第17章 決戦(3)
「もうちょっとで落ちそうなんだけど…」
火薬庫の爆破の後で、二台目の投石機を壊したルツアは、さらに先に見えるやぐらに目をやった。あのやぐらの先に、トゥールやレグラスが陣を構えている。中央からはハウトのいるウクラテナの軍が攻めているはずだ。
兜が重い。自分の首の疲れはかなりなところまで来ていた。腕も重い。しかし、それは自分だけではないはず。味方も、そして敵も同様なはずだ。たとえルツアよりも体力がある男だとしても。現に先ほどからブラギの手が、無意識に自分の首筋を揉み解す動きをしている。攻めるなら今がチャンスだ。
「ブラギ、突撃しましょう。今だったらやぐらを越えられるわ」
ブラギも同じことを考えていたのだろう。頷くと、剣を持つ腕を振り上げた。
「突撃だ!」
周りにいた歩兵が剣を構えて走る。それと共に、ルツアとブラギも馬をやぐらに向けて、走らせた。しかし兵たちの士気は、かなり低い。疲れが影響している。
「あと少しよ。敵も弱っているわ!」
ルツアは馬上から叫んだ。なんとか士気を上げなくては。火薬庫の爆発で、敵が狼狽している今のうちがチャンスなのだから。唇をかみ締めて、策を考えるルツアの目の前に王の旗が見えた。獅子と一角獣をあしらったアレス王の旗。ルツアの中で、漠然としたものが形になっていく。ルツアはブラギの側を離れ、旗に向けて馬を走らせた。
「借りるわよ!」
旗手に声をかけると、ルツアは牛の背にくくられていた旗を抜き取った。そして兜を脱ぎ捨てる。重さの無くなった爽快感にルツアは笑みをもらした。ブロンズ色の髪を結わいていた紐を取り去る。風に長い髪が舞った。
「さあ! 皆、ついて来なさい!」
そう声をかけながら、やぐらの方へ向かって馬を走らせる。太陽の光を反射してキラキラと光る髪は、透けて赤みがかった黄金のように見え、遠目でも戦場にいるものを惹きつけた。
「フレイム様…」
見た者が口々に呟く。その姿はまさに戦場で戦う女神フレイムそのものだった。それを見たブラギも一瞬ドキリとした。まさに女神フレイムが自分たちの陣にいた。そして兵たちの先頭に立って、敵を攻めている。しかし次の瞬間に、その女神フレイムはルツアであることに気づき、ブラギは必死で馬を走らせた。戦場で目立つ…それは敵の的になることを意味している。
「ルツア! 無茶はやめろ!」
しかしその声は、兵士たちの歓声でかき消された。
「フレイム様がいるぞ!」
「女神フレイム様は、俺達の味方だ!」
一気に士気が回復する。ルツアがかざす旗に従って、兵たちは走った。やぐらの周りを守っている敵兵たちを倒すべく、押し寄せていく。その波にブラギは飲み込まれた。
「フレイム様と共に!」
口々に唱えるように、兵たちが叫ぶ。その声に呼応するように、他の兵たちも叫ぶ。その中心には、女神フレイム…ルツアがいる。
その時、やぐらから矢が飛んできた。一本。ルツアが馬ごと避けるのが見える。そして二本目。ルツアの左腕に刺さる。ルツアが苦痛に顔をゆがませるのが見えた。それでも手綱は放さない。王旗も掲げたままだ。
ブラギははっとしてやぐらを見上げた。やぐらの淵に立っている大男のシルエットが見える。周りの者が、大男を邪魔をするような動きをしている。そして大男の手に剣が現われ、邪魔をしていた周りの者を切りつける。側にいた者が倒れていくのが見えた。さらに弓を構えてルツアを狙っている。
「ルツア、もう一本来るぞ!」
ブラギは叫んだ。叫んだが、ルツアに届いたかどうかは分からない。ルツアは矢には頓着せずに、旗を振り上げて叫んでいた。
「攻め込むのよ!」
