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ヴィーザル王国物語  作者: 沙羅咲
一角獣の旗
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第18章  夜明け前(1)

 日が暮れて、あたりが何も見えなくなりつつある時間になって、兵たちが帰ってくる。夜の間、戦闘は行われない。また明日の夜明けと共に始まるのだ。アレスのテントに、ハウトがざっと音をさせて入ってきた。厳しい表情をしていたが、アレスの脇に控えていたフェリシアを見たとたんに表情が緩む。続いて音もなく、エフライムもテントに入ってきた。アレスの前で跪いて礼を取る。


「ハウト、戦況は?」


 バルドルが厳しい顔で聞いた。


「こちらの被害もかなり出ている。だが敵兵の大半は蹴散らしたぜ。火薬庫も爆発した音を聞いたしな。多分、明日中には決着がつくだろう」


 エフライムもハウトに続けて報告する。


「橋は落ちましたしね。人員や物資を追加したくても、できないでしょう」


 アレスとバルドルがほっとしたように息をつく。


「あとは、ルツアが帰ってくれば…」


 アレスが呟くように言った。ハウトとエフライムが立ち上がって、脇に移動する。その間にも、次々と各公や武官たちが来て、アレスに戦況報告をしていく。


「こちらへ」


 フェリシアは、邪魔にならないようにと、エフライムとハウトをテントの奥へといざなった。アレスの寝室でもあるその場所では、ラオが床に座り込んでお茶を飲んでいた。


「ラオ、帰ってきていたのか」


「ああ」


 ふと見ると、ラオの手に血がついている。


「どうした?」


 ラオはハウトの視線を追って、自分の手に着いている血に気付いた。荷物の中から布を出して拭う。


「怪我人の手当てをした時についたな」


 森から戻ってきた後、ラオは次々と運び込まれる怪我人の手当てをしていた。先がある者も無い者も同様に、口には出さずに黙々と手当てをしていくことは、ラオの神経をすり減らしていた。しかしラオの心を占めていたのは、そのことではなかった。


 ラオはハウトと視線を合わさずに、そのまま床に目を落とす。さらにハウトが問いかけようとしたところで、ざわざわとテントの周りから音がした。


「ルツア!」


 アレスの悲鳴のような声が聞こえる。何事かとハウトたちも飛び出す。そして、見た光景は、血だらけのルツアだった。アレスの前に全身が赤く染まったルツアが横たえられている。そしてその脇にブラギがなす術も無く、ルツアの頭を支えていた。


「ア…レス…さ…ま」


 ルツアが呟いて、にっこりと笑った。アレスがルツアに駆け寄る。ハウトとフェリシアも側に駆け寄った。


「ブラギ…ありがとう…。最後に…アレス…さ…まに…会えて…嬉しい…」


「もう喋るな、ルツア」


 ハウトがルツアに言ってから、ラオを見た。


「ラオ、手当てを」


 ラオがのろのろと側に寄る。しかしルツアはラオに微笑んだ。


「もう…わたしは…た…す…から…ない…。そう…でしょ…? ラ…オ…」


 ラオが頷いた。その表情は青ざめている。


「やめて! そんなこと言わないで。助かるわ。ね? ラオ助けられるでしょう?」


 フェリシアが泣きながら、ルツアの手を掴む。


「お願い。ルツア。逝かないで。お願いよ」


 ルツアがフェリシアに微笑みかける。そしてハウトを見た。


「お…ね…がい…。とど…め…を…さし…て」


 ハウトが驚きに目を見開く。ついっと視線をそらし、目を瞑る。そして苦しげな表情見せたが、もう一度ルツアの瞳を見つめると言った。


「わかった」


 フェリシアとアレスが、驚いたように目を見開く。


「駄目よ! 絶対に駄目。ルツアを殺さないで!」


 フェリシアが泣き叫んだ。アレスもルツアに覆い被さる。


「ハウト。駄目だよ! そんなことは許さない」


 バルドルがアレスの肩を掴んだ。そして静かに言う。


「陛下。ルツアは助かりません。もって朝まで。そうじゃろう? ラオ」


 ラオが再び黙って頷いた。やはり…とバルドルは思う。似たような者たちを見てきた経験から、ルツアが助からないことは分かる。アレスの目が見開かれた。


「だからって…駄目だよ」


 フェリシアの泣き声が一層、大きくなる。ルツアがのろのろと左手を動かした。フェリシアの髪に触る。フェリシアが顔を起こした。


「泣かな…いで…。わ…たし…ギル…ニデム…のとこ…ろ…に行くの…よ。ま…た…あの…人に…会える…の」


 フェリシアがはっとしたようにルツアを見る。ルツアが微笑んだ。それを見て、ハウトは立ち上がった。フェリシアとアレスが、強ばった表情で痛いほどの強い視線でハウトを見上げてくる。ハウトは感情を押し殺すようにして、剣を抜こうと柄に手をかけた。そのとき、少し離れた場所から声が聞こえた。


