第14章 予兆(1)
ぎりぎりと弓を引き絞り、ぎりぎり一杯のところで、ひゅっと手を離す。矢はきれいに的に向かって飛んでいった。
「おまえがオージアス・ザモラか」
「はい」
「年は?」
「今年二十三になります」
隊長に就任するときに交わした会話が頭の中で渦巻く。軽く頭を一振りして、そういった雑念を振り払うと、もう一矢。弓に番える。眼の前に矢尻を見据えながら、自分の顎までぐっと引っ張ってくる。ぴしりと矢が止まったところで、静かに息を吸い込む。視線は矢の先の的。弓を構えた左手は動かさず、弦に掛かっていた指だけが軽く離れた瞬間に、矢が直線的に的に向かって飛んでいった。
「見事に飛ばすもんだなぁ」
そんな声に振り返ると、ハニーブロンドの熊が立っていた。いや、正確に言うと熊のような男だ。ユーリー・エールソン。オージアスの相棒として自他ともに認めており、そして、今はオージアスが隊長を務める近衛隊の副隊長だった。
「ユーリー」
「ここじゃないかと思ってさ」
そう言って、ユーリーが矢筒を立てかけてあった木の根元に座り込んだ。所在投げに視線があちらこちらを見ている。何か言いたいが言えない様子だった。それは自分も同じだ。迷いがあるときには、その迷いを断ち切るように、弓を射にくる。それがこの場所だった。
自分のほかにはユーリーしか知らない場所。手製の的に、自分の矢を打ち込む場所だった。
「何も言うなよ」
機先を制してオージアスはユーリーに声をかけた。そしてユーリーの側の矢筒からもう一本矢を抜き取る。
「今、俺に何かを言ったら、いろいろ溜めていたものが、洩れ出るからな」
ユーリーの言葉を背中で拒否して、オージアスは矢を番えた。きりきりと音をさせながら、弦が弓なりに伸ばされていく。指の力をひょいと緩めた瞬間に、矢は的へと飛んでいく。わずかながらに中心より逸れたが、それでも矢はかなり先の小さな的の中に収まった。
振り返ると、ユーリーがガリガリと頭を掻き毟っていた。あぐらをかきながら両手で頭を掻いている様は、本当に熊のようだ。そう思った瞬間に耐え切れなくなって、思わずぷっとオージアスは吹き出した。それを聞きつけて、ユーリーが視線を上げる。
「おまえな。俺がこれだけ心配しているのに、笑うこたぁないだろう。珍しいんだぜ、俺がこれだけ考え込んでいるのも」
ユーリーが噛み付いてくる。その様子にさらにオージアスは笑いを漏らさざるをえない。ユーリーが考える! あのトラブルメーカーで、頭まで筋肉と言われるユーリーが。
「悪かったな。おまえに頭を使わせて」
オージアスはそのさらさらとした前髪を、軽くかきあげた。ダークブルーの瞳がまだ笑みを残している。
「いや、俺としてはだな。何かできないかと」
オージアスは、笑みを片手で隠しながらユーリーが言い分けめいた口調で、言葉を紡いでいるのを聞いていた。そう。何度自分は、この能天気な友人のおかげで救われたか。
「悪かったよ。独り言になるが、聴いてくれるか?」
その言葉にユーリーはにやりと嗤った。オージアスが口を開くときには愚痴が多い。だが、その愚痴を吐ききったときに、オージアスの真価が発揮されるとユーリーは知っていた。話をしているうちに自分の考えがまとまってくるのだ。そこは取り留めなく話をしているユーリーと、論理派のオージアスの違いだった。その違いをユーリーも良く理解している。
「言えよ。いつもどおり、俺は黙って聞いてやるぜ。まったく世話が焼ける奴だ」
ユーリーの言葉にオージアスは苦笑した。たしかに自分が考えをまとめるためだけに口を開くのはこの友の前だけだった。何も言わずに聴いてくれるユーリーは、オージアスにとってありがたい存在だ。
「ギルニデム隊長の後任として近衛隊の隊長をやっているのが、重いんだ。何よりも、なんで俺がって思っている。俺にこれだけの組織をまとめる力はない」
そこでオージアスは、ユーリーの隣に弓を抱えたまま座り込んだ。ユーリーは肯定も否定もなく黙ってオージアスの話に耳を傾けている。
