは思い出す。
マギたちの語る未来は、まるで謎かけのようだった。誰一人としてはっきりしたことは言わない。思わせぶりな言葉だけを吐いていく。その中でラーキエルだけが、はっきりとトゥールの脇をすれ違うときに、呟いたのだ。
「おまえの息子はおまえを殺し、そして王になる」
と。
愕然としているトゥールに対して、さらにラーキエルはにやりと嗤って言葉を続けた。
「おまえは捨石じゃ。野心を持たずにいるのが良い」
野心もあったあの頃、トゥールにとってラーキエルの言葉は受け入れがたいものだったのだ。だからこそ、妻に息子が生まれたと聞いて、殺して捨てるように言った。息子さえ生まれなければ、運命はこちらのものだ。
あの言葉は自分だけに言われたはずだった。呟くように、囁くように。だが、どうやってネレウスは知ったのだろうか。いやグリトニルも。多分…答えは一つしかない。
王の遠見、フォルセティ。単なる遠見だと思っていた。遠見とマギでは能力が違う。マギの能力は多様だが、遠見は単に遠くが見えるだけだ。人に見えないところが見えるだけ。だからこそフォルセティは、比較的すんなり城に迎え入れられた。
遠見とマギは違うものだと言ったのは誰だ?
多くのマギと謁見したネレウス王その人だ。そしてバルドル。皆一様にマギとして認識されていた人々を遠見とマギに分けた。
そしてフォルセティは、遠見として城に迎え入れられたのだ。だが、今なら分かる。フォルセティはマギだったのだ。そうでなければ説明がつかないことが多すぎる。
なぜネレウスは最後の戦いに挑むにあたって、グリトニルに王位を与えたのか。なぜ常に従ったバルドルは残したのか。なぜグリトニルは、伺うように自分をいつも見ていたのか…。
あの視線に耐え切れず、あの扱いに耐え切れず、自分は一歩踏み出してしまったのだ。だが…。息子は生きていた。
「ふっ」
トゥールは嗤った。息子が生きていて、自分を殺すならそれで良い。ここまできたら、先は長くないだろう。そしてその息子が王位につくのであれば、それもまた一興。ヴィーザルを代々続く王家から取り上げる。後に残るのは、このトゥール・ド・ヴェルダロスの血を継ぐ者となるのだ。
雨が降りしきるなか、トゥールは遠くを見た。川の対岸のさらに向こう。彼の息子がいるはずの場所を見る。何度も殺そうとしながら失敗した。その息子に未来を託すとは…。自嘲の笑みがトゥールの唇に浮かんだ。
夜明け前に雨は止んだ。アレスのテントの周りで、前日同様、用意で走り回る人々の音が聞こえてくる。すでにテントの中には、バルドルをはじめとする各諸侯が、アレスの前に挨拶に来ては散っていく。敵軍は雨のせいで、まだ川の前にいた。
フェリシアの遠見の力でレグラスだけが城に向けて、馬を走らせていることが分かっている。だがそれはバルドルの判断で、各諸侯に黙っておくことにした。まずはこの戦場をきっちりと片付けてしまおうという算段だ。各諸侯には、当初予定通りの動きをして貰うこととなった。
一通りの挨拶が済んで、テントの中にはいつもの仲間が残った。アレスは側仕えに合図をして、テントの外に出ているように言う。ハウトが地図を持ってきた。
「トゥールがいるのがここだな。まだ川岸だ」
指でぽんとクラレタの平原の端にある川岸を指差す。
「そしてレグラスがここ。近衛隊と一緒だな?」
城の近くの街道を指差して、フェリシアに確認する。フェリシアは黙って頷いた。
「まずはこの川岸をなんとかしちまおう。その後は、城に忍び込む」
ハウトの言葉に、皆が驚いた顔をする。
「残る戦力は近衛だけだ。レグラスを片づけるのに、城を荒らしたくはないからな。それだったら、忍び込めばいい。多分…あの俺達が逃げてきた通路が使える筈だ。レグラスと…必要なら近衛も討って、正面からアレスを迎えれば、終わりだろう?」
軽い調子で言うハウトに、エフライムは目を見開くと、次の瞬間に吹き出した。
「さすがの近衛もあなたにかかると形無しですね。ハウト。いいでしょう。私は乗りますよ。その案」
「忍び込むときは僕も行く…って言いたいけど、駄目だよね」
「駄目です」
「駄目だ」
「駄目じゃ」
一気にエフライム、ハウト、バルドルが却下する。予想通りの反応にアレスは仕方なく肩をすくめて見せる。バルドルがアレスを見てにやりと嗤うと、そのままハウトに視線を向けた。
「じゃが、わしはおまえと一緒に行くぞ、ハウト」
あまりに気合の入ったバルドルの言い方に、ハウトが驚いたような顔をする。
「どうしたんだい? じいさん。俺はてっきりアレスの側にいると思ったぜ」