「私がやりましょう」


 一同から少し離れたところで、立ち尽くしていたエフライムが静かな口調で言った。はっとしたように、皆の視線がエフライムに集中する。エフライムの表情は変わっていなかった。いつもの通りの穏やかな表情で、ルツアと、そして皆のことを見ている。


「私だったらルツアに苦しみを与えません」


 エフライムがまるで、日常のことを話すような口調で言う。だがその瞳には表情が無かった。まるでガラス玉のような瞳で、皆を見ている。


「心臓を一突きにすれば、痛みも感じない」


 エフライムは歌うように、言葉を続けていく。そしてゆったりとした足取りで、ルツアの側に来て、跪いた。ルツアの手を取って、口づける。


「女神フレイム様」


 ルツアがエフライムに微笑んだ。そして頷く。首を倒すと、アレスの方を見た。


「お…別れ…です…アレ…ス…様…。陛下…の…御世…が…幸せ…に…あふれる…もの…で…あります…ように…」


 苦しい息の下で、アレスにそう言うと、ルツアは覚悟したように目を閉じた。エフライムが立ち上がり、剣を抜く。そしてルツアの胸に切っ先を立てた。


「待って」


 アレスが静かな声で、エフライムの腕に手をかけた。エフライムがびくりとする。そしてそのままの姿勢で、アレスを見た。


「なんです?」


「僕がやる」


「アレス」


「僕がやる。ルツアの死は王である、僕の責任だ。だから、僕がやる」


 アレスが立ち上がって、エフライムの剣の柄に手を添えた。エフライムの手の上から、自分の手を重ねる。エフライムの手が凍るように冷たいのが分かる。平静を装っているけれど、平静でいられるはずがない。それはエフライムも同じだったのだと、アレスはその手の冷たさから感じた。そして少しでもエフライムの負担を減らしたくて、エフライムの瞳を覗き込みながら言う。


「これは僕の意思だ。でもルツアに苦痛を与えないために、エフライム、手伝って」


「御意」


 エフライムが静かに答えた。ルツアがうっすらと目をあける。そしてアレスを見上げた。その唇に笑みがもれる。


「陛下…」


 アレスはまっすぐにルツアを見下ろした。


「ルツア、ありがとう」


 そして目を瞑り、エフライムの剣に自分の全体重をかける。次にアレスが目を開けたとき、ルツアは微笑んだままだった。だが、その瞳は何も映していない。ハウトがしゃがみ込んで、ルツアの目を閉じさせた。それを待っていたように、フェリシアが再び泣き始めるのが、アレスの耳元に届いた。






 ルツアの亡骸が布に包まれてテントの外に運び出されていくのを、一同はぼんやりと見ていた。フェリシアがラオに何か呟く。それはあまりに小さな声で、傍にいたラオにでさえも聞き取れなかった。


「なんだ?」


 フェリシアがまた呟いた。今度はラオの耳に入ってくる。


「ルツアが死ぬことを知っていたでしょう?」


 ラオが目を伏せた。答えがないことが、雄弁な答えとなっている。フェリシアが睨むように目を上げて、今度は皆が聞こえるような声で言う。


「なぜ? どうして彼女を救ってあげられなかったの? どうして…」


 泣きながらこぶしを振り上げて、ラオの胸を叩く。その手が不意に掴まれた。


「やめろ」


 ハウトがフェリシアの両手を後ろから掴んでいる。フェリシアは抗議するような視線でハウトを見た。


「どうして? ラオはわかっていたのよ? ルツアが死ぬことを知っていたのに」


「やめないか! ここは戦場だ。人が死ぬところだ。ルツアだって、それは分かっていたんだ!」


 ハウトがフェリシアを怒鳴りつけた。初めて聞いたハウトの怒鳴り声に、フェリシアの身体がびくりと震える。ずっとルツアを見送ったままテントの出入り口の方を見て、フェリシアには背を向けていたエフライムが振り返った。いつものように穏やかな表情のままだ。そして悲しげに微笑んだ。


「ルツアはね、自分が死ぬとしても知りたくないって言ったと思いますよ」


 フェリシアがエフライムを見つめる。


「ラオは先読みしすぎると。先回りして、自分が誰かの代わりに死地に赴くなんていう真似をして欲しくないと言っていました。ラオのことを心配していたんですよ。だから、ルツアのことを思うのなら、ラオを責めないでください」


