いつの日か(8)
一生懸命諦めようとして、それでもぽろぽろと涙が零れ落ちてしまう。いくつかが地面まで落ちたときに、アレスが気づいた。
「リーザ? どうしたの?」
リーザの顔覗きこんでから、慌てたように視線を足元から頭の上まで走らせる。
「もしかして怪我した?」
リーザは泣きながら首を振った。アレスが守ってくれたからