表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴィーザル王国物語  作者: 沙羅咲
一角獣の旗
35/170

第16章  開戦直前

 ヴィーザル王国のほぼ中心に位置するクラレタの平原に、巨大な投石機が並べられていく。そしてやぐらが組まれていく。あるときは盾となり、あるときは相手の位置を偵察する場となるはずだ。それらの造形物のはるか後方に、テントが張られる。駐屯地だった。これから数日はここが皆の眠る場所となるはずだ。その守備地点ごとにまとまって、点々と存在しているテント村の一角に、アレスのテントも作られていた。


 すでに作戦は固まっており、あとは実行に移すのみ。そう考えている諸侯とは裏腹に、バルドルとハウトはまたしても地図の前で、各部隊の展開を睨んでいる。アレスはラオと一緒にその様子を見ていた。エフライムはウクラテナの軍と打ち合わせに行き、ルツアはフラグドのブラギと打ち合わせに行っている。


「フェリシアはどこに行ったの?」


 アレスの問いにハウトが顔をしかめて答える。


「ルツアにくっついて行っちまった」


「さびしいんだね、ハウト」


 大人びた口調で言うアレスに、ハウトが目を見開く。ラオがくっくっと笑った。その笑顔がふっと曇る。


「マギだ…」


 ラオが外を睨んだ。次の瞬間にテントの中に武官の一人が入ってきて、片膝をついて礼を取る。


「失礼いたします。ケレスからの使者が参っております」


「通せ」


 バルドルが短く言って、アレスの斜め前に立った。ハウトもバルドルの反対側に陣取る。ラオはアレスの後ろに来た。


「失礼しますよ」


 老婆の声がしてテントの布が持ち上がると、よろよろと杖を突きながら老婆が入ってくる。白髪交じりの髪に、皺だらけの顔。しかし薄茶色の眼だけはギラギラと光っている。


「おまえは…」


 バルドルが驚いたように目を見張った。それに気づいて老婆も笑いかける。


「久しぶりですのぉ。バルドル殿。まあ、じじいになりましたな」


「まだ生きていたのか…」


 呆れたようなバルドルに、老婆がほっほっほっと嗤う。そしてアレスの方を見て、その肩の斜め上の方に眼をやると、ちらりと頭を下げた。


「久しぶりですのぉ。ネレウス王」


 ハウトがギョッとして自分の横の空間を見る。その様子に構いもせずにアレスに視線を移すと、同じように頭を下げた。


「初めましてアレス様。わしはケレスのマギ、ラーキエルと言いましてな、ケレスのフレミア公の名代として参りましてな」


 老婆、ラーキエルは欠けた黄色い歯を見せながら、にやりと嗤う。そしてラオの後ろの空間を見ながら感嘆の声をあげた。


「おお、フォルセティ殿もいらっしゃる」


 今度はラオがぎょっとして、自分の後ろの空間を見上げる。その様子を見て、ラーキエルがまた嗤った。


「無理じゃ。自分の後ろは見えまい。水鏡にでも映すのじゃな」


 すまして言うと、ラーキエルはアレスの方を見た。


「フレミア公からの伝言でしてな。ケレスはアレス様につきますでな。よろしうとのことでした。まあ、アレス様につかないのであれば、わしがケレスのマギを辞めると脅しましてな。フレミア公もわしが天候の予測をしているからこそ、ケレスが安泰なのは知っておるで、黙って頷きましたでな」