「でも…」


 フェリシアの口調が弱くなる。その様子を見てバルドルが言った。


「助けられるもんじゃったら、ラオも助けっておったろう。じゃが、そういう状況ではなかったのではないかな? のぉ、ブラギ殿」


 皆の視線がブラギに集まる。ブラギは悲痛な表情のまま頷いた。


「できることなら、俺の命に代えてでも助けていたさ」


 その言葉にフェリシアが俯いた。


「ごめんなさい…ラオ」


 小さな声で呟く。その肩をハウトが抱いた。


「今日はもう休もう」


 そう言って皆を見回すと、おどけたような表情で続ける。


「フェリシアは貰っていくぜ。もう止める奴はいないからな」


 そう。フェリシアの傍にいたルツアはもういない。皆が無理やり苦笑するような表情を作る中、ハウトはうな垂れたままのフェリシアの肩を抱いて、テントから出て行った。ブラギもアレスに跪いて礼をとると、そのままテントを出て行く。


「今夜は俺がアレス…陛下の傍にいよう」


 ラオがちらりとアレスの傍仕えに視線をやりながら言った。バルドルとエフライムが頷いた。そして二人ともアレスに会釈すると、テントから出て行く。アレスがラオを見た。


「ラオ…。僕が死ぬときは教えてね」


 ラオが顔をしかめた。それに構わず、アレスはたんたんと続ける。


「僕は自分が死ぬときは、覚悟して死にたい。ルツアのように立派に…。だから…」


「仰せのままに」


 ラオが静かに頭を下げた。傍仕えのものが、寝所の用意ができたことを伝えにくる。アレスはラオを従えて、テントの奥へと消えていった。







 夢の中でラオは、何かに囚われていた。手足が動かない。夢であることを認識できる自分がいる。なんだ、この感覚は? 自問自答しながら目覚めようと努力するが、なんとか背中がびくびくと動くだけで、やはり手足は重い。


 まるで金縛りにあったようだと思った瞬間に、頭をよぎる可能性に慄いた。誰かが攻撃を仕掛けている。誰かと言っても、こんなことをするのは一人しかいない…アレギウス。


 急いで夢の中で意識を集中していく。次の瞬間、真っ暗だった風景が、一転して白になる。まぶしい光に目がくらむ。その中で黒い人影が立っていた。


「アレギウス!」


 思わず叫ぶ。アレギウスがこちらを見て見やりと嗤う。


「呪縛を解いたか…」


「もうやめろ。お前とて分かっている筈だ。これ以上、やりあうことに意味はない」


 すでに戦いは決している。誰にも言っていないが、ラオには分かっている。そして多分アレギウスにも。


「俺は運命を変えようとしているのだ」


 アレギウスが三日月のような細い目を、さらに細める。


「フォルセティがあの世で歯噛みするように…」


 稲光がラオめがけて降って来る。ラオはそれを目に見えない盾で防いだ。手を振り上げると、そのままアレギウスに何かを投げるような動きをする。


 アレギウスが突き飛ばされて転ぶ。低いところからの姿勢で、アレギウスも何かを投げるような動作をした。その途端にラオの背後に炎の柱が上がった。ラオの方に吹き付けてくる。夢とは思えないような熱を感じながら、ラオが片手を上げる。


 炎の柱の上に雨雲が広がり、雨が降り始める。炎の柱は消えうせた。


 ラオが何かを唱えると、アレギウスの足元から茨が這い出てくる。つたが長く伸びて、身体が茨で縛り付けられる。


「俺の夢の中だ。おまえに勝ち目はない」


「そうかな?」


 アレギウスがにやりと嗤う。そして何かを唱えると、茨がぱらぱらと落ちてアレギウスの身体は自由を取り戻した。さらに片手を肩の上で泳がせるような仕草をする。その場所に、上下が逆さまになった首が現れる。


「おまえにばかり術を教えていたな。フォルセティは」


「それは違う」


「俺には何も教えてくれなかった。だからガザラス師に教えてもらったのだ。人を呪う方法を。そして師の力はすべて俺がもらった」


 狂気がアレギウスの瞳にあった。


「お前にも見えるだろう? 俺の肩に乗っているものが。ガザラス師さ。殺して、首を刎ねて、首都イリジアの大通りに埋めた。ヴィーザル城に続く大通りだ」


 ラオは目を見張った。


「ガザラス師の頭の上を、大勢の人が通って踏みつけていく。そして俺の力になっていくんだ」


 その方法はラオとて実際にやったことはないが知っていた。本来であれば動物で行う。意思を持った人間を使って行ったのであれば、その力は大きくなるはずだ。だが…それにしては、アレギウスが操っている呪いの力が小さい。本当にその方法を行ったのであるとすれば、もっと大きな力を感じて良い筈だった。ラオは考え込んだ。


