第13章 胸の内(2)
「初めまして…」
初めてルツアに会ったとき、うまく言葉が出てこなくてありきたりに挨拶したような気がする。会って話をするまでは、主神ゼーザレスの妻、ユージュスのイメージを持っていた。女性と家庭の守り神であり、気位が高く嫉妬深い女神、ユージュス。それはギルニデムの印象があったからだろう。
エフライムにとって、ギルニデムはまさにゼーザレスだった。五年ほど前、国境の小競り合いの中で、敵に囲まれて孤軍奮闘している最中に現われた赤毛の騎士。それがギルニデムだった。
そのときエフライムは、いつの間にか本隊の動きに取り残されていた。気づいたときには、すっかり敵に囲まれていた。周りにいた味方は、どんどん敵の剣で地面に倒されていった。エフライムが最後の一人となり、駄目かと思ったときに現われたのがギルニデムだったのだ。まさにエフライムの人生が闇から光へと転じた瞬間だった。
その国境の小競り合いに勝利し、首都イリジアに戻るときに、ギルニデムはエフライムに言った。
「おまえは強い。俺と一緒に来い」
怪訝な顔をしていたエフライムに、さらに重ねてギルニデムが言う。
「俺の隊のメンバーを探している。近衛だ」
近衛…。それはネレウス王の御世に作られた、強いものだけが入れるエリート部隊だった。そして、エフライムとギルニデムは本隊よりも一足早く帰ることになった。
その道すがら、野宿することになった森の中で、ギルニデムは焚き火をしながらエフライムに尋ねた。
今でもエフライムはその会話を思い出すことができる。ギルニデムの表情や、森の匂い、そして焚き火のはぜる音まで、頭の中に再現されてくる。
「おまえ、出身は?」
「しがない小さな村の農家の三男ですよ。邪魔になったので軍隊に入れられました」
ギルニデムの尋ねに応じて、考えていたシナリオが、エフライムの口からスラスラと言葉として出てきた。
「ふーん」
ギルニデムが拾っておいた枝を火にくべた。そしてその火を見たまま言う。
「…本当のことを話す気はないか?」
「何のことです?」
言い当てられて、一瞬だけ胃の中が締め付けられる感覚がした。しかしこの程度で崩れるようなエフライムではない。平静を装ったままギルニデムを見ると、ギルニデムのダークブルーの瞳が、エフライムを貫いていた。そのあまりにも静かな瞳に内心たじろぎながらも、それを表に出さぬようにしてギルニデムの瞳を受け止める。
「いくつだ」
「この春で十六になりました」
「兵になって一年ぐらいか」
「はい」
国の決まりで、十五にならなければ兵にはなれない。非常時には徴兵年齢が下がることもあるが、先に年寄りが集められ、そして若いものが集められる。今は小競り合い程度だから、徴兵年齢は守られていた。十六ということは、大した経験がないということを意味している。近衛にすると言った言葉を翻すつもりかと、エフライムが思ったところで、ギルニデムが次の言葉を発した。
「今回で何回目の戦いだ?」
「二回めです」
ギルニデムがじっとエフライムを見ている。
「それにしては、おまえは人を殺すことに慣れすぎている」
ざらりとした感覚が背中を伝う。
「迷いがない」
そしてギルニデムがふっと嗤った。
「そして、おまえの手は農民の手ではない」
思わずエフライムの手が剣の柄にかかった。それを見てもギルニデムは慌てるそぶりもない。相変わらずエフライムをじっと見たままだ。強い瞳だった。
「剣を抜くか? 俺を殺して何になる?」
はっとして、エフライムの手が剣の柄から離れた。ギルニデムがそれを見て微笑む。
「いい子だ。嫌なら話さなくても良い。嫌なものを無理に語らせようとは思っていない。だが農家の三男を語るのは止めておけ。そうだな…せめて俺の遠縁だとでも言っておけ。その嘘を見破るのは俺と俺の妻ぐらいなもんだ」
驚いたエフライムにギルニデムはにやりと嗤った。ギルニデムの大きな手がエフライムの肩に置かれる。暖かい手だった。
