第8章 忠誠を(3)
その夜、アレスは真剣に祈った。自分の役割が要になることはわかっていた。
「お祖父様。どうか僕を助けてください」
何も起こらない。思わず背中越しに自分の後ろを見る。いくらお祖父様だとしても、自分の後ろに立っていられたら、嫌だな…と思いながら。
振り返っても誰もいなかったのでほっとする。
そしてアレスは苦笑してしまった。いなければ助けてもらえない。でもいたら怖い…。小さなため息を一つついて、諦めたようにアレスはベッドに横になった。すぐに眠気が押し寄せてくる。
夢の中で、アレスは城の廊下を歩いていた。いや、歩いている自分を見ていた。正装で颯爽と歩いている自分に対して、次々と城の者がお辞儀をしていく。アレスは大人になっていた。向かっている場所は見覚えがある。謁見の間だった。
ドアを開ける。中には、かなり若いバルドルと、ラオがいた。謁見の椅子の傍で待っている。その前には多くの大人たちが傅いてアレスを待っていた。二人に頷いて、アレスは椅子に座る。すかさずバルドルがアレスの頭に王冠をのせる。アレスは苦笑して、小声でバルドルに囁く。
「重いし、落としそうでひやひやするよ」
そういうアレスの声は、実際の自分の声よりも少し大人びていた。
「仕方ないでしょう。王として会うんだから」
バルドルがその言葉に苦笑し、やはり小声で答える。こちらはかなり若い口調だ。城のものが来て、ガラディール様がいらっしゃいましたと告げる。三人の顔はまじめな顔になった。
細長い部屋の中で、椅子とは逆の方向にある扉が開いて、やはり正装した男が入ってくる。見たことは無い人なのに、なぜかアレスには誰だかわかっていた。ミスラ公。ガラディール。今から謁見する相手だ。長い絨毯を歩いてくると、アレスの前で立ち止まり、跪いた。
椅子に座っていたアレスが立ち上がる。その頃になって、ようやくアレスを見ているもう一人のアレスは気がついた。あの椅子に座っている人物は自分ではなくて、ネレウス王であることに。
「ガラディール。我が王家に誓った忠誠は今も誠だろうか?」
ネレウス王は、ちょっと首をかしげるようにして、跪いている人物に言った。アレスよりは若干薄い茶色の澄んだ瞳が、ガラディールを見ている。
「我に忠誠の言葉を。ガラディール」
ネレウス王はじっとガラディールと呼ばれている人物を見つめている。そして人物の前まで来ると、その手を差し出す。ガラディールは、その手を軽く握り、その指にはまっていた指輪に唇をつけた。
「ネレウス王に忠誠を誓います」
その言葉にネレウス王が満足そうに頷く。
「ガラディール。そなたを公爵位に任じる。フラグドをよろしく頼む」
ネレウスはそういうと、踵を返して、玉座に戻った。そして、バルドルとラオ…多分フォルセティを連れて謁見の間を後にした。その間、ガラディールはそのままの姿勢をとり続けていた。
そこで、はっとアレスは目が覚めた。
「お祖父様…」
いてもたってもいられなくなって、アレスはベッドを出ると、ラオの寝室に向かった。そしてドアを叩く間もなく開く。ラオはまだ起きていて、窓際のテーブルセットの椅子に座り、ワイングラスを片手にじっと外を見ていた。そしてドアをあけて入ってきたアレスを見て、事態を理解しているかのように薄く微笑む。
「ラオ、今ね、今ね」
慌ててしまって言葉が出てこないアレスを、ラオは椅子に座るように身振りで示した。
「落ち着け」
アレスは慌てたままラオの前の椅子に座った。
「ネレウス王が来たのだろう?」
「えっ? そうなの?」
アレスが驚いたように言う。ラオが頷いた。
「騒がしい空気が伝わってくる。すでにこの世のもので無い者がその存在を示すときには、こういう空気を感じる」
ラオは静かに言った。
「ラオが呼んだんじゃないの?」
アレスの言葉にラオは苦笑した。
「おまえもハウトのようなことを言う。俺にそんなことはできん」
ラオはテーブルの上にあるワインを取ると、アレスに注ごうとして、その手が止まる。
「おまえにはこっちの方がいい」
部屋に備え付けの棚から、別なビンを出してくる。テーブルの上のワインと同じ赤い色をしていたが、若干薄いようだ。
「ワインをぶどうの絞り汁で割ったものだ」
そしてアレスの前にグラスをおいて、それを注ぐ。ビンをテーブルに置き、自分もグラスを手にした。先ほどから飲んでいたワインの残りが、グラスに入っている。
「おまえたちに見えない者達は、いろいろな方法で働きかけようとしている。その一つが働いたに過ぎん」
ラオがぼそりと言った。
「それで何があった」
ラオはアレスを見た。早く状況を話したくて仕方が無いという表情で、アレスの瞳がキラキラと光っている。
「お祖父様がミスラ公に聞いて、フラグドをよろしくって」