 そういうと、ほっほっほっとさも愉快そうに笑った。バルドルは渋い顔でラーキエルを見ている。その横で、ラーキエルはふっと右側の何もいない空間を見ると、一人で頷いた。


「そうか、そうか。わかった。おまえが行くところに送ってやろう」


 そう独り言を言うと、ぱちんと指を鳴らす。そして不思議そうに見ているアレスに気づくと、またにやりと歯を見せて嗤う。


「今、一人あの世に送ってやりましたでな」


 アレスが目を丸くしたところで、ラーキエルは再び身体を傾げるようにしてお辞儀をする。


「久しぶりにネレウス王やフォルセティ殿に会えて良かったですでな。おおそうじゃ、バルドル殿にものぉ」


 付け加えのようにバルドルの名前を言うと、またほっほっほっと嗤う。


「しかし、トゥールも馬鹿なことをしましたでな。せっかくフォルセティ殿が切った糸を自ら紡ぎおってな。のぉ、バルドル殿」


 バルドルはじわりと背中に汗が這うのを感じる。


「そうそう。これを言うために、わざわざこの婆が、こんなところまで来ましたでな」


「余計なことは言わんで良い。おまえの口はいつでも災いの元だ」


 バルドルが冷たく言った。ラーキエルの目がすっと細くなる。


「いやいや。そうはいかんですでな。バルドル殿」


 視線はバルドルに固定されている。


「騎士としての矜持は捨てなされよ、バルドル殿。機会は一回のみ。逃さぬように」


 バルドルの顔が強ばった。ラーキエルがにやりと嗤う。


「フォルセティ殿の伝言でしてな」


 バルドルとラオが同時に息を呑む。その様子を見て、ラーキエルは言った。


「ほお。ラオも知っておるか。いや、知ったのじゃな。さすがフォルセティ・メイクレウスの血を継ぐものじゃ。のぉ、フォルセティ殿」


 ラオの後ろの空間に向かって、声をかける。


「なんの話だ?」


 ハウトが口をはさんだ。バルドルとラオの顔が緊張する。ラーキエルは初めて優しく微笑んでハウトを見た。


「この戦場でおまえは本当の親に会うじゃろう。フォーマルハウト」


 ハウトがぎくりとする。ラオとバルドルも凍りつく。


「おまえの本当の名前はフォーマルハウト。母親が祈りと共につけた名前じゃ」


 ハウトは食い入るようにラーキエルを見ている。


「そしておまえの親の名前は」


「やめてくれ」


 ハウトがそう言って首を振った。


「俺の親の名はフォルセティとマリアだ。それ以外には居ない。今さら聞きたくない」


 ラーキエルがにやりと嗤う。


「なるほど。親冥利に尽きるな、フォルセティ殿」


 そしてハウトに向き直る。


「まあ、それも一つの選択じゃろうてな。そして、ラオ」


 ラオが無言でラーキエルを見た。


「おまえさんは、もう少し愛想良くしなされ」


 ラオの目が見開く。


「それも伝言か?」


「いんや。わしの人生訓じゃ」


 そう言って、ラーキエルがほっほっほっと笑った。ラオが顔をしかめる。それを無視して、ラーキエルはアレスを見る。


「アレス・ラツィエル・ヴィーザル」


 そこでハウトとアレスを見比べるようにすると、再びアレスを見てにやりと嗤う。


「ご自分を信じなされよ。正真正銘の王となったときに、またお会いしましょうぞ。今日のところはこれで失礼しますでな」


「お、おい…」


 ハウトが呼び止めようとするのも聞かずに、ラーキエルはテントから出て行った。ハウトは追いかけようとして、立ち止まる。振り返ってバルドルを見た。


「じいさん…あんた」


 何か知っているのか? と言いかけてやめる。ぐっと右手で拳を作って握り締める。バルドルの灰色の瞳を見た。多分何を聞いても、何も言わないだろう。


「何でもない。俺の親は他にはいない」


 そう言うと、ケレスが味方についたことを知らせてくると言い捨てて、ハウトはテントから出ていった。アレスがバルドルとラオを見る。


「バルドル?」


 バルドルはアレスの視線を受けて、しばらく見つめていたが、最後にため息をついて言った。


「全てが終わって話せるときが来たら、話しましょうぞ。今は聞かないでいただきたい」


 アレスはその様子に黙って頷くしかなかった。







 その頃、ルツアとフェリシアはブラギと馬の横で立ち話をしていた。脇を忙しげに何人もの武官が通っていく。


「で、おまえさんは俺達と一緒にくるのか? ルツア」


「そのつもりだけど? 不満?」


「とんでもない」


 ブラギは慌てて打ち消すとにやりと嗤う。