隊長としてのギルニデムは厳しかった。ギルニデムの隊は隊長をいれて八人で、エフライムが最後に加わり、そして一番若かった。他の者に比べて経験がない為にできないことであっても、情け容赦なく叱責が飛んだ。そして思い出される風景があった。
「うちの隊長って、どうしてあんなに容赦ないんだ? 参っちまうぜ。なぁ?」
その日もやはり厳しく叱責された後だった。夜になり、普段は食堂となっている場所で皆が酒を飲んでいた。横で同じ隊のパウルが呟く。ギルニデムの隊でエフライムの次に若い。そしてエフライムの次に怒られることが多いのは、彼だった。オターグレイの頭を振りつつ酒を飲んでいる。
「他の隊の連中なんて、もっと適当にやっているぜ? 俺達だけさ。あんな奴にがみがみ言われているのは」
パウルは机に突っ伏した。
「はぁ~。やめちまおうかな~。こんなにきついと思わなかったぜ。さっさと親父の後を継いで宮中に入る方がいいよな~」
エフライムはなんとも返事ができず、合わせるようにしてただ微笑んで見せた。それがパウルには同意の意思と受け取れたのだろう。
「だろ? さっさと貴族様になって、親父みたいにあちこちに女を囲ってさ~。親父の奴め。『王をお守りするのは、貴族の義務だ』とか、何とか言っちゃって。俺をこんなところに入れやがって。兄弟で俺が一番剣を使えたからってだけだぜ?」
お気楽な貴族の跡取り息子。見ているだけで反吐が出そうだったが、自分とは関係ないことだ。エフライムはただ調子を合わせるように、話だけを聞いていた。
「それとも隊を変わろうかな~。ガセットの隊を辞める奴が出たとかで、人を探してるんだそうだ。あそこだったら楽だぜ? ガセット自体がやる気ないし。おまえも一緒に移るか?」
「いや…俺は…」
エフライムは困ったように微笑みながら呟いた。
「おいおい。じゃあ、おまえはあのギルニデムに付き合うつもりか? あんな怖い隊長、やってらんないぜ? 口を開けば、『王を守るため』だの『民を守るため』だの。王が何をしてくれている? 威張っているだけさ。そんな奴を俺達が守る必要なんてあると思うか? それに民だ。あいつらは結局、俺達の奴隷だ。俺達を養ってればいいんだ」
思わず声が大きくなっているパウルに、エフライムは眉をひそめた。
「パウル、不敬だぞ」
パウルは鼻で嗤うと、濃い琥珀色をした液体の入ったグラスを傾けて喉に流し込んだ。
「王の守りなんて、くそ喰らえだ」
そうパウルが言った瞬間に、エフライムとパウルの間に、抜き身の剣が差し出される。パウルの首筋を狙った位置にある。
「ほぉ」
低い声。
「おまえは王の守りを何と心得る」
静かだったが、有無を言わさぬ声だった。とたんにパウルの顔が青くなる。エフライムが振り向くと、ギルニデムが厳しい表情で、剣をパウルの首筋に当てて立っていた。いつの間に立っていたのだろう。気配に敏感なエフライムですら気づかなかった。消し去られていた気配は、今は殺気と共にギルニデムにまとわりついている。それに酒場にいた他の隊員たちも気づいたのだろう。水を打ったようにシーンとしている。
「天は人々を戦う者、育てる者、祈る者に分けた。我々は戦う者だ。王を守り、そして民を守る。その役目を何と心得る」
パウルは動けない。ギルニデムが剣を下げ、パウルの襟元を掴んで立たせた。足が震えているようで、立ち続けていられないパウルを、ギルニデムが襟を掴んだまま支えている。エフライムも静かに立ち上がった。
「戦う者でいるのが辛いのであれば、他の者になるがいい」
ギルニデムの熾烈な視線がパウルの顔から血の気を奪っていた。
「他の隊に移ることは許さん。王を侮辱したまま、ここに残ることはできん」
パウルが口を開きかけた。単なる小隊の隊長に、そこまでの人事権はない。しかしギルニデムが凍った表情のまま言い放った。
「俺が許さん」
ギルニデムがぱっと襟元から手を離すと、毒気を抜かれたようにパウルはへなへなと床に座り込んだ。そしてギルニデムの視線がエフライムを捕らえた。剣の切っ先がエフライムの喉元に来る。それをエフライムは平然と見据えた。