ひゅぅっと音がブラギの横を掠めたような気がした。実際には聞こえるはずがない。そしてその矢は、ルツアの太ももに刺さるのが見えた。ルツアの身体が揺れる。それでも、まだ落馬はしない。ルツアが顔をしかめながら、太ももの矢を抜くのが見える。ルツアが矢が来た方向を見、そして表情が強ばった。何かを見つけたような瞳。そのまま馬の速度を増す。
「ルツア!」
ブラギは再度叫んだ。ルツアに追いつこうと馬を走らせる。ようやくやぐらの下までブラギが到着したときには、ルツアがやぐらの途中を登っていくのが見えた。
ルツアが兜を脱いだ瞬間を、ラダトスはやぐらの上から見ていた。長いブロンズの髪に細身の姿。女に見える。戦場に女がいるわけがないと思ったが、次の瞬間に下から女神フレイムの名前を唱える声がし始めた。
「馬鹿な…」
だが実際に、目に見えて敵兵に活気が戻ってきているのがわかる。先ほどの火薬庫の爆発で、こちら側の士気も衰えている。いかに数の上で勝っているとはいえ、所詮は寄せ集めだ。蹴散らされたらひとたまりもない。しかも反対側からは別の軍が押し寄せているのが、ラダトスのいるやぐらからは良く見えた。
一緒にやぐらに上がっていた兵たちも、敵が口々に女神フレイムをあがめ始めたことに気づいたようだ。戦場にいる女に対して、両手を組んで拝み始める者さえいる。ラダトスは舌打ちをした。あれは単なる女だ。女神であるわけがない。
足元においてあった弓を取ると、矢を番えた。構えようとしたとたんに、側にいた者が止める。
「おやめください。あれは女神フレイム様です」
女神フレイム様です…とは聞いて呆れる。敵を野放しにせよと言うのか。ラダトスは、胸のうちで返答をして、表面上は黙殺した。そして黙って弓を構えて、矢を放つ。矢が真っ直ぐに下へ向かって飛んでいった。気づいた女が、馬ごと避ける。ちっと舌打ちをすると、もう一本矢を番えようと、矢筒に手を伸ばす。今度こそ仕留めてやる。矢を番えて、女の胸に的を定めると、指を離した。矢が真っ直ぐに飛んでいく。狙いよりも若干逸れてしまった。腕に突き刺さるのが見える。もう一本。
ラダトスの手が矢筒に伸びたところで、その手を掴まれた。先ほど止めた者が、必死の形相でラダトスの手にすがっている。
「駄目です。あれは女神フレイム様です。あの方に傷をつけたら、我々に勝ち目はありません!」
「馬鹿なことを。あれはただの女だ」
「戦場に女が来るなど、あるわけがない! あれは女神です。フレイム様です」
「では、フレイムは我々の敵だ」
「なんと言うことを…」
畏れを抱いた相手の瞳に、ラダトスは苛ついた。ここは戦場であって、祈りを捧げる場所ではない。
「手を放せ」
「放しません」
しばしにらみ合ったあとで、ラダトスが弓を置いた。ほっとしたようにラダトスを止めていた者の肩の力が抜ける。その瞬間に、ラダトスは剣で切りつけていた。
「なっ…」
「邪魔をするからだ」
崩れるように倒れながら、ラダトスを驚いたように見ている。周りにいた者も、味方を切り殺したラダトスを見ている。ラダトスが言い捨てる。
「あれはただの女だ。フレイムなどではない!」
「フレイム様を呼び捨てるとは…なんと不信心な…」
そうつぶやく周りのものをラダトスは無視した。弓を取ると矢を射る。矢が女の太ももに刺さった。あっという声が、やぐらの兵の中からあがる。思わず言ってしまってから、ラダトスの視線に気づいて皆黙り込んだ。もう一本、矢を放とうとしたところで、ラダトスは新たな手に止められた。後ろから羽交い絞めにされ、そして腕も捕らえられる。やぐらにいた兵たちが、ラダトスを取り押さえた。
「あれは女神フレイム様です。もう止めてください」
ラダトスはちっと舌を打つと、矢を置いて剣を引き抜き様に、味方であった者達を切りつけた。あっという間に血を流して、皆ラダトスの足元に転がっていく。
「味方を殺すとは…」