「勝利の女神がついてくるたぁ、縁起がいいぜ。おまえさん、自分がなんて呼ばれているか知っているか? フレイムだぜ?」


「そのようね」


 ルツアはまんざらではない表情をして微笑む。


「さすがは俺が惚れただけのことはある」


「は?」


「いや、だからさ、俺はおまえさんに惚れたって言ってるんだ」


 ルツアは呆れたような顔をしてから吹き出した。ブラギが憮然として表情になる。


「おいおい、からかっていると思ってるんだったら、間違うなよ。俺は本気だぜ」


 脇で聞いているフェリシアの方が思いもしなかった事の成り行きに、すっかり驚いて頬を染めている。ルツアは肩をすくめた。


「人前で口説かれたのは初めてだわ。でも、私は自分より弱い男に興味はないの。行きましょう、フェリシア」


「いや、ちょっと待ってくれよ」


 ルツアの右手をブラギが掴んだときに、エフライムが馬に乗って現われた。まあ、タイミングが良いこと…とルツアは心の中で呟く。


「ルツア」


 すっと馬を止めて降りると、ルツアを見つつ、ブラギに視線を移す。ブラギが慌ててルツアの右手を離した。それには気づかないふりをして、エフライムはルツアを見る。


「ケレスが味方についたそうです。先ほど陛下のところに使者が来たとのことでした」


 ルツアの目が見開く。ブラギが低く口笛を吹いた。


「やったな。それは」


「まあ、戦力自体はあまり大きくないですけれど、精神的には楽になりますよね」


 エフライムも応じる。そしてルツアの方を向いた。


「戻りますか? 一緒に」


「ええ。もう話は終わったわ」


 ルツアは取り付く島もなく馬に乗り上げる。フェリシアはちょっと困ったような顔をして、ルツアとブラギを見た。しかしルツアが馬に乗ってしまっているので、自分も黙って馬に乗った。


「じゃあ、明日ね。ブラギ」


 艶然た笑みを残してルツアが馬を軽く駆けさせた。エフライムとフェリシアは軽くブラギに会釈すると、そのままルツアの後を追う。ブラギはため息をついてから、にやりと嗤う。


「女神フレイム様は、なかなか手ごわい」


 口から出た言葉とは裏腹にさっぱりした表情で、ブラギは部隊の中に戻っていった。








 アレス達の反対側、トゥールとレグラスの陣営では、トゥールがパニックを起こしかけていた。直轄地ウクラテナの造反だけでも大きな失態であるのに、さらにケレスが出陣を断ってきたからだ。使者がもたらした報にトゥールは怒鳴った。


「アレギウスとラダトスを呼べ!」


 その声に驚いて、側にいたものが慌ててトゥールのテントを飛び出て、二人を呼びに行く。しばらくしてアレギウスが現われてトゥールの前で跪いた。


「御用でございますか?」


 その三日月のように細い目を更に細めて微笑を浮かべ、トゥールのご機嫌を伺おうとしている姿勢にトゥールの怒りが爆発した。


「何をしている! アレスも他のものも、誰一人欠けることなく、生きているぞ!」


「なかなか守りが堅くて…」


「そんなことを聞いているわけではない! さっさと殺せ!」


 アレギウスの薄い唇の端が持ち上がる。


「すでに刺客を放ちました。今度こそアレス王子を亡き者に…」


「今度、今度と、もうおまえの今度は飽きた。次に失敗したら、おまえの命はないぞ」


 アレギウスの顔色がすっと青ざめる。


「かしこまりました」


「アレスを殺すか、ハウトを殺すか、どちらかを殺してこい!」


「ハウト…この前も護衛の一人でも殺して来いとおっしゃいましたが、フォルセティの息子にそこまで執着されるのは、何ゆえで…?」


「おまえが知る必要はない! わしが欲しているのは首だ。さっさと持って来い」


 あまりの剣幕に、アレギウスはそのまま黙り込むと頭を下げた。入れ替わるようにしてラダトスがやってくる。


「お呼びとのことで、参上いたしました」


 ラダトスが濁声で言うと、トゥールの前で片膝をついて頭を下げる。


「ケレスが造反した」


 ラダトスの目が見開かれる。


「アレスを操っている者たちがいるはずだ。子供にこんなことが出来るはずがない。あの者の周りに居る者を殺せ! とにかくさっさと始末しろ」


「できるだけご期待に添うようにいたしましょう」


 ラダトスが礼を取って出て行く。その後、トゥールは数人の将軍を呼ぶと、指示を与えた。そこへレグラスが現われる。心なしか酔っているような頼りない足取りだ。アルコールの匂いはしないが、その代わりに甘ったるいような香りがしている。トゥールは顔をしかめつつも礼を取った。