「おまえも同じ考えか」
エフライムはギルニデムの眼を見返しながら、否定の気持ちと共に黙って首を振った。
いつの間にか自分の背後を取っていたギルニデムに、声が出せなかった。
自分は戦う者以外にはなれない人間なのだ。ただその想いを込めてギルニデムの厳しい瞳を見つめ返す。
一瞬、ギルニデムの眼が緩むような動きを見せたかと思うと、剣の切っ先が鞘に収まって、ぱちんと音がした。
「ならいい」
そう言い捨てて、ギルニデムは立ち去っていった。
翌朝になって近衛達はギルニデムが近衛全体の隊長になったことを知った。その後、エフライムはパウルの姿を見ていない。
ギルニデムの館に招待されたのは、近衛になって二年ぐらい経ってからだった。最初のうちこそ叱責が多かったものの、元来器用な性質だったエフライムはいろいろなことを良く覚えた。
ある日の午後、ギルニデムはエフライムの元に来ると、明日は閑かと尋ねた。翌日は休みの日だった。家庭がある訳でもなく、特定の恋人がいる訳でもないエフライムには、特に決まった予定は無かった。そして館へ来るように言われて、翌日、緊張しながら郊外の大きな館に向かうこととなった。
時間よりはかなり早めだったが、遅れるよりは良いだろうと思い、エフライムは館の門をくぐった。すると見事に趣向を凝らしてある庭園が見えて来た。庭の中に人の手で作ったとは思えないような泉があった。このような庭園を造るのは流行っていると聞いたことがある。どこかの森の中を通っているような感覚に陥る意匠だった。まだ時間があると思い、泉の脇から道を逸れると細い川に従って馬を進めていく。木々の間を抜けるうちに、どうやら裏庭の方に来てしまったらしい。きれいに芝と石畳で作られた庭に人がいる気配がした。剣をぶつける音も聞こえてきた。
「まだまだだな」
ギルニデムの笑いを含んだ声が聞こえてくる。
「くやしいわ。もう一度!」
同じく笑いを含んだ女の声が聞こえた。
「やれやれ。何回やっても同じだぞ」
そういうギルニデムの声が聞こえたかと思うと、また剣がぶつかる音がする。エフライムが馬を進めていくと、木々の切れ目から向かい合っている人物の姿が見えた。
片方はギルニデムだ。もう一人はスカート姿だった。両方とも剣を構えて打ち合っている。唖然としつつも馬から降りて近づいていくと、女の方がエフライムに気づいた。それで一瞬隙が出来たらしい。カーンという音と「あぶない!」という声が同時に聞こえた。目の端に銀色のものを捕らえる。何かがエフライムに向かって飛んできている。反射的に首を傾けると、エフライムの頬があった場所を掠めて、剣が飛んで行った。
ギルニデムも女も驚いた顔をしてエフライムを見ていた。思わず、どう対応していいか分からずに、エフライムは黙ってギルニデムを見返すと、そのまま微笑を浮かべてお辞儀をした。
「エフライム…。おまえ何でこんな所から?」
呆然とした表情のままギルニデムが言う。
「ちょっと道を逸れたら迷ってしまいました」
「怪我はないか」
「ありません」
エフライムは平然と答えた。ギルニデムは傍にいる女も呆れたような表情のままでいることに気づくと、気まずげに咳払いをした。女もはっと気づく。そして彼女は照れたような笑顔になった。
「エフライム、こっちが妻のルツアだ」
ギルニデムの言葉にルツアがにっこりと微笑んだ。
「ようこそいらっしゃいました。うふふ。とんだところを見られてしまいましたね。こちらからいらっしゃると思わなかったものですから」
屈託の無い笑顔がエフライムに向けられている。想像していた女性とあまりにもかけ離れていた。まさか女の身で、しかも貴族の女が剣を持つとは。ギルニデムは公式には伯爵であり、奥方も元々は候爵家の娘だと聞いていた。
「初めまして…」
自分で思うよりもたどたどしくエフライムは挨拶していた。美辞麗句はいくらでも出るはずなのに、うまく頭に浮かんでこない。