「おまえ…その首をどこに埋めた」


「大通りだと言っただろう」


「大通りのどこだ」


「それは教えられない」


 ラオはアレギウスの目をじっとみた。大通り。だがこの程度の力しか出ないということは…。不意に思い当たる節があって、ラオの顔から笑みが零れた。


「何がおかしい」


 ラオが不意に何かを呟き始めた。アレギウスは焦ったように回りを見回す。知らない言葉、知らない呪文。


 ラオがじっとアレギウスの後ろの空間を見つめ呟きを続けたまま、その視線を強くする。


 いきなりアレギウスの肩が軽くなった。あわてて自分の感覚を研ぎ澄ますが、肩に乗っていたはずのガザラスの意識がない。


「何をした!」


「あの世へ送っただけだ」


「そんな馬鹿な…」


 ラオがアレギウスに近づいた。


「おまえは間違えている。術は教えられるものではない。自分の中から見つけるものだ。そしてお前が首を埋めた場所は、父が…フォルセティが作った術の中だ」


 アレギウスが目を見張る。


「フォルセティめ…。息子には教えるのだな」


「違う。俺が都を歩いたときに感じたことだ。わかるのだ。自分の中でな。マギの力で教えられるものはない。知識は教えることができても、力がなければ使いこなせない。そして新しい術は自分の身の内から沸いてくる」


 ラオがアレギウスの前に来る。


「おまえは自分の力を見なかった。知識だけに頼り、人に教えて貰うことに頼った。お前の敗北は誰のせいでもない。お前のせいだ」


 くっとアレギウスが顔を歪めた。ラオがアレギウスの額に手をかざす。


「よくぞ俺の夢の中に入った。だがここまでだ。お前は俺には及ばない」


 アレギウスの身体が消えて行く。


「俺は現実にもお前の身体の傍にいるんだ」


 アレギウスが嗤いながら言った。


「お前をいつでも突き刺せ…」


 その瞬間にアレギウスの幻が消え失せた。ラオがはっとして身体を起こす。目を開けるとテントの中だった。外のかがり火がテントの布から透けて、うっすらとした明かりをもたらしている。そこに剣を構えたアレスと、足元に倒れているアレギウスがいた。


 ラオはゆっくりとアレスを見た。アレスもゆっくりとラオを見る。その手が震えている。


「ラオ…大丈夫?」


 アレスが震えた声で言った。剣からは夜目にもどす黒いとわかる、どろりとした水滴が滴っていた。ラオはアレギウスの首筋に手をやる。本来感じられるべき脈はもうない。


 ゆっくりと起き上がってアレスの傍に立つと、アレスの手を剣の柄ごと掴んだ。こわばった指を一本ずつ緩ませて、剣を取り上げる。そして微かな笑みを見せて言った。


「大丈夫だ」


 その声にへなへなとアレスが座り込みそうになった。ラオが慌てて、空いている方の手で支える。そしてゆっくりと座らせて、自分もその脇にしゃがみ込む。アレスは一瞬、放心して宙を見ていたが、はっと気付くとラオの顔を覗き込んだ。


「ラオの側に誰かいて。ラオは眠っていて。それで。それで…。見てたんだけど、なんかぼーっとして動かなかったから。でも、アレギウスだってわかって…」


 アレスが早口で言う。ラオはそれを黙って聞いていた。


「ぼーっと立っていたみたいだから、僕でも倒せるって思って。何かをする前に」


「ぼーっと立っていたか?」


 アレスが頷いた。


「俺は寝ていた?」


 アレスは再び頷いた。その瞬間に、ラオの中で何かが壊れた。術を使った力比べ。傍から見ていれば、単に寝ている男と、ぼーっと立っている男の二人がいるに過ぎない。なんと愚かなことか。こんな子供でも倒せる。