「陛下。このような所においでにならなくても、お呼び頂ければ、参りましたものを…」


 トゥールの言葉にレグラスが皮肉な笑いを浮かべる。


「呼んでも忙しいとかで、なかなか来ないのでな、こちらから来た」


「なんでございましょうか」


「ケレスが造反したそうだな」


 トゥールはぎりりと唇を噛んだ。顔を伏せたまま、声だけは冷静を装う。


「そのようです」


「兵が足りぬのではないかと思って、出発前に触れを出しておいた」


 トゥールが驚いて顔を上げる。その表情を鼻で嗤うとレグラスは続けた。


「十歳以上の男は全員参戦せよとな」


「なっ」


「これで我が軍は三倍の人数にはなるだろう。感謝してくれよ」


 そのままテントを出て行こうとするレグラスの服の端を、トゥールは思わず掴んでいた。レグラスが振り返って見下ろす。


「た、民の反発を考えなかったのですか!」


 トゥールの声が震えている。その震えを馬鹿にするような皮肉な調子でレグラスは答えた。


「王のために民が命を捨てるのは当たり前のことだ。これが収まったら、ねぎらってやるさ。すでに集まりつつある。この近辺に住んでいるものは、すでに配置された。あとはおまえに任せた。トゥール。せいぜいがんばってくれ」


 トゥールの手を振り払うと、レグラスはそのまま出て行った。床に膝をつき、払われた手も床に落ちているままの姿で、トゥールはその後ろ姿を見送った。







 アレスのテントにフェリシア、ルツア、そしてエフライムが戻ってきた。すでに外の日は暮れており、かがり火がたかれていた。テントの中も蜀台の明かりだけが頼りだ。


「いいところに戻ってきたな。フェリシア。いそいであちらさんの状況を見てもらえないか? 高台から見ていると、中央に配置されている人数が多い気がするんだ」


 ハウトは地図が広げられたテーブルの前から振り返って、フェリシア達が入ってきたこを認めると言った。


「単に中央に人数を集めただけじゃないんですか?」


 エフライムの問いにバルドルが答える。


「それじゃったら右翼も左翼も総崩れになるからのぉ。いくらなんでもそういう布陣はするまい」


「嫌な予感がするぜ。とにかく、急いでくれ」


「わかったわ。ハウト。陛下、奥をお借りしますね」


 アレスの側仕えを意識してアレスの方へ礼を取ると、フェリシアはテントの奥へ消えて行く。それを見て、アレスが側仕えにこの場を離れるように言う。数人いた召使たちは礼をとってテントから出て行った。エフライムとルツアがテーブルに近づいた。


「どこに集まっているんです?」


「高台から見えるのは、この中央の位置なんだが、ここにどうも四千ぐらいは居そうな感じだぜ」


「でもヘメレとガダストレアをあわせても、三千六百ですよね? 特にヘメレはまだギルザブル公の説得工作が続いているはずなので、出陣しているかどうかも怪しいし…」


「まあ有事ということで、多少徴兵年齢を上下させたかもしれんのぉ」


「それでもせいぜい二倍がいいところって、言うことじゃなかったのかしら?」


「その通りなんじゃがな。だいたいこの短期で集めて、普通考えれば、五千ぐらいがいいところじゃろうて。そのうちの四千をこの位置に配置してしまったら、両翼は支えきれまい」