「多分、ヴェルダロス様は、俺が反ギルニデム派だと思っていると思う。よくぶつかっていたのは、隊員も知ってるしな。だが、そういう訳じゃない。だからこそ、ギルニデム隊長を亡き者にしたヴェルダロス様とレグラス陛下に仕えているのが辛いんだ。
だが、今俺がここで降りたら、近衛はバラバラになる。何しろヴェルダロス様とレグラス陛下に反感を持っているものは多い。近衛は王の側近だからな。グリトニル王を慕っていたものや、ネレウス王のころから仕えていたものも多い。その中で、バランスを取ってレグラス陛下への反感を中和するのは並大抵じゃない」
「だが、おまえならできる」
珍しくユーリーが口を挟んだ。軽い驚きとともに、オージアスはユーリーを見た。
「悪いな。口を挟んで。だけどよ、オージアス。おまえだって思うだろう? こんな王の御世は長く続かない」
「ユーリー! 誰かが聞いていたら」
「大丈夫だ。ここには誰もこない。オージアス。しばらくだ。ほんのしばらくでいい。近衛を持たせろ。きっと道は開けるさ」
「ユーリー」
ユーリーが、ひょいとオージアスの弓を手にとった。そして矢筒の中から矢を取り、弓に番える。そして力任せに弓を構えた。ぱっと手を離したとたんに、矢は大きく空に向かって跳んでいき、そして弧を描いて、オージアス手製の的を掛けてある木のかなり上の方に突き刺さった。
「おまえなぁ」
オージアスが、軽く服についた土を払いながら立ち上がり、ユーリーから弓を取り上げる。
「あんなところに打ち込むなよ。後で抜くのが大変なんだぜ」
悪い、悪い、と悪びれない口調でいいながら、ユーリーはどさりと、また元の位置に座り込んだ。
「で、おまえがそういうからには、何か根拠はあるのか?」
オージアスが上からユーリーの明るいブルーの瞳を覗き込む。太陽の光が入り込んで、そこはまるで湖のような色をしていた。その湖がすっと細められる。
「そんな根拠、あるわけないだろ? でも、ほんのしばらくだと思っていたら、気も楽だぜ? いざとなれば逃げ出せばいいさ。おまえなら、どこでだってやっていける」
ユーリーが軽い口調で言う。オージアスはため息をついた。
「極楽トンボ。いや、おまえは極楽熊だな」
「なんだ、そりゃ」
「おまえの新しいあだ名だ」
それを聞いて、ユーリーが口を尖らせた。
「おまえなぁ、人が黙って聴いていれば、次から次へとあだ名をつけやがって。しかも全部熊だ」
「トラブル熊、能天気熊、脳みそ筋肉熊、子供熊。ああ、考えなし熊っていうのもあったな」
オージアスが今までにつけたあだ名を指を折りながら並びあげる。
「だから、なんで全部熊なんだよ。人間はないのか」
「人間がよければ、全部人間にしてやるぜ。トラブル男、能天気男、脳みそ筋肉男…」
ユーリーは熊と人間の部分が問題でないことにやっと気づいたようだった。何かを言い返そうとするのだが、言葉が出てこない。言ったら、もっと酷いことになりそうだった。
半分口を開きかけて黙る。所詮ユーリーが口喧嘩でオージアスに勝てたことはなかった。そのユーリーを横目で見ながら、オージアスが矢筒から矢を取って弄ぶ。
「だが、たまにはおまえの極楽熊脳みそに付き合うのもいいかもしれないな」
「なんだそりゃ」
「思考停止っていうことだ」
オージアスの瞳がすっと細くなって、ユーリーに背を向ける。そして矢を番えて、弓を引き絞った。ほんのわずかな空白の間の後に、パンと乾くような音がして、矢が的中する。
「相変わらず、うまいもんだ」
ユーリーが呆れるようにして、オージアスの矢の行方を見ていた。出会ったころから、オージアスは弓が得意だった。剣はあまり得意なほうだとは言えないが、弓を射たら右に出るものはいなかった。それは今も変わらない。振り返ったオージアスは、晴れ晴れとした顔をしていた。
「決めた。ユーリー。思考停止する。今の状況が打開されるまでだ。だが、あまり酷いようなら、俺はここを出る」
