第11章 準備
二週間ほどして、ようやくエフライムが帰ってきた。深夜、バルドルの部屋に皆で集まると、エフライムは報告を始める。窓際のテーブルセットに陣取るバルドルとハウト、ハウトの横にはフェリシア。そしてカウチに座るアレスとラオ。ルツアは、カウチの横にあったオットマンに腰をかけている。エフライムは、テーブルセットにあった椅子をカウチの方にひっぱると、腰をかけて口を開いた。
「ハイネデル候は噂どおりの信心者ですね。信じている神様がちょっとどうかと思いますけれど」
「誰なんだ?」
意味ありげに言葉を濁すエフライムに、ハウトが尋ねる。
「主神ゼーザレス…」
「なんだ普通じゃないか」
「と、見せかけて、ルゥです」
「はぁ?」
ハウトが眉をひそめた。
主神ゼーザレスは、神々の王とされていて拝む人も多い。混沌としていた天と地を、その手と足で押さえて分けて、この地を作ったとされる神様だ。創造の神であり、秩序の神でもあった。
「ルゥって、エフライム?」
アレスが以前にエフライムが使っていた名前を思い出して尋ねる。
「ああ、ネレウスのときから、ヴィーザル王家では主神以外に対して重きを置いてないからのぉ。ルゥというのは、まあ、異性にモテる神様じゃの」
バルドルが代わりに答える。それを聞いてアレスはびっくりした。いっぱい神様がいることは知っているし、いくつか有名な神様はあちらこちらの神殿で拝まれているので、さすがのアレスも覚えている。しかし異性にモテる神様は、聞いたことがなかった。
「まあ、神話の世界では脇役ですからね、ルゥは。それに、その神話をアレスに教えたがる大人はいないと思いますよ」
エフライムが苦笑する。神話によると、ルゥはその美貌を元にして、独身の女神や精霊のみでは飽き足らず、他の神々の妻にも手を出して、あちらこちらで諍いを起こしている。どちらかというと、トリックスター的な役割の神だった。
「そんな神様の名前をエフライムは使っていたの?」
エフライムが肩をすくめた。
「ルゥには謎と運命を司るという一面もあるんですよ」
アレスとエフライムのやり取りを無視して、ハウトはフェリシアの作ったハイネデル候の城の見取り図を机に広げた。
「他に情報は?」
「毎晩、自室で祈っているようです。その時間に間違って邪魔をした召使は、ひどく怒られるそうですよ。あとは、ウクラテナの街に通っている神殿があります。ウクラテナの街の大神殿ですね。ゼーザレスが祭ってありますが、一緒に他の神々も祭ってあって、ルゥもいました。入り口のところの石柱に神々が彫ってあってね、壮観でしたよ」
そこで言葉切る。ハウトは、見取り図をじっと見ていた。
「ここがハイネデル候の居室だな」
指差した場所に対して、フェリシアが黙って頷いた。
「あと、ヴィーザル城から何らかの親書が届いたようですよ」
エフライムの言葉に、皆の顔に一斉に緊張が走る。
「内容までは把握できていませんが、ハイネデル候はそれ以降、浮かない顔をしているとか。ちょうどミスラ公からの親書の後のようですね」
「迷っているということかのぉ」
「そうかもしれませんね」
「返事をせずに迷っている間は、こちらにも勝算があるじゃろうな」
「そう願いますね」
バルドルとエフライムの会話も放ったままで、ハウトはじっと地図を見ていた。そして居室の脇にある細い空間を指差す。フェリシアも一緒に図面を覗き込んだ。
「こりゃ…逃走用通路か?」
「多分…。部屋から廊下を通さずに外に出ることができるわ。ヴィーザル城に張り巡らされていたものと同種のものよ」
「どこから出られる?」
「んん…。多分キャビネットか何かあったと思うけれど、それの裏だと思うわ。必要だったら見てみるけど…」