 衣擦れの音がしてフェリシアが戻ってきた。心なしか青ざめている。


「大丈夫か? フェリシア」


 ハウトが駆け寄って、肩を抱いた。フェリシアは黙って頷くと、テーブルに近寄って地図に指を置く。


「細かい人数まで数えられないので、だいたいだけれど、ここの半数が、こちらとこちらに」


 ハウトが四千ぐらいいると言っていた場所を叩いてから、両翼にあたる部分を叩く。


「四千に、二千に、二千? 全部で八千? ありえないだろう」


 ハウトが驚いた声を出す。フェリシアの手が動く。


「さらにこの谷に三百人ぐらい」


「伏兵のつもりか…。まあ予想通りだがな」


「そして森の中に百人ぐらい」


 フェリシアの手が顔を覆った。細い肩が震え出す。


「フェリシア?」


「ほとんど子供なの。森の中にいるのは。でもみんな、剣を持たされて歩いていたわ。大人に見張られて。泣きながら…。みんなアレスよりも小さいのよ」


 フェリシアは膝を床について泣き崩れた。ハウトが側にしゃがみ込んで肩を抱く。


「子供まで徴兵しましたか。だから人数が増えたんですね」


 エフライムの言葉に、ハウトがアレスとバルドルを見上げながら言った。


「奇襲を阻止する必要がある。子供でも心理的な動揺を誘うには十分だ。しかもタイミングが合えば効果を発するだろう」


「これは厄介じゃな」


 バルドルが白いひげを撫でながら言った。


「俺が行く」


 ラオがぼそりと言った。皆の視線が集まる。


「戦わなくても、見張っている大人さえどうにかすればいい。そして子供たちが逃げる口実を与えればいい。そうだろう?」


「確かにそうじゃな」


「フェリシア、正確な位置を教えてくれ」


 ラオが言うと、フェリシアは涙をぬぐいながら立ち上がった。そして地図の一点を指差す。


「ここだと思うわ」


 ラオは確認するように地図を睨みつけた。そしてハウトの方をちらりと見る。


「明日の夕刻までには戻ってくる」


「ラオ、ついでと言っちゃなんだが、もしも会ったらトラロク達によろしく言っておいてくれ。別件で依頼をしてあるからな」


「わかった。だが多分、会えないぞ。会う必要があれば追いかけるが…」


 ハウトが考え込む。そして言った。


「いや、いい。おまえさんにはここに戻って来てもらった方が良いだろう」


 ラオは黙って頷くと、黒いマントを羽織って、音もなくテントから出て行った。外で馬がいななく声がし、そして足音が遠ざかっていく。


「寄せ集めとは言え…やっかいですね。倍の人数がいるわけですから」


 エフライムが視線を地図に戻すと呟いた。ハウトも地図を見る。


「とは言え、今から作戦を変えるのは得策じゃないぜ? 多少の苦戦はするとは思うけどな」


「まあ、素人さんばかりじゃからの。頭をつぶしてしまえば、すぐにでも離散するじゃろうて。こっちが人数に怖気づいたら終わりじゃがの」


 バルドルも地図を見た。ハウトがため息をついた後で、皆の顔を見回して言った。


「どっちにせよ、明日の夜明けが戦闘開始だな。みんな良く眠っておいてくれよ」


「とりあえず、今晩は僕がアレスについていましょう」


「そうだな。一応、テントの外には護衛も立てておくが、誰かが一緒に居た方がいいだろうからな」


 エフライムの言葉にハウトが賛成し、バルドルも頷いた。


「じゃあ、フェリシア、行きましょう」


 ルツアの言葉にハウトが怪訝な顔をする。その表情に、ルツアが目を輝かせて微笑む。


「まさかうちの将軍様を、戦いの前に疲れさせるわけには行かないでしょう? フェリシアは私が預かるわ」


 その言葉に、フェリシアとハウトが真っ赤になる。なおもルツアは続けた。


「それにね。ここに来て、あなたが女連れと見なされると、士気に関わると思うわ。我慢してね」


 そういうと楽しそうに笑って、フェリシアの腕を取りテントを出て行く。フェリシアはハウトを見つめて困ったような表情をしていたが、結局そのままルツアに連れていかれてしまった。


「なんてこった」


 どさりとテーブルの脇にあった椅子に座り込む。アレスがその表情を覗き込みに来る。


「ハウトはかわいそうだと思うけど、ルツアが正しいと思うな」


「おまえに念を押されなくても…分かってるよ」


 ハウトが憮然とした声で言う。バルドルがハウトの腕を取った。


「ここはエフライムに任せて眠るとしようぞ。ハウト」


 ハウトはしぶしぶ立ち上がって、バルドルと共に出て行った。おやすみの挨拶をアレスとエフライムに残していく。エフライムがアレスを見る。


「さあ、あなたも休んでください」


 その言葉が終わらないうちに、外に出していたアレスの側仕えが戻ってきた。ハウトかバルドルが声をかけたのだろう。手際よく寝場所の用意をしていく。少し離れた場所に、エフライムの分も用意した。アレスが着替えるのを手伝って、横になるのを見ると、そのままテントから出ていく。エフライムは自分も手早く着替えると、蝋燭を吹き消した。外のかがり火と月の光が、テントに影を落としている。ゆらゆらと揺れる影と暗がりの中でアレスの声が聞こえてくる。