ユーリーはその言葉を聞きながら、にやりと嗤った。
「ああ、そのときは一緒に出るさ。俺に任せておけ。世界中を旅した男だからな」
「世界中を旅したは怪しいな。本当か?」
「本当だって。俺に任せておけば、どこの国だって大丈夫だぜ」
ユーリーの言葉を、話半分で聴きながら、オージアスは的の方に向かって歩きだした。矢筒と弓を抱えている。その後をユーリーがついてくる。
「俺がトラケルタ王国を旅したときはだなぁ」
言いかけたユーリーにオージアスがくるりと振り返った。そして親指で、くいくいと上を指し示す。ユーリーがつられて視線をあげると、先ほど刺さった矢が遥か上の方に見えた。
「矢だって貴重なんだからな。おまえ、責任もって取り戻してこい」
「な、なにぃ?」
「ほら、いけよ。そこからが登りやすそうだぜ」
オージアスはユーリーに、低い場所にある枝を指し示すと、的に刺さった矢を抜き始めた。ユーリーが意を決したように木に登り始める。意外に身軽なんだよな…とオージアスは、木登りをする熊のような姿を下から眺めながら、ふとユーリーの言葉を思い出していた。そして微笑む。
「そうだな。おまえと二人で、あちこち旅をするのは、それはそれで面白そうだ」
ぽつりと言った独り言。
「何か言ったか!?」
ユーリーが上から声を掛けてきた。
「何も言ってない! 早く取って来い!」
オージアスは、くっくっと笑いながら、器用に木に登っていくユーリーを幸せな気分で見上げていた。
「なんだと!」
書簡を読むトゥールの手が震えていた。フラグドでアレス王が即位し、東側は一気にアレス王の配下になってしまったことを書面は告げていた。各地に潜ませている者の一人が送ってよこした書簡だ。
トゥールは立ち上がって部屋を出て行くと、レグラスの元へ向かう。どうせまだ寝室にいるに違いない。早足で廊下を通りぬけると、レグラスの部屋の扉をノックする。
「なんだ」
くぐもった声が聞こえる。
「トゥールでございます」
「入れ」
扉を開けたとたんに、むっとする空気に包まれる。むかつくような甘い匂いが漂っていた。思わず窓を開け放つ。
「陛下!」
部屋の奥に向かって叫ぶと、ゆらりと人が動く気配がして、ガウンを羽織っただけの姿でレグラスが現われた。
「なんだ」
けだるげに壁に寄りかかっている。視線が定まっていない。一抹の不安を感じながらもトゥールは家臣としての礼を取るために跪いた。
「立て」
その声に従って、立ち上がってレグラスを見る。髪もぼさぼさで、ガウンもはだけていて胸元が見えている。トゥールは内心では歯噛みしたいほどの苛立ちを感じたが、表面上は押し殺した。
「アレスがフラグドで即位しました」
「…何?」
「ミスラ公以下、ギルザブル公、ネヴィアナ公がアレスに忠誠を誓ったとのこと」
ようやくぼーっとした頭に情報が届いたようだ。レグラスの顔色が変わった。
「ばかな…。王はここにいるというのに」
「こうなったら一刻も早く即位の儀を」
「いや…しかし、王冠が…」
「王冠の問題ではございません!」
思わずトゥールの語気が強くなる。元はと言えば、王冠が無くなっていたことが問題だったのだ。なぜあのような大事なものを無くすことができるのか。しかも一時しのぎで間に合わせようとしたにも関わらず、レグラスが見た目を気にして、即位を延ばしていたことも仇となっていた。
「よろしいですか。正統なる王としてアレスを討伐する必要があるのです」
「…戦か」
「はい」
二人は沈黙してお互いを見やった。そのとき、その沈黙を破る音がした。扉をノックする音だ。
「なんだ!」
トゥールが答えると、扉が開いて召使の一人が跪いた。
「アレス王の使者と名乗るものが来ております」
トゥールとレグラスが視線を交わした。トゥールが答える。
「謁見の間に待たせておけ」
「はい」
扉が閉まった。
「お支度を」
「分かった」
レグラスが頷いた。トゥールはレグラスの側使いを呼ぶべく、壁から下がっている紐をひいた。