「くっくっくっ」


 ラオが笑い始めた。アレスが怪訝な顔をして見ている。ラオは笑顔のままアレスに視線を返した。


「助かった。アレス。感謝する」


 まだ笑っている。こんなに笑うラオを、アレスは見たことが無かった。


「ラオ?」


「くっくっくっ」


 ラオはおかしくて涙が出てきた。おかしいのか、悲しいのか、良く分からない。だが少なくとも自分は笑っていた。自分が生きてきた世界は、なんと狭かったことか。


 アレスはラオが笑っている原因は分からなかったが、一つだけ畏れいていたことがあったので、それを唇に乗せてみる。


「ラオ、僕…アレギウスを殺しちゃったみたいだけど、大丈夫かな?」


 ラオが笑ったままアレスを見た。


「大丈夫だ。こいつにそんな力は無かった」


 まだ笑っている。涙を零しながらラオは笑っている。


「ラオ?」


 そのときザッと音がして、バルドルが入ってきた。


「二晩連続とは…」


 ラオが笑い止んだ。そしてバルドルを見て微笑む。


「護衛についたつもりが、陛下に助けられた」


 バルドルが怪訝な顔をする。それに構わずラオは続けた。


「それよりも、トゥールたちが逃げたぞ」


 自分の感じていることを口にすると、バルドルが驚いてラオを見つめた。アレスもラオを見ている。


「フェリシアを呼んだ方が良い」


 ラオの言葉に、バルドルが側にいた兵に合図をする。命を受けた兵が、足早にテントから出て行った。アレギウスの死体が運び出されるのとすれ違いに、エフライムとハウトと共にフェリシアがテントに入ってくる。


「何があったの?」


 フェリシアの問いにラオは手短にアレギウスの襲撃と、トゥールたちが逃げた気がするということを伝えると、ハウトがフェリシアに頷いて見せた。フェリシアがそのまま手を組んで祈りの姿勢をとる。アレスにはうっすらとした青い光が、フェリシアの輪郭に現われるのが見えた。うっとりと見とれていると、ふいにそれが消える。


「逃げているわ。でもまだ川を渡る手前よ」


「城に戻るつもりか」


「多分ね」


 ハウトの問いにフェリシアが頷いた。ラオがテントの出口の方へ向かう。ハウトが気づいてラオの肩に手をやって止めた。


「どこへ行く」


「雨を降らせに」


 にやりと嗤うとラオはテントの外に出て行った。


「雨?」


 ハウトが怪訝な顔をする。バルドルがあごひげを撫でながら、話に加わった。


「どっちにせよ、今から追っても間に合わんじゃろう。兵はそのまま眠らせておけ。休ませておいた方が良いじゃろうからな」


「おいおい、じいさん」


「無駄じゃよ。疲れた兵など使い物にならん。明日、城を攻めるにせよ、平地でやるにせよ。英気を養うことが必要じゃ。特に歩兵はな。そういう意味では、敵の行動は愚かと言えるじゃろうな」


 ぽつりぽつりと、テントに雨があたる音がし始めた。


「わぁ! 本当に降ってきたよ」


 アレスが歓声をあげると、ハウトも呆れたような顔をした。


「こういうときほど、あいつを恐ろしく感じることはないぜ? 自分は万能じゃないと言いつつ、やってくれる」


 アレスは嬉しそうな顔をしてテントの天井を見つめていたが、くるりとテントの出口の方へ身体の向きを変える。


「僕、外を見てくるね」


「一緒に行きますよ」


 アレスが一人で外に飛び出そうとするのを、エフライムが付き添ってテントから出て行く。出て行ったと思った瞬間に、アレスは駆け戻ってきた。


「ハウト! すごいよ。川のところだけ雨がいっぱい」


「雨がいっぱい?」


 その言葉を疑問に思いつつ、ハウトもつられて出てみると、夜目にも敵陣の方が土砂降りなのがわかる。フェリシアもハウトの腕にしがみつきながら、敵陣を見て呟く。


「すごい…」


「なんとも器用なことができるもんじゃな」


 遅れて出てきたバルドルも、驚いた顔をしている。ハウトがラオの姿を探して、見渡すと、肝心のラオはテントの前の少し離れた場所に立っていた。顔を上にあげ、両腕を空に伸ばしている。まるで雨を全身で受けているようだ。


 しばらくするとラオは手を下ろして、振り返った。アレスたちが呆れたような、驚いた表情で見ているのに気づくと、照れくさそうに微笑んで見せる。


「これで奴らは川を渡るのに苦労するだろう」


「ちょうど疲弊させるには良いですね」


 エフライムが頷いて言う。バルドルがラオに近づいて、肩をぽんと叩いた。


「大したもんじゃ。これはおまえさんが休んでいても降り続くのかね」


 ラオが頷いた。


「夜明けぐらいまでは」


 バルドルが暖かい瞳で笑う。


「じゃったら、しばらく休もうぞ。夜明けまではまだ間があるからの」


 そういうと皆を促して、テントに戻っていく。ラオもアレスの側に新たに寝場所を用意してもらうと、眠りについた。







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