「おやすみなさい」


「おやすみなさい。アレス。良く眠ってください」


 エフライムはそういうと、自分も眠るべく目を閉じた。








 エフライムは微かな気配で目が覚めた。真夜中の冷気があたりを包んでいる。暗闇に何かがいる気配がする。エフライムは音をさせないように、すっと剣の柄を手に握った。テントを透けてくる月明かりを頼りに、目を凝らすとキラリと光る物が、自分の目の前にある。思わず剣を鞘ごと顔の前に持ってきたところに、ナイフが下りてきて当たった。ちっと舌打ちをする音がして、目の前にいたものが、もう一振りしようとしたところで、エフライムは左手で相手の腕を掴んだ。


「アレス! 目を覚まして!」


 エフライムが叫ぶ。ナイフが目の前にくる。それを右手の剣の鞘で受けて、覆い被さっている相手を、足で蹴り上げた。うっと言う声がして、相手の動きが鈍くなる。その隙に相手の身体の下から転がり出て、背中に馬乗りになると、剣を抜いた。そのまま相手の首筋に刃を当てる。


「ナイフを捨てなさい」


 襲ってきていた男の手が緩んで、ナイフが落ちる。そのナイフをエフライムは蹴り飛ばした。


「エフライム…?」


 アレスの声がする。目を覚ましたようだ。ゆっくりと歩いてくる輪郭が見える。


「エフライム?」


 エフライムの下からも、名前を確認する声がした。胸元を床で潰される状態になっているので、声が苦しげだ。


「あまり近寄らないでくださいね。アレス。この者は刺客ですから。油断しないように」


 エフライムが男に視線を固定して、アレスに背を向けたままで言った。アレスは一度頷いてから、それでは見えないことに気づいて、声に出して分かったと言う。エフライムは男の髪を掴んで、顔を上にあげさせる。ちょうど喉を思いっきり伸ばされる形になって、男が苦しそうにうめいた。


「さあ、誰が依頼主か話してもらいましょうか。そうしたら助けてあげますよ」


「助ける…つもりなど…ないだろう…エフ…ライム?」


「さあ、どうでしょう」


「いや…おまえは…昔から…冷酷な奴だ」


 その言葉にエフライムがビクリとして、身体を前に倒すと顔を覗き込む。その瞬間に男がにやりと嗤った。


「思い…出したか?」


 エフライムの顔から表情が消えた。掴んでいた髪を離す。男の顔がどさりと下に落ちて、顎を打ったような音がした。 


「話したら、楽に死なせてあげます。でも話さなかったら、そのときにはかなり苦しいことになる覚悟をしてください」


 エフライムが冷たく言い放った。


「ふん…おまえが居ると…知っていたら、この仕事は…受けなかったぜ」


 男がエフライムの下から呟いた。エフライムは冷たい視線のまま、黙って男の後頭部を見つめている。アレスはそのあまりの冷たい表情に、声もかけられずに立ち尽くしていた。


「マギの…アレギウスから…依頼を受けた…」


「やっぱりね。あなただけですか?」


「いや…わからん。他にもいるかもしれないし…俺だけかもしれない。俺には知らされてない」


「わかりました。ありがとう」


「どうせ…おまえ相手に…黙っていられる…はずが…ないからな…」


 エフライムの剣がきらめいた。


「素直に話した御礼に、楽に死なせてあげましょう」


 剣を振り上げた瞬間に、アレスが叫んだ。


「駄目! 殺しちゃ駄目だ。エフライム」


 エフライムの剣が止まる。下敷きになった男も、首をアレスの方へ動かした。


「だって…ナイフもないし、捕まえておくだけでいいじゃない…。エフライム…やめて」


 アレスには殺しに来た男よりも、エフライムの冷たい表情の方が怖かった。そんな表情のままエフライムに男を殺して欲しくない。そう思った瞬間に、思わず止めるために叫んでいた。