まるで早く言わないと言葉が消えてしまうかのように、一息でそう告げると、アレスは満足そうにラオを見た。一方で聞いたラオは少し下を向いて、額を指で掻くとため息をついた。どうも急ぐとアレスの言葉は短くなってしまって、言いたいことが不明になる。
「全然わからん。もっと状況を説明してくれ」
ラオの言葉に不満げな表情をしたものの、アレスはちょっと考え込むようにして言葉を選んで話し始める。
「城の謁見の間だったの。若いバルドルとラオがいて、僕を待っていたの」
「俺が?」
「うーん…多分、ラオのお父様だと思う。でもそっくりだったよ」
「それで」
「それで、椅子に座っていたら、ミスラ公が来たの。それで、僕が立って…多分、僕じゃなくてお祖父様だと思う。でも、僕が大人になったらあんな感じかなっていう感じで、最初僕だと思っていたの」
ラオは黙って頷いて、先を促した。
「それで、立って…『ガラディール。我が王家に誓った忠誠は誠か?』あ、ちょっと違うな。『今も誠だろうか?』って言っていたよ。こんな感じで首をこうして」
アレスは、夢で見たとおりに首をちょっとかしげて見せる。
「それから、『我に忠誠の言葉を。ガラディール』って言って、こうやって手を出して」
アレスはまた真似して見せる。
「そうしたら、ミスラ公が手にキスしたの。正確に言うと、指輪にしていた。で、フラグドを頼むってお祖父様は言っていたよ」
アレスがようやく喋り終わってにっこりとした。ラオが考え込む。
「使えそうだな。ここから先はハウトの領域だ」
アレスが不思議そうな顔をする。その視線に気づいて、ラオは苦笑した。
「昔からハウトはいたずらの天才でな。俺があいつに術をかけるもんだから、あいつはそういう知恵ばっかり回るようになった」
アレスが目を見張る。ラオはその表情に話をする気になったらしい。ワインを喉に流し込むと、口を開いた。
「あいつと俺は、ほとんど兄弟みたいなもんだ。物心がついたころには、すでにあいつは俺達の家に家族の一人としていた。幼い頃はしょっちゅうけんかばかりでな。年が近いせいもあるし、お互い負けん気が強いせいもあって…。だが、昔からあいつは腕っ節が強くて、俺なんか敵う相手じゃない。それで俺は俺が持っている能力を使った」
ふっと唇に自嘲気味の笑みが洩れる。
「こういう力が他人には無いものだとは気づかずにな」
ワインがまた一口、流し込まれる。
「この前見せた金縛りなどは、最初にハウトにかけた術だ。あいつが殴りかかってきたから、あれであいつの動きを止めてやった。そうやって俺はどんどん自分の能力に磨きをかけたわけだ。あとでマギと呼ばれて恐れられるとは知らずにな」
一気にワインを飲み干す。少し酔っているようだ。薄明かりにも耳と首の周りが赤くなってきているのが見える。アレスは恐る恐る自分の中に生まれた疑問を口に出してみる。
「後悔しているの?」
ラオは、その言葉に驚くようにしてじっとアレスを見た。そしてワイングラスを眺めるかのごとく視線を落とす。すこしうつむいた顔から、ぼそりとした声が聞こえた。
「どうだろうな。ハウトがいても、いなくても、俺はこういう能力を自覚して使っていただろうな。だが、きっかけはハウトだった」
しばらくラオが黙り込んだ。アレスは自分のグラスを少しずつ飲む。ちょっとだけアルコールが回って、身体が温かくなってきている気がする。ふっと唇に笑みを浮かべて、ラオは顔をあげてアレスを見た。
「後悔はしてないな。むしろきっかけがハウトで良かった。きっと他の奴だったら憎んでいるだろう。だが、あいつは憎めない。血は繋がっていなくても兄弟だしな」
ラオは微笑んだ。
「俺は、こういう能力であいつの役に立てることを嬉しく思っている…」
それを聞いた瞬間に、アレスは嬉しくなった。なんだか知らないけれども、自分が知っているラオがそこにいる気がした。自分の顔いっぱいに笑みが広がっているのがわかる。それを見てラオがさらに目を細めた。
「ハウトはいい奴だと思うだろう?」
ラオが言う。アレスは身体全体を使って頷きたい気分になる。
「うん!」
「俺もそう思う。だからこれでよかったんだと思う。あいつやフェリシアを守る力がある。最近はその人数がちょっと増えた気はするが…。力があるなら使えるほうがいい」
自分に言い聞かせるように言ってから、ラオは空のグラスをもて遊んでいた。
そうしてこの翌日、アレスは皆に、自分の見た夢の内容を伝えた。ハウトが最後まで聞いて宣言する。
「よし、これを再現しよう。細かく再現してくれよ。アレス」
こうして作戦は始まったのだった。そして決行の日の当日、エフライムとルツアを先頭に、館の者は街に行き、あちこちの街角で聞こえよがしに話をした。
「アレス王がミスラ公の居城で即位なさるらしい」
「アレス王って?」
「ネレウス王の血を引く方だ。良い王様になりそうだ」