「そうだな。念のため確認しておいてくれ」
そしてラオを見た。
「おまえ…なんか変な声、出せたよな? 二人分喋っているような」
ラオがちょっと考え込んだ。そして咳払いをする。
「こういうことか?」
皆、一瞬目を見開いた。ラオの普通の声と一緒に、高い声がした。まるで二人が声を合わせて喋っているようだ。
「うわぁ。すごいね」
アレスの感嘆した表情に対してラオは顔をしかめた。そして二人分の声のまま喋る。
「異国の流民がやっていたのを真似したらできただけだ。異教の神への祈りの歌をこの声で歌うと言っていた」
「へぇ~」
ハウトは黙ったまま腕を組むと、そのまま天井を見上げた。
「うーん。詰めが足りないな…。ハイネデル候を説得するのに、もう一押し欲しい」
ぶつぶつと独り言のように呟く。それを聞いて、アレスの眼が光る。
「エフライムに説得してもらえば? エフライムだったら説得できるよ。きっと」
皆の視線がエフライムに集中する。
「アレス!」
エフライムが慌てたように、アレスを見た。
「え? 駄目なの? エフライムだったら、簡単に『うん』と言わせられるでしょう?」
「そういうことはペラペラと人前で言うことじゃないんですよ」
そう言いながらも、エフライムは心の中で口止めをしていなかった自分を責めた。
「どういうことだ?」
ハウトの問いにアレスがエフライムを見る。エフライムは俯いて片手を額にやった。しばらく沈黙していたが、目を覆っている手の向こうにハウトの視線を痛いほどに感じる。
観念してため息をつき、手を下ろし、顔を上げると目を開く。緑色の瞳に、ハウトの漆黒の瞳が映る。喋る前に、ふっと瞳の力を抜いた。穏やかな笑みが広がる。
「一言で簡単に言うならば…催眠術ですよ」
「おまえさん、まさか俺とのカードのときに…」
ハウトは思わず椅子から腰を浮かした。ハウトの見当違いな心配の仕方に、思わずエフライムは微笑んだまま首を振った。
「誓って言いますが、あなたにはやったことはありませんよ。あなただけではなく、アレス以外のここにいる人たちにはね」
「アレス様以外?」
ルツアが反応して、エフライムとアレスを見比べる。
「あ、僕は勝手にエフライムの眼を覗き込んで、かかっちゃったから。眼を見ちゃ駄目って言われていたんだけど…」
アレスの言葉に、エフライムはすっと眼を細めた。
「でも、すぐにエフライムが解いてくれたよ。一瞬くらっとしただけ」
安堵の息をついて、ハウトがどさりと椅子に腰をおろす。その音に皆からも緊張が抜けていく。
「そんなことができるんだったら、もっと早く言ってくれりゃあいいのに。いくらでも使い道があったぜ。いっくらでも、こき使ってやったのに」
にやりとハウトが嗤う。エフライムは心の中でほっとしていた。仲間たちが興味を持っているのは自分の能力と今の自分。過去は関係ない。それがエフライムに安堵感を与えていた。余裕が出てくる。
「だから嫌だったんですよ」
そう言って肩をすくめた。
「でもハウト。いくら僕でも、確実に意思がないことは説得できないですからね?」
「どういうことだ?」
「例えば、いくら催眠術をかけたからと言って、殺意の無い人間に人殺しをさせたりはできないっていうことです。対象人物の心の中に、迷いがなければ無理なんですよ。僕はそれをちょっとだけ押すことができる。それだけです」
ハウトはエフライムから視線を離すと天井を見た。腕を組んだまま黙り込む。しばらく動かなかったが、ふいにバルドルを見る。
「じいさん、アレスを一週間か十日ぐらい、ここから出せるかな? 今回の作戦にも参加させたいんだが…」
「ふむ…」
