いつの日か(9)
翌朝の食事の時間に神殿長から、大神殿からの馬車が午後に来るということが告げられた。失礼が無いようにとだけ告げられて、何をしにくるのかを告げず、皆に気づかれないように、そっとリーザに向けられた神殿長からの視線は、できるだけ静かに送り出してあげようという配慮だったのだろう。しかし食事が終わっても神官見習い達は、食堂に残ったままで大人も子供も含めて、迎えだという推測の上で誰が大神殿へと行くのか興味津々にお互いを探りあっていた。
コリンとアニーはエリスを見て、声をかけるかどうするか落ち着かない様子だ。エリスはいつもと変わらない様子を見せていた。リーザは自分が行くのだと言えずに、いつもにまして黙り込んでいた。自分の部屋の荷物は大したものはなく、すでにまとめ終えている。それでも自分が大神殿に向かうのかと思うと信じられない思いだった。
エリスが行くというのであれば、皆が納得したに違いない。しかし行くのはリーザなのだ。リーザ自身ですら納得できないことを、誰が納得するだろうか。
「エリス、エリスが行くんでしょ?」
とうとう我慢できなくなったアニーがエリスに声をかけた。エリスがじっとアニーを見つめた後で、静かに首を振る。
「いいえ。私ではないわ」
そう答えた瞬間に、周りからざわめきが起こった。皆、エリスだと思っていたのだろう。そうではないと知って、次々に「お前か?」「いや違う」という会話があちらこちらで交わされ始めた。
「エリスじゃないってどういうこと? じゃ、お前? アニー」
コリンが軽い調子でアニーに問いかけ、アニーが「まさか」と答えてから、二人の目がリーザに向かった。
「リーザでもないわよね」
アニーの言葉にリーザは思わず俯いた。その様子にアニーの目が見開かれ、驚愕に口が大きく開く。
「うそ…」
「お前?」
コリンの大きな声に食堂に残っていた見習い達が一斉にリーザの方へと振り返った。多くの自分を見つめる目は、決して温かなものではない。なぜお前が? 不信、疑惑、羨望、嫉妬、色々なものが混ざった視線が痛い。リーザは後ずさりながら、助けを求めるように視線をさ迷わせた。
助けて。誰か…。リーザの視線が思わずエリスへと向かう。大人びて落ち着いた尊敬できる友人。彼女なら…。
しかしリーザに対して、エリスが見せたのは冷たい視線だった。
「行きましょう。ここにいても仕方ないわ」
「ま、待って」
リーザはエリスに向かって手を伸ばした。せめて自分の意志で行くのはないとわかってもらいたい。その一心だった。その手がエリスに届く前に、アニーが払いのける。
「どうやって取り入ったか知らないけど、あんたなんかが大神殿に行っても苦労するだけよ。馬鹿ね」
「そういうズルをすると思わなかったよ」
コリンが怒りを含んだ冷たい声を出し、リーザに背を向ける。
「違うの。違う。わたしっ」
エリスが大きなため息と共に振り返った。リーザは頬を伝う涙を拭うこともせずに、エリスを見上げる。しかし彼女は全てを押し殺したように無表情で、瞳は氷のように冷やかだった。
「あなたがどのような手を使って選ばれたかなんて、聞きたくもない。耳が穢れます。今まで良き仲間だと思っていたのに…。見損なったわ」
誤解だと叫びたかったが、エリスだけではなく部屋の皆が向ける視線に、リーザの喉は麻痺したように動かなくなってしまった。凍りついたように涙だけ流すリーザにエリスは軽蔑を視線に込めると、再び背を向けて立ち去った。それに従うように食堂から人々が消えていく。
「違うの…。違うの…」
リーザの嘆きは誰にも聞き取ってもらえなかった。
「おまえさんがリーザかね?」
声を掛けられて、俯いていてばかりいたリーザはようやく顔を上げた。目の前にいたのは白いあごひげに細い目をした老人だ。頭の毛はすべて顎に行ってしまったのかと思えるほど、見事につるつるとした頭だった。思わず見惚れていると、再び同じことを尋ねられる。
「は、はい。リーザと申します」
返事をしたにも拘らず、そのまま目の前の人物はリーザをじっと観察している。リーザは居心地が悪くなってもぞもぞと手を動かしたり、足を動かしたりしてから、目の前にいる人物が大神殿の偉い人だということに気づいて、再び身体を緊張させた。
それを見たとたんに、老人の細かった目がますます細くなる。
「なるほど。普通の子じゃな」
自分の言葉に自分で納得するように頷いた後で、再びリーザをじっと見つめてきた。
「わしはイエフ・シャインという」
「イエフ…シャイン…シャイン総司教様?」
まさか大神殿の一番偉い人と会えると思えなかったリーザは慌ててしまって、思わず身体のバランスを崩したところを、イエフに支えられた。細い外見からは想像できない力強い手に支えられても、思わず足が震えてしまう。大神殿の奥に案内されたのだから、それなりに偉い人なのだろうとは思っていた。しかし自分のような何の身分もない者に会ってくれるのであれば、神官か、神官長、どんなに想像しても司教までだった。まさかその上のさらに遥か上の人が出てくるとは思わない。
「まあ、そうじゃの。総司教じゃ」
あっさりと肯定されて、リーザはなんと言ってよいのかわからず、口を開きかけて再び閉じた。気の効いたことは言えないばかりか、下手なことを言って怒らせてもいけない。神殿で礼儀作法を教えてもらったとはいえ、大神殿の一番偉い人と話せるほど、卒なくこなせるとも思えない。硬直したままでイエフに向き合うリーザに対して、イエフは微かに笑った。
「なるほど。まったく普通の娘じゃな」
その言葉にリーザはさらに身を硬くし、視線が足元を向いてしまった。場違いも甚だしいのは自分でも理解していることだが、それを確認されるように指摘されてしまった。自分で決めたことではないのに責められたように感じて、やるせない気持ちが高ぶり、視界が滲み始めるのをぐっと堪える。
「気にせんでいい。普通じゃから、お前さんに来てもらったんじゃ」
イエフの言葉の意味が判らず、リーザは顔を上げた。目の前には変わらず、自分を見ている老人がいる。しかしその雰囲気は先ほどよりも柔らかなものになっていた。