ギルニデムは居心地が悪そうにエフライムに言った。
「妻は言い出したら聞かないのでな。ちょっと稽古をつけてやっていた」
ルツアが艶やかに笑う。
「あら、何であっても出来ないよりも出来るに越したことは無いわ。そうでしょう?」
それは本当に明るい笑顔だった。エフライムはその表情にはっとなった。ギルニデムがエフライムの横を通りすぎて飛ばされた剣を拾いに行く。
「よく避けられたな」
後ろから声が聞こえる。反射的に最小限の動きだけで、飛んでくる剣を避けてしまったことにエフライムが答えられないでいると、そのままギルニデムは戻ってきてポンと肩に手を置いた。近衛に誘われたときと同じ手の暖かさだった。
「さて、中に入れ。お茶にしよう」
その後のお茶会では、何を話したか覚えていない。しかし翌日に小隊長に任命されたので、そのことを話したような気もする。それからちょくちょくギルニデムの館に行き、ギルニデムに小隊長としての心得を聞いたり、ルツアからもてなされたりした。それはエフライムにとっては、穏やかで楽しい思い出の一つとなっていた。
そして今、エフライムは街道沿いの宿屋で、ルツアと同室にいる。ベッドに寝転んで天井を見ながら、エフライムは物思いに沈んだ。最初の出会いからルツアは他の女たちと違っていた。女だてらに剣を使い、物怖じしない強さを持つ。それでいて女性としての魅力も兼ね備えている。今まで出会ったどんな女よりもエフライムを惹きつけた。ギルニデムの妻でもあり、自分よりも年上であることは分かっていたが…。この気持ちは恋慕か憧憬か。
ギルニデムを押しのけてまで、思いを伝えようとは思っていなかった。ギルニデムの傍にいるから、ルツアは輝くのだ。それは分かっていた。分かっていたが、ギルニデムの生死は分からず、しかも状況から言えば死んでいると思われる中で、自分の気持ちがどうなるのか、エフライムには不安だった。
「女神フレイム」
呟いた瞬間にドアが開いた。思わずエフライムは身体を起こす。ルツアが扉のところに立っていた。手に小さな酒ビンとグラスを二つ抱えているのが見えた。ルツアがにっこりとエフライムに微笑んだ。
「うふふ。付き合いなさい」
「寝酒ですか。いいですね」
今は考えまい。エフライムはそう決めて、グラスをルツアから受け取った。
軽く飲んだ後、ルツアは早々に眠ってしまったようだ。規則正しい寝息が衝立の向こうから聞こえている。その寝息に気持ちを逆なでされながら、いつのまにかエフライムも眠りに落ちていた。
薄暗い空間で、ルツアを取り囲むように何人か立っていた。誰だかは分からない。見知った顔は無かった。その人々が一斉に自分を見ている。そして指差している。自分を見ていることと指差していることは分かるか、それらの人々の輪郭は薄暗がりの中で、ぼんやりとしたものだった。そのうちの一人がルツアに言った。
「あなたが見捨てたからギルニデムは死んだのだ」
違う。そんなことない! ルツアは否定しようとしたが、声が出なかった。別な一人がまた指差していう。
「あなたの愛情が足りなかったからギルニデムは死んだのだ」
違うと言いたい。でも、自分の喉から声が出ない。必死で首を振った。
「ギルニデムを見捨てたのだ」
「夫を見捨てた女だ」
違う。違う。見捨てていない。見捨てたわけではない。
「置いて逃げた」
違う。残りたかった。
「夫が死んだら、妻も後を追うのが愛情というものではないか? なぜおまえは生きている?」
違う。死にたかった。でも私には義務がある。アレス様を守る義務が。
「おまえのギルニデムに対する愛情は、その程度だったのだ」
違う。そんなことない。私は心から彼を愛していた。
「愛情が薄かったからギルニデムは死んだのだ」
「見捨てて逃げた妻だ」
「見捨てたから、ギルニデムは殺されたのだ」
「戻れば、助かったかもしれないのに」
「多勢に一人で立ち向かって」
「おまえは見捨てて逃げた」
「それだけの愛情しかなかったのだ」
