第10章 軍隊(2)
夜になってアレスはじっと一人の部屋で天井を見ていた。一人になるといろいろと考えてしまう。ミスラ公のこと、みんなのこと、そしてヴィーザルの王国を思い、父と母のことを思い出した。
無口でいつもじっとアレスのことを見ていた父親と、小鳥のようにおしゃべりをするのが好きだった母親。アレスが物心ついたときには、いつも母親が喋っていて、父親がそれを聞いているのが常だった。とは言っても、アレスの側にいたのはいつもルツアやバルドルであって、両親に会えるのは食事の時間と寝る前のわずかな時間だけだったのだけれども。
一度だけ、城壁の上から、お父様に抱きかかえられて領地を見たことがあった。あれはいくつぐらいの頃だったのだろうか。あまり記憶がはっきりしない。しかし言われたことは覚えていた。
この見渡す限りの領地が、いつかアレスの物になる。そう言われた。その時には意味が良く分からなかった。僕の物になるってどういうこと? そういう風に問い返した気がする。
治めるということだという返事だった。それでもっと分からなくなった覚えがある。今は…自分の物とは言えない領地。お祖父様とお父様が守ってきた国を荒らすわけにはいかない。その思いだけがアレスを支えていた。でも正直に言うと、王になるということは、どういうことなのか。あまりにも漠然としすぎて分からない。みんなが頭を下げてくれることだけは分かる。でもきっと、それが王様になるって言うことじゃないと思う。
何をしたら王様なんだろう。どうしたらいいんだろう。こんなときにお祖父様かお父様がいてくれたらいいのに。僕に教えてくれたらいいのに…。せめてお母様がいらしてくだされば…。暖かい膝の感触と、香水の匂いを思い出す。あまり抱きつかせてはくれなかったけれど、それでも美しい母親をアレスは誇りに思っていた。
思わず泣きたい気分になってくる。エフライムは泣いていいと言っていたけれど。でも、あまりにも痛い感情に、泣くこと自体が辛かった。
そろそろ時間だった。今晩はバルドルの部屋に皆集まる。フェリシアとハウトが同室になったから、気を利かせているのだ。仲間といる時間が楽しい分、アレスは一人の時間が辛かった。自分しかいないような気分になってしまって、すごく寂しい。
「誰かにいて欲しいなんて子供だよね」
口に出して言ってみる。誰からも返事がない。そう思った瞬間に泣きそうになって、あわてて涙を堪えた。泣く前に移動するほうがいい。長くて暗い廊下を一人で歩いていくのは嫌だったけれど。バルドルの部屋に行こう。そうすれば皆がいる。
そう思ってドアを開けたら、暗がりに誰か立っていた。
「ラオ…」
「護衛だ。迎えに来た」
ぶっきらぼうな口調にも、温かみが感じられて、思わずアレスは泣き笑いの顔になってしまった。嬉しくなってラオに抱きつく。ラオはちょっと驚いた顔になったが、そのままアレスがくっつくに任せて置いてくれた。振り払うでもなく、抱きしめるでもないラオの不器用さが嬉しくて、アレスは腕に力を込めた。
「来てくれてありがとう。ラオ。嬉しいよ」
「行くぞ」
声に感情は含まれていない。動き出したラオの顔は暗がりで見えない。それでも自分を気遣ってゆくっりと歩いてくれていることはわかる。アレスはラオにもう一度心の中で感謝して、一緒にバルドルの部屋へと向かった。
バルドルの部屋では、すでにエフライム以外のメンバーが揃っていた。ドアをあけて入ってきたアレスとラオにフェリシアとルツアが笑いかける。ハウトはすでにバルドルと話をしていた。
「いや、そんなもんじゃ無理だろう。もう徹底的にやらないと」
「それは困ったな。あまり時間はないじゃろう?」
バルドルの言葉に、ハウトが顔をしかめた。
「ああ。まあ、奴らが本気でやってくれることに、望みをかけるしかないな。多分、戦は避けられん」
アレスが首をかしげると、ルツアが横から説明してくれる。
「今日、ミスラ公が抱える軍隊の様子を見てきたんだけど、ひどいものだったのよ」
そういって肩をすくめた。フェリシアが横からくすくすと笑ってさらに補足する。
「うふふ。ルツアったらね、隊長を負かしてしまったのよ」
その言葉に、アレスは感心したようにルツアを見た。
「すごいね。ルツア」