バルドルがにやりと嗤う。
「人をおいぼれ扱いするな。そろそろ活躍させてくれてもいいじゃろうが。昨日だってじっと控えておったんじゃからな」
ラオがちらりとバルドルを見る。バルドルはその視線に頷くようにすると、ラオを見て言う。
「アレスのことを頼めるな? ラオ」
ラオは黙って頷いた。
「私もハウトと一緒に行くわ」
今まで黙って聞いていたフェリシアが宣言した。ハウトが眉を顰める。
「やめてくれ。遊びに行くんじゃないんだぜ」
だが、フェリシアはハウトの眼を見据えた。
「城に忍び込むのに、遠見を連れて行かない気? あの迷路だってあなたじゃ抜けられないわ」
「だが…」
「駄目よ。ヴィーザル城のあの迷路は、私でさえも迷いやすいのよ」
ハウトとフェリシアが睨みあう。先に目を逸らしたのはハウトだった。
「勝手にしろ」
フェリシアがにっこりと笑った。
「勝手にするわ」
ハウトが一同を見回した。
「まずは川岸だ。行こう」
バルドルがアレスの肩に手をかけた。
「出陣ですぞ。陛下」
アレスがびっくりしたような顔になる。
「川岸は僕も行くの?」
「そりゃそうです。敵を落としたときに王がいないのでは、格好がつきませんからな」
バルドルがにやりと嗤う。
「ご用意を」
「わかった」
アレスは神妙に答えた。用意のためにハウトとエフライムも出て行った。そろそろ夜が明けるころだ。アレスも側仕えのものに手伝ってもらって、鎖帷子を着る。昨日一着ていただけでも、身体のあちらこちらに筋肉痛を感じる状態だった。今日もこれを着るのかと思うと気が進まないが、文句を言える訳がない。
「陛下?」
着替えを済ませたアレスの寝所の前で、フェリシアの声がした。
「どうぞ」
アレスが応じると、フェリシアが入ってくる。男の身なりをしている。
「どうしたの、それ」
アレスが言うと、恥ずかしそうにフェリシアは頬を赤らめた。
「ルツアのですわ。さすがに戦場を抜けるのに、女の服装でいるわけにはいきませんでしょう?」
フェリシアはアレスの前に来ると、すっとまじめな顔になる。
「お願いがあるのです」
その口調に、アレスはただならぬものを感じ取って、側仕えの者たちに外すように言いつける。彼らが出て行くのを確認して、アレスはフェリシアを見る。
「どうしたの?」
「剣の使い方を教えて欲しいの」
アレスの目が丸くなった。だが首を振った。
「無理だよ。僕には教えられない。それにすぐに使えるようになるもんじゃない。剣を持ったことがある? かなり重いんだよ」
アレスは自分の剣をフェリシアに差し出した。フェリシアはそれを持ってみて、顔をしかめる。
「本当に。結構重いものなのね」
「これ、エフライムが用意してくれた僕用の剣だよ。それでも重いんだ」
フェリシアは途方に暮れたような顔になる。
「何かあったほうが良いと思ったんだけど…」
「ハウトを守るために?」
フェリシアの頬が赤くなる。
「私が守れるとは思えないけど…でも、見ているだけなのは嫌なの」
アレスは寂しげな笑みを見せた。
「ハウトがうらやましいな」
「え?」
「ちょっと待っていて」
アレスがごそごそと自分の荷物をかき混ぜる。そして出してきたのは、小ぶりな短剣だった。
「これだったらフェリシアでも扱えるでしょう?」
フェリシアに短剣を手渡しすと、柄を握らせる。
「こうやって構えて。的を外さないように、腕を固定してね。腕が震えているときには、身体ごとぶつかるといい。…って、ルツアの受け売りなんだけど」
アレスは照れたように微笑んで見せた。
「これは…」
「ルツアが護身用にくれたものだよ。まだ剣がうまく使えないときにね。フェリシアにあげる」
フェリシアはびっくりした顔で、アレスを見た。
「もらえないわ」
「いいんだ。僕はもう剣が使える。ルツアが教えてくれたからね」
フェリシアはじっと手の中にある短剣を見た。
「ハウトを守って。できればバルドルとエフライムも」
「アレス…」
「そしてもちろん、フェリシア自身もね」
アレスは泣きそうな顔をして微笑んだ。フェリシアが頷く。
「私、ラオのような力が欲しいわ。本当に心の底から欲しいと思うわ。でも…無いのであれば、できることをするしかないもの」
アレスも頷いた。
「そうだね。ぼくたちそれぞれができることをやるしかないもんね。って言っても、僕の場合は待ってばかりだ」
「アレスは王様なんですもの。王が倒れちゃったらおしまいだから、仕方ないわ」
「うん。わかっている」
アレスはフェリシアに微笑んでみせた。