「アレス…でも、この男はあなたを殺しに来たのですよ? それだけじゃない。多分、出入り口にいた護衛も殺しているはずです」


 エフライムの言葉に、アレスの身体がびくりと震えた。


「それでも…だめだ…エフライム」


 アレスが弱弱しく言う。エフライムは首を振るとため息をついた。


「わかりました。それほど言うなら…」


 そして男の方を見る。顔を男の耳元に近づけると囁いた。


「余計なことは言わないこと。昔話は聞きたくないですから」


 男が微かに頷いた。それを見て、エフライムは男の右手を取るとひねり上げる。鈍い音がして、腕があらぬ方向に曲がると同時に男が悲鳴をあげた。


「エフライム!」


 アレスの声を無視して、そのまま右足を掴む。そして逆方向に曲げると、そのまま体重をかけた。腕と同じく足もあらぬ方向に曲がる。男の悲鳴が響く。


「エフライム! なんていうことを!」


 アレスが悲鳴のような声を上げる。エフライムはまだ男の上に馬乗りになっていた。うめいている男の首筋に剣を当てる。


「生かしておいてあげます。折ってしまった腕と足の手当てもしましょう。でも…ちょっとでも不信な動きがあれば、私があなたを殺します。それは忘れないように」


 男が必死で頷いた。エフライムはようやく立ち上がって、蹴り飛ばしたナイフを拾い上げた。そこに数人の武官と共に、バルドルが飛び込んできた。


「陛下!」


 アレスに駆け寄ると無事を確かめる。


「僕は大丈夫。エフライムが居たから…」


 アレスの言葉に、バルドルはエフライムの方へ足を向けた。近寄りかけて、奥であらぬ方向に曲がった腕と足を抱えてうめいている男を見つけて、歩みを止める。


「これは?」


「生かしておく代償です。アレス…陛下が生かしておくようにと…」


 エフライムが答えた。暗い瞳をしている。


「手当てをしてあげてください」


 バルドルが片手で合図をすると、武官たちが男を運び出して行った。


「アレギウスの差し金だそうです」


 エフライムの言葉に、バルドルが頷いた。


「驚きゃせんな」


「人数はわかりませんけれどね」


「どっちにせよ、今晩はもう来んじゃろう。陛下にはわしがついておるから、おまえさんは休んでおれ」


 エフライムは躊躇したが、おびえたアレスの目に気づき頷いた。


「そうします」


 エフライムはアレスの前に立った。アレスを見る。


「私が怖いですか?」


「ちょっとだけ…。ううん。怖かったけど、もう平気」


 アレスの慌てて言う様子を見て、エフライムはため息を吐いた。


「刺客というのは、相手を殺すまでが仕事です。だから油断できないんです。もしもそのまま生かしておいたら、あなたが死ぬか、雇い主が死ぬまで、何度でもあなたを狙いますよ」


 エフライムがアレスの髪に触れる。アレスの身体がビクリと反応した。


「私は、あなたを守りたかっただけです」


「うん…。エフライム。ありがとう。でも…」


「なんです?」


「次はあんなことしないで…」


 消え入るようなアレスの声に、エフライムがじっとアレスを見て、ため息をつく。


「もし次があったとしても、同じです。私は同じことをしますよ。狙われているのは、他ならぬあなたの命なんですよ?」


「うん…そうだね…」


 エフライムがじっとアレスの瞳を見る。アレスは無理に微笑んで見せた。エフライムも力なく笑う。


「わかってくださったのなら、結構です。おやすみなさい」


 そしてエフライムはテントから出て行った。思わずアレスは身体の緊張が解けて、ふらりと身体が揺れる。バルドルが慌てて腕を掴んで支えた。


「大丈夫か?」


「う、うん。ちょっとびっくりしただけ」


 バルドルがアレスを抱き上げた。アレスがびっくりした表情になる。


「足が震えておる。運んでやるから寝たほうがよいぞ」


「うん…」


 アレスはおとなしくバルドルに運ばれると、身体を横たえた。バルドルが大きな手で、ぽんぽんとアレスの頭を撫でる。


「エフライムはおまえを守ろうと必死だっただけじゃ。わかるな?」


「うん。わかっている。でも…」


「じゃったら、それ以上は無しじゃ。エフライムが信じられんか?」


 アレスは慌てて頭を振って否定した。そういうことではない。


「わしもあいつは信用できると思っておる」


 バルドルがアレスに微笑んだ。


「じゃったら、いいじゃろう? もう何も考えるな。わしが側におるから、まずは休みなされ」


 アレスはこくりと頷くと目を瞑った。すぐに眠るのは無理だと思ったけれど、それでも考えるのをやめて、寝たふりをすることに決める。バルドルが頭を撫でたのを感じる。そしてテントの片隅に行き、小声で武官たちに指示を出していると思っているうちに、アレスの意識はおぼろげになっていった。









 夜明け前に戦の用意をする音でアレスは目が覚めた。テントの中には蝋燭が燈されている。外のかがり火が映し出すシルエットで、テントの前を何人も行ったり来たりしているのが見えた。脇を見ると、鎖帷子を着て兜を脇に抱えたバルドルがいる。その向こうには、同様の姿をしたハウトも見える。