「すごくなんかないわ。相手が弱すぎるのよ」
ルツアは憮然として言って、続ける。
「ハウトが大方の相手をしたんだけど、もう、みんな全然駄目。アレス様だって勝てると思うわ。あんなのでフラグドの街を守ろうなんて…」
その言葉に、ハウトがにやりと笑ってルツアの方を振り返った。
「それ使えるなぁ」
「どういうこと?」
「王であるアレスより弱かったら、ちったぁ本気で鍛えようって思うんじゃないかと思ってさ」
ハウトがニヤニヤと笑いながら言った。横でバルドルは考えるように白いひげを撫でている。アレスもハウトの言葉に考え込んだ。
「そういうものなの?」
「過去には王が強い例がいくらでもあるじゃろうがな、仮にも剣を持つ人間が今のアレスに負けたら、そりゃあショックじゃろうて」
バルドルもにやりと笑った。
「私に負けた男も結構ショックだったみたいですもの」
ルツアが付け加えるように言う。それを聞いてアレスは理解した。
「僕が小さくて、弱そうだから?」
ハウトが頷く。
「そして王だからな」
「王様っていうのは、意外に弱いものと相場が決まっているものね」
「ネレウスは強かったぞ」
最後にバルドルが混ぜかえした。
「本当に僕の方が強いと思う?」
ルツアが笑顔になった。
「まあ、そこそこはいけると思いますわ。でもこればっかりはハウトに見てもらったほうがいいでしょうね」
ハウトがバルドルを見る。
「明日、どっかで時間がとれるか?」
「午後なら大丈夫じゃろうて。剣の練習をするといったら、ガラディールはついて来んじゃろう」
ハウトが頷いて、アレスを見た。
「よし、明日の午後、俺が稽古をつけてやろう。その後だな。いけそうだったら、軍隊の連中と手合わせだ」
「いいの? ハウト。バルドル?」
思わず言葉が弾んでしまう。今日の午後にミスラ公から逃げられただけでも幸運だったと思っていたのに、明日も稽古という名目で逃れることができるとは。しかも、もしかしたらその先も、午後だけは稽古になるかもしれない。そう思うと、アレスは自然と顔がほころんでしまった。
あまりにも率直なアレスの感情表現に、バルドルは苦笑した。ふと見るとラオも笑みを浮かべていた。ネレウスやフォルセティと面影が重なる。宮廷政治よりも馬術や剣術を愛した男。そしてそれに影のように付き従っていた友。
バルドルはちょっとだけ眼を潤ませると、アレスに頷いて翌日からの剣の稽古を認めたのだった。
それからエフライムが戻ってくるまでの数週間の間、アレスの午前中はバルドルと共にミスラ公の相手をし、午後はハウトやルツアと共に剣の稽古をするという日課が続いた。
実際に若い武官と手合わせをしてみたところ、アレスはなんとか勝ってしまった。余裕で勝ったという感じではなかったが、勝ちは勝ちだった。
そしてそのアレスに剣を教えたのがルツアだとなると、俄然ルツアの株は上がった。さらに最初は王自らが練習に加わるということで緊張していた武官たちも、アレスの素朴な人柄に触れて、やる気を増したようだった。さすがにハウトもルツアも人前では、アレスのことを陛下と呼び、礼を取っていたが、稽古の厳しさでは当然分け隔てがなく、それが返ってハウトとルツアが一目置かれる要因となった。
「本当にハウトって強いんだね」
稽古が終わった後でハウトが井戸の傍に行くのを見つけ、アレスは気安く横に並んで歩いた。城の人間がアレスに気づいて会釈をしていく。アレスとハウトの後ろを少し離れてラオが付き従っていた。ハウトはちらりとアレスを見た。
「城内ですよ。陛下」
ハウトが含みを持たせた視線で見る。アレスははっと驚いたような顔をして「ごめ…」と言いかけて、さらに黙り込んで顔を赤くさせた。その様子をハウトはまじめな表情で見ている。しかし漆黒の瞳は笑っていた。そして後ろにいたラオを見る。
「ラオ、陛下には俺が夕食の席までついているから、おまえさんは休んできていいぞ」
ラオは軽く目を見開いたが、そのまま頷くと背中を向けて城の中へと消えていった。まじめな顔をして、ハウトと共に歩いていくと井戸が見えてきた。この裏庭には誰もいないことを確認して、アレスはほっと息を吐き出す。それでも気を使って、小声でハウトに話しかける。
「小声の方がいいよね?」