考え込むように、バルドルは白いあごひげを撫でた。
「なんとか考えてみよう。しかし、今、この時期にここを離れるのは得策ではないぞ」
「わかってはいるんだが…ちょっとじいさん、耳を貸せ」
バルドルの耳元で、ハウトが囁く。かなりいろいろと説明をしているようだ。バルドルは一瞬驚いたような表情をした後に、時々、なるほどとか、ほうとか、相槌を打っている。その様子を一同はじっと見ていた。
「なるほど…。それは確かにアレスがいるかもしれんなぁ」
「だろう? こればっかりはやってみなくちゃわからんが、多分、アレス以外は駄目だ」
「ねえ、何が僕以外は駄目なの?」
「ちょっと、二人だけでこそこそやっているのはずるいんじゃない?」
アレスとルツアが同時にハウトに強い視線を向けながら言う。ハウトはちらりとラオを見たが、そのまま答えた。
「今は駄目だ。直前になったら教えてやる」
アレスもルツアも不満そうな顔をしたが、横でバルドルが訳知り顔に頷いているので諦めた。
「ルツア、おまえさん、フェリシアに化粧の仕方を教えてやってくれ」
「え、ええ…そりゃいけど、化粧なんてしなくても、彼女は十分きれいよ?」
その言葉にハウトが素直に赤くなる。
「フェリシアがきれいなのは、俺も…いや、そうじゃなくて…。そういうことじゃないんだ」
ハウトが言いかけた言葉にフェリシアも赤くなった。ルツアが面白そうに二人を見ている。ハウトは咳払いをすると、落ち着いた声で続けた。
「ちょっと印象が変わるようにしたい」
「わかったわ」
「ということは、化粧道具が要りますね?」
エフライムの言葉にハウトは頷いた。
「それと黒とか茶色の髪のウィッグも」
「了解」
「あと…、エフライム、絵描きを探せるか?」
「お望みとあれば」
「じゃあ、頼む」
「了解」
「よし!」
ハウトが立ち上がった。
「こっちに来てくれ、城の見取り図が見える位置にな。作戦を説明する」
一同が、窓際のテーブルの周りに集まった。
説明が終わった後に、バルドルとルツアが呟く。
「今回は留守番か…つまらんのぉ」
「私だって、たまには重要な役をやらせてほしいわ。ハウト」
ハウトが肩をすくませた。
「ミスラ公を手なずけおくのも大事だぜ? それにルツアには俺がいない間に、あの武官達を使い物になるようにしておいて欲しいしな」
ルツアが諦め顔で答えた。
「わかったわ。でも…次回は絶対よ?」
「次回があったらな」
ハウトは皆の顔を見渡した。
「決行は二週間後。準備期間は約一週間だ。ぼやぼやしている時間はないからな」
やがて一週間の準備期間が過ぎ、いよいよウクラテナに向けて出発する日が来た。この日のためにアレスは病気を装い、バルドルの館で療養することになっていた。それにエフライム、ラオ、ハウト、そしてフェリシアが付き従うことになっている。ラオからもらった薬の効果で、熱があるかのように赤い頬と潤んだ瞳のアレスは、ガラディールから見れば、十分な病人だった。
「大丈夫ですかな? 陛下は」
馬車に乗り込むアレスを見ながらガラディールが言った。
「館の者がおるので、心配はあるまい。わしもついて行きたいのじゃが…。陛下の強いご希望で、ここに残ることになったのは残念じゃ」
バルドルは本当に心から残念だと思っていた。アレスに続いて、フェリシアも軽く会釈をして馬車に乗り込んだ。その周りに、ラオ、エフライム、ハウトが馬を連れてくる。エフライムがすっとバルドルの前で跪いた。
「では行って参ります」
「うむ。頼んだぞ」
その言葉を合図に、三人は騎乗し、馬車が走り始めた。その姿をバルドルとガラディール、そして少し離れたところからルツアが見送っていた。