「目を覚まされたか」


 バルドルがアレスの枕元に跪いた。召使がアレスのために鎖帷子を持ってくる。ずしりと重そうだ。


「重いですぞ」


 バルドルの言葉の通り、着せられていくとかなり重い。思わずアレスは顔をしかめた。


「こんなの着たら動けないよ」


「じゃが、何もないと危ないですからな」


 エフライムとルツアが同様の装いで、テントに入ってくる。


「かなり重いわね。これ」


 初めて鎧を着けたルツアが、顔をしかめながらハウトに言った。ハウトがにやりと嗤って答える。


「さすがのフレイム様もちょっと後悔しているか?」


「まあね、もっと筋力をつけておくべきだったわ」


 ルツアがじゃらりと鎖の音をさせながら、肩をすくめた。その様子を見てハウトが苦笑する。エフライムが昨晩のことなど無かったかのように、アレスに微笑んだ。


「基本的に陛下はこちらにいらしていただくので、鎧を着なくても大丈夫だと思いますけれど?」


 バルドルがそれを聞きつけて、眉をひそめる。


「そりゃ駄目じゃ。戦なんじゃから、陛下にもそれなりの準備をしていただかないと」


「そういうものですか?」


「当たり前じゃ。遊びに来た訳じゃないんじゃからな…まあ、兜までは被らんで良いと、わしも思うがな」


 アレスは内心ほっとしていた。鎖帷子だけでこの重さなのだから、これで兜まで被ったら一体どのような重さになるやら…。


 フェリシアがいつもの服装で、テントの中に音もなく入ってきて、ハウトの後ろに立つ。心なしか顔色が青ざめている。それに気づかないかのように、エフライムがバルドルに話しかけた。


「さて、そろそろ出陣ですね。バルドル様は、こちらで陛下のお側にいらっしゃるのですよね?」


 エフライムが確認するようにバルドルを見た。バルドルが頷く。


「ハイネデル候の部隊から三百はここに残してもらうようにしたからの」


 それを聞いて、ハウトが確認するように頷いた。そしてアレスの前に跪く。それに従うようにエフライムもルツアも跪いて頭を下げる。


「行ってまいります。陛下」


 ハウトが頭を下げたまま言った。アレスがなんと答えていいか分からずにいると、バルドルが側から耳打ちする。


「主神ゼーザレスと戦いの女神フレイムの加護があるように…と」


 アレスは頷いて、その通りに言う。ハウトが顔を上げた。エフライムもルツアもアレスを見た。戦いに行くのだ…とアレスの気持ちの中にゆるゆると実感が湧いてくる。思わず口をついて言葉が出てくる。


「我らの王国のために」


 次の瞬間に、そのテントの中にいた全ての人が唱和していた。


「我らの王国のために」


 ハウトがにやりと笑って、アレスの肩に手を置くと、身を翻した。フェリシアを抱きしめてからテントを出て行く。エフライムはアレスとバルドルに会釈をして出て行った。ルツアがアレスを抱きしめる。


「行ってきます。アレス様」


 そっと耳元で囁くと、ルツアはにっこりと笑ってエフライムの後を追う。アレスはまじめな表情になってバルドルを振り返った。


「皆、無事に帰ってくる…よね?」


 バルドルが優しく微笑む。


「そう祈るしかないじゃろうな」


 その言葉に何とも言えない気持ちになって、アレスはバルドルとフェリシアを伴ってテントの外に出た。ハウトが馬に乗って槍を持ち、出発することを知らせていた。ルツアとエフライムはそれぞれの方向に、馬を走らせていく後ろ姿が見える。そして多くの歩兵と騎馬兵が、獅子と一角獣の意匠を凝らした王の旗を先頭にして川の流れのように戦場に向かっていた。


「皆が無事に帰ってきますように…」


 フェリシアの呟きが、アレスの耳に聞こえてきた。もう引き返すことはできないのだという思いが、アレスの心の中に生まれていた。それを察するようにバルドルがアレスの肩に手をかける。


「覚えておきなされ。皆この国のため、そして陛下のために死地に向かうのですぞ」


 アレスはバルドルの手の上に自分の手を重ねると頷いた。戦いが始まるのだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