「そういう話し方をするならな。意外にこういう場所は声が響くからな」
ハウトも同じく小声で返事をすると、井戸のつるべに手をかけた。するすると桶を下ろしていく。
「疲れちゃった」
「剣の稽古がか?」
ざぱん。水に桶が浸かった音が遠くで聞こえる。
「ううん。稽古は、身体が疲れるけどね。心が疲れている感じ」
「そうか。王様ごっこも大変だな」
「そうだね」
きゅっきゅっと滑車の音が聞こえてくる。
「でも本当にハウトは強いねぇ。槍を使っているときなんて、槍が生きているみたいだったよ」
ハウトはにやりと笑った。
「ラオとやりあうには、距離が必要だったからな」
「どういうこと?」
「あいつ、手を遣わずに人を投げ飛ばすからな」
「そんなこともできるんだ…。でもラオだったらできてもおかしくないね」
「そうだろう? まあ今まで俺以外の人間に披露するチャンスは無かったみたいだがな」
桶が井戸の淵まで上がってきた。ハウトが手元の桶の方に水を入れ替える。そして腰に提げていた袋から砥石を出した。それを水が張られた桶に入れる。アレスはその手元をじっと見ていた。
「最初は触られなきゃ大丈夫だったんだ。触られると、いきなり身体が重くなって動けなくなる。だから触られないように、剣ぐらいの長さの棒であいつを叩いていた」
「えっ!」
「ガキの頃のけんかだよ。兄弟げんかみたいなもんだ。最初は取っ組み合いをしてたんだが、触られると終わりだからな。だから棒を使ったんだ」
ハウトは腰の剣をはずすと水をかけ、桶の中に手を突っ込んで砥石を水から出すと、ゆっくりと刃を研ぎ始める。
「そうしたら今度は、その距離では突き飛ばされるんだよ。まるで見えない手が在るみたいに。だからもっと長い棒、長い棒とやっているうちに、だんだん長い棒を使うのが得意になっていったっていうわけさ」
しゃっ、しゃっと軽快な音がハウトの刃からしてきた。
「別に意識して槍を練習していたわけじゃない。俺にとっては、ラオとの兄弟げんかの延長だ。さすがにけんかしているって言ったって、致命的なところを突いたりするわけにいかないからな。そりゃ、気を使って背中とか尻とか叩くわけだ。それも怪我しないようにしてな」
しゃっ、しゃっ。
「ほとんど毎日そういうことばっかりやってたんだぜ? あいつを相手に。ガキの頃は、けんかのネタなんていくらでもあったからなぁ。俺も負けん気が強かったし、あいつも口数は少ないくせに憎たらしいことを平気で言うからな」
ハウトが顔をあげて、アレスの方を見ると顔をしかめた。その表情がおかしくて、アレスはつい吹き出してしまった。
「なんかわかる気がするよ」
「だろ? あいつの場合は、見えない三本目の手があるようなもんだからな、そんなやつ相手に毎日けんかしてみろ、そりゃあ、強くもなるさ。しかもやっているうちに、あいつもどんどん強くなるんだぜ?」
しゃっ、しゃっ。また俯いて刃に水をかけつつ、砥石で研ぐ。しゃっ。しゃっ。その軽快な音がふと途切れた。
「物心ついたときから一緒にいるから、俺の腕っ節が強いように、あいつはそういうことができるだけだと思っていたんだが…。でもあいつの力は特殊だったんだよな。そう考えると、あいつをマギにしちまったのは俺だと思うんだよな…」
しばらく手が止まり、それからまた刃に砥石が走り始めた。軽快な音が戻ってくる。アレスは俯いたままのハウトに微笑みかけた。
「ラオがさ」
「ん?」
「ラオの力を引き出したのは、ハウトだって言っていた」
音が止まる。
「でもね、それで良かったって。遅かれ早かれ、きっと力には気づいていただろうからって」
風が吹いて、ハウトとアレスの髪を少しだけ揺らした。
「ラオは、ラオの力がハウトの役に立っているようで良かったって言っていたよ」
しゃっ、しゃっと音が返ってきた。ハウトは刃を見てうつむいてしまっているので、その表情はわからない。しばらく黙って傍に立っていると、ハウトが顔をあげた。表情を隠しているのでよくわからなかったが、すくなくともマイナス感情じゃないとアレスは思った。
「アレス、おまえの剣も出せ。研いでやるから」
「うん。ありがとう」
アレスは剣を渡すと、それも器用に研いでいくハウトを黙って見ていた。