そう言って、床に転がりながらなおもラダトスの足を掴もうとした者に、ラダトスは容赦なく剣を突き刺した。もうやぐらの上で動いているものは、ラダトス以外にはいない。再び、弓を手にしたときには、もう戦場にいた女の姿は無かった。やぐらの足元まで敵兵が押し寄せてきている。誰かがやぐらを登ってくる音がした。覗き込もうとした鼻先に剣が突き出される。ラダトスは慌てて身を逸らして、切っ先を避けた。
とんと軽い音がして、ブロンドの長い髪をなびかせた女が立っている。背中には、獅子と一角獣をあしらった旗をくくりつけていた。どこかで見覚えがある顔だった。腕と腿から血が流れているが、まるで気にしていないようだ。
「見つけたわ」
女が呟いた。まるで至高の宝を見つけたような表情で、ラダトスに向かって微笑む。そして背に括りつけてあった旗をとり、やぐらの壁に立てかけると、ラダトスに対して剣を向けた。ラダトスの脳裏で、女神フレイムという名前が響く。馬鹿な…とその思いを打ち消して、ラダトスも剣を抜いて構えた。
やぐらの上にいる大男を見た瞬間に、ルツアにはそれが誰であるか、すぐに分かった。夫ギルニデムを殺した濁声の男。前に見たときには、自分には生きる必要があった。だが今は…敵の一人を殺すだけ。しかも戦場で。なんという素敵なシチュエーションだろう。
やぐらに向かい、念のために剣を抜く。旗はちょっと考えてから首筋に柄を差し入れて背に固定した。一心不乱にはしごを上る。不思議なことに矢の攻撃は無かった。ほとんど登りきったところで、あの男が顔を出す。
思わずルツアは片手で切りつけた。しかし、その切っ先は男の顔があったところを掠めただけだった。登りきって、ルツアは驚いた。矢が来ないはずだ。辺りは血の海だった。兵が倒れているところに、あの男が立っている。
「見つけたわ」
思わず恍惚とした表情になる。ギルニデムを殺したであろう、この男。旗をやぐらの壁に立てかけると、ルツアは剣を構えた。相手も剣を構えてくる。
「一つ教えてちょうだい」
「なんだ」
「ギルニデムはどこ?」
「ギルニデム? …ああ、あの近衛隊長か」
ラダトスがにやりと嗤った。
「そりゃ、もう土の中だな。俺が殺してやったからな」
ルツアは青ざめた。予想していた答えだったとは言え、やはりはっきりと知らされるのは辛かった。しかし、考え方を変える。それだったら、この男を殺すことは仇討ちになるわけね…と。
軽いステップで、ルツアはラダトスに切りかかった。ラダトスはそれを余裕で交わす。力の差は歴然としていた。ルツアがぎりりと唇を噛む。自分の力はまだ足りなかった。それでもやるしかない。勝てるか、勝てないか…ではなく、勝つしかない。
ルツアの剣が、ラダトスの首筋を狙う。それをかわしながら、ラダトスはルツアに切りつけた。髪が切られて空に舞う。ルツアは構わずに、ラダトスに切りつけ続ける。
ざくりと音がして、わき腹の鎖帷子が切られる。間一髪のところで、致命傷は避けているが、それでもラダトスには切っ先すらも触れていない。そしてルツアは太腿に受けた傷のせいで動きが鈍くなっていた。
「口ほどにもない」
ラダトスがにやりと笑って、剣を振り下ろそうとした瞬間だった。ラダトスが前のめりに倒れかけた。その隙を狙って、ルツアが剣を刺す。ラダトスの腹に刺さる。ラダトスが驚いたような顔をして足元を見た。
「フレイム様…」
息絶えたと思っていたものが、ラダトスの足を掴んでいた。ラダトスが足を振り払って、その者を踏みつけた。そして手で腹を押さえる。どくどくと血が流れて、ラダトスの手を汚した。
「おのれ…」
怒りに燃えた目で、ルツアを見据える。そして切り込んでくる。ルツアは間一髪で、その手負いの獣のようなラダトスからの攻撃を避けた。右へ左へ、ぶんと刀が唸ってルツアを追い詰める。