「それは楽しみだ」
「しかも、今日行くと振る舞い酒がもらえるぞ。花火の合図が上がるそうだ」
「それは行かないと」
「ああ。午後からだからな。昼を食べ終わったら行ったほうがいいぞ」
口伝えに、アレス王の即位と振る舞い酒の噂が流れていく。なぜ首都イリジアではなく、このフラグドで即位するのか。納得できない点はあったが、なんらかの政治的な配慮だろうと、民衆はあまり気にも留めず、一番の関心事は新しい王と振る舞い酒だった。そして花火が鳴ったところで、民衆は一斉にミスラ公の居城に集まったのだった。
何かあったときのためにカーテンの陰に控えながら、ハウトはバルコニーから下を覗いた。バルドルの館のものが、建物の影に花火を用意している。その様子を確認すると、ハウトは満足そうに頷いた。
もしもミスラ公が忠誠を誓わなかったら…そのときにはハウトが飛び出て、力づくでミスラ公の身柄を確保するしかない。
そして、もう一人。人知れず城内を走っている者がいた。それはフェリシアだった。人がいない廊下を選びつつ、城の塔に上がっていく。王の旗を翻すために…。
民衆の中には、街角で噂を流していたルツアと屋敷の者達がいた。二発目の花火の合図を待っている。それが来たら、今度は民衆にアレス王の誕生を叫ばせなければならない。
広間では、アレスがミスラ公を待っていた。頭の上の王冠が気になる。ふと思い出して、傍にいたバルドルに小声で話しかけた。
「重いし、落としそうでひやひやするよ」
ネレウス王が言っていた言葉をそのまま唇に乗せる。その言葉にバルドルは驚き、そして懐かしそうな、悲しそうな目をし、最後に微笑んだ。
「しかたないでしょう。王として会うんだから」
思ったとおりの言葉が返ってきたところで、アレスはかすかに微笑んだ。バルドルの目のふちが心なしか光っている。そうしているうちに足音が聞こえた。前を向くと、年をとった男が呆然とした面持ちで立っている。夢で見たミスラ公が年をとってそこにいた。アレスはお祖父様を思い出した。毅然と、そしてまっすぐに見る瞳を。
「ガラディール。我が王家に誓った忠誠は今も誠だろうか?」
首を少しかしげる。なんども練習してきたことだけに、すっと台詞がでてきた。意外に落ち着いている自分に、自分自身で驚く。声も意識して低めに出した。大丈夫。ここまでは指も声も震えていない。
ガラディールの口からお祖父様の名前が漏れる。
「ネレウス王…」
そして跪く。
アレスはその様子を見ながら、ミスラ公の傍に寄った。意識してゆっくりと歩く。焦らず、慌てず。ここまでは大丈夫。昼の光の中で、アレスの髪と瞳がいつもよりも薄い色を見せていた。
「我に忠誠の言葉を。ガラディール」
自分の声が耳に残る。手を差し出した。そしてミスラ公の眼を見る。まっすぐに。
「あなた様は…」
ガラディールが呟いた。一瞬アレスは焦ったが、その焦りを顔に出さないように気をつける。何か問われたらバルドルが答えることになっていた。後ろから声がしてくる。落ち着いて余裕さえもあるバルドルの声だ。
「正統なる王の継承者。ネレウス王の血を継がれるもの。アレス王じゃ」
アレス王…なんとなくしっくりとこない呼び名。だが今は王様としてここにいるのだから…。ガラディールの眼がアレスの視線を捉える。アレスはゆっくりと頷いた。
その頷きを見て、ガラディールの背中が丸まっていく。前かがみに、アレスの手の上にかがみ込むように。そしてアレスは指の付け根に何かが触れるのを感じた。
「アレス王に忠誠を…誓います」
囁くように、しかしはっきりとした声が聞こえた。アレスは首だけ動かしてバルドルを見る。バルドルが片手を上げた。それをハウトが捕らえてバルコニーの下に合図を送る。
次の瞬間に二発目の花火が鳴った。その音に合わせて、塔の上から獅子と一角獣の意匠を凝らした王の旗が翻る。そして民衆の中から、示し合わせた者が一斉に叫んだ。
「アレス王! ばんざい!」
最初は一人二人だったが、そのうちに全員が叫ぶ。そして、エフライムが酒蔵から酒を出してきて皆に配り始めると、歓声があがる。アレスはゆっくりとミスラ公と共にバルコニーに出た。そして驚く。多くの人が集まっていて、皆口々に自分を称えている。軽く手を振った。お父様やお母様と一緒に城のバルコニーに立ったときのように。あのとき聞こえていたのは、父グリトニル王に対するものだったけれど、今は自分に対する声が聞こえている。アレスはそれを思うとぼーっとしてきた。この日のことはきっと忘れられない。
隣でガラディールの呆然とした声が聞こえる。
「これは一体…」
そしてバルドルの落ち着いた、かすかに笑いを含んだ声が聞こえてきた。
「今日、この場からアレス王の御世が始まるということじゃ」
こうして、アレス王が誕生したのだった。
イラスト:青魚 様