違う。違う。私は本当にギルニデムを愛していたのよ。本当よ。違う。見捨ててなんかいない。本当に。
まわりを見回す。皆が自分を見ている。薄明かりの中で、自分を指差している。
「おまえがギルニデムを殺したも同然だ」
「愛情がなかったのだ」
「見捨てたのだ」
違う。違う。
「違う!」
自分の大きな叫び声で目が覚めた。
見開いた目に緑色の瞳が映った。
「あ…」
涸れた声が自分の喉から出てくる。
「大丈夫ですか? うなされていたようだったので…」
優しい声が耳に響いてくる。身を起こして周りを見た。宿屋の一室。覗き込んでいたのはエフライムだった。他には誰もいない。誰も。すべて夢だったのだ。思わず嗚咽が漏れた。
「わ、私の…愛情が足りなかったから…って…。皆に責められて…」
沸いてくる強い感情に声が震える。
「ギルニデムが死んだのは…私のせいだって…」
後から後から涙が出てきた。違う…。見捨てたわけではない…。そう言いたいのに、どこかで言えない自分がいた。
ふわりと暖かいものを感じた。抱きしめられていた。エフライムの心臓の音がする。抱きしめられているという行為自体に戸惑いつつも、心臓の音はルツアに安心感を与えた。ぽろぽろと涙がエフライムの胸に伝わっていく。
「…私は…本当に…ギルニデムを愛しているのよ…」
身を切るような言葉にエフライムの優しい声が聞こえてきた。
「わかっていますよ」
優しく背中を撫でられる。その暖かい手を感じながら、ルツアはしばらく声を殺して泣いていた。
どのぐらいそうしていただろうか。ベッドの上で座り込んでルツアを抱きかかえていたエフライムは、ルツアが身体を離そうとしているのを感じた。背中にまわしていた腕を解く。
ルツアが顔を上げた。まだ目が潤んでいる。エフライムは胸元が冷たくなっていることに、ようやく気づいた。ルツアの涙の跡だった。
「ごめんなさい。みっともないところを見せちゃったわ」
ルツアは自嘲気味に笑ってみせた。
「いいんですよ」
ルツアがふと視線をそらす。そして苦しそうに顔を歪めた。
「本当に私は愛情が薄かったのかもしれないわ。ギルニデムを、あんな…あんなところに置いて…」
思わずエフライムはまたルツアを抱きしめていた。
「あなたがギルニデム様を心の底から愛していることを、僕は知っていますよ」
ルツアがはっとしたように顔を上げてエフライムを見た。エフライムの瞳がルツアの瞳に映る。
「僕はずっとあなたを見ていたんですから」
エフライムはすっと顔を落とすと、ルツアの唇に唇で触れた。ルツアは驚いて、両手でエフライムを突き放した。そして確認するように自分の唇に手を当てている。それを見てエフライムが微笑んだ。立ち上がる。
「大丈夫ですよ。今も昔もあなたの心にはギルニデム様がいる。僕の入る隙間はない。良く分かっています。でも、辛かったら言ってください。いつでも僕の胸をお貸ししますから」
エフライムは穏やかに微笑むと、そう言って衝立の向こうに戻って行った。ルツアはエフライムが立っていた場所を呆然と見ていた。
エフライムたちが出発してから一週間が過ぎた。その日、ハウトが馬の様子を見に馬小屋に行くと、ラオが旅支度をしている。
「何をしている?」
「アレスにはバルドルがいる。大丈夫だ」
「そういうことじゃなくて、どこへ行く気だ?」
「勅使だ」
後ろから人が近づく音がした。振り返るとアレスとバルドルが立っている。
「アレス…。どういうことだ? まだこっちの軍は全部そろっていないぜ?」
「タイミングの問題だ。今を逃すとあちらの城の守りが堅くなる」
怪訝そうな声音のハウトに対して、アレスではなくラオが答えた。
「僕も止めたんだけど…ラオがどうしても行くって言うんだ…」
アレスが自信なさげに答えた。その横からバルドルが足を踏み出し、ラオに書簡を渡した。
「降伏を促す書状じゃ」
ラオは黙って受け取り、そして馬に乗り上げた。
「行ってくる」
そう告げるとラオの馬が走り出した。その後ろ姿を三人は見送っていた。