剣で受けようにも、あれだけ勢いがついていては返って悪いことになる。ルツアはなす術ものなく、剣を避け続けた。壁際に押しやられていく。右へ…と避けたとたん、それは囮だったらしい。
ルツアは右胸に衝撃を受けた。肩と胸の間に剣が刺さっている。カタン…と遠いところで音がして、右手から剣が落ちた。痛みでくらむ意識を無理やりに起こして、慌ててしゃがみこんで左手で剣を掴む。すでに左腕も矢でやられていたが、まだ右腕よりは動く。ぎゅっとあらん限りの力を込めて、剣を握り締めた。
皆が女神フレイムと呼んだ女との戦いをはじめる前、ギルニデムの名前を聞いた瞬間に、ラダトスは目の前にいる者が誰かを思い出した。近衛隊長ギルニデムの妻であり、アレスの乳母、ルツア。だから会ったことがあったのだ。そして女神フレイムでないことを確信したとたんに、ほっとした自分をラダトスは、心の中で笑い飛ばした。
こうなった以上、ルツアはもう自分の獲物と言っても良かった。たしかに女にしては良い腕を持っているが、それまでだ。所詮ラダトスの敵ではない。余裕でルツアの剣を避けていくと、ルツアを弄ぶように切りつける。髪を切り、わき腹を切る。
「口ほどにもない」
ラダトスは笑ってみせた。夫婦仲良くあの世に送ってやるのだから喜べと、そろそろ決着をつけようとした瞬間だった。足を取られた。誰かが自分の足を掴んだのだ。その瞬間に腹に熱いものを感じた。ルツアの剣が刺さっている。そして足元を見ると、先ほど手にかけたものが、自分の足を掴んでいた。フレイムの名前を唱えるのを聞いて、頭に血が上る。
「おのれ…」
血はだくだくと腹から流れ出した。こんなところで、やられるとは…。怒りをルツアに向けると、ラダトスは切りつけた。相手も痛手を負っているのに、何とか剣をかわしている。その動きが憎らしく見えて、ラダトスはムキになって剣を振り回した。
やがてラダトスが行った囮の動きに、ルツアが引っかかった。にやりと嗤って、剣を刺す。胸を狙ったのだが、それてかなり肩に近い位置に刺さった。ルツアが剣を落とし、慌ててしゃがみ込んで左手で掴む。
本来であれば、その間にも切りつけるところだったが、その瞬間に動けなくなった。ルツアの後ろに赤毛の男が立っていたからだ。
その男は、ルツアの後ろ、本来であれば足場の無いところに立っていた。それよりもなによりも、ラダトスに衝撃を与えたのは、それは自分が殺したはずの近衛隊長ギルニデムであったからだ。自分を冷たい視線で睨みつけて、ギルニデムが立っている。次の瞬間、ラダトスは胸に痛みを感じて、我に返った。
反射的に剣を拾ってしまった次の瞬間、ラダトスの動きが止まった。本来だったら拾っている隙に、切りつけられても文句を言えないところだ。
ところがそのラダトスが、ルツアを睨みつけたまま動かない。いやルツアを見ているのではなかった。ルツアの頭の上を睨みつけている。そして動けないでいる。
ルツアはこのときとばかりに、ラダトスに向かって身体を傾けた。剣をラダトスの胸に突き刺す。ラダトスが我に返ったように、ルツアに切りつけた。わき腹に痛みを感じる。だがそれを無視して、ラダトスの胸に突き刺した剣に体重をかけていく。
じわじわとラダトスの身体の中に剣がめり込んでいく。ふっと力が抜けたようになり、大きな音と共に、ラダトスが後ろに倒れこんだ。
必死の形相のまま事切れているラダトスが、ルツアの瞳に映った。その瞬間に、ルツアは気が遠くなるのを感じた。膝に力が入らなくなり、がくんと座り込む。
貧血のようなめまいを感じて、無意識に左手でわき腹を触ると、かなりの血が流れている。そのまま意識が薄くなっていく。完全に暗闇に捕らえられる寸前に、ルツアは自分を呼ぶ声を聞いた。ギルニデムの声だと思った瞬間に、ルツアの唇に笑みが浮かんだ。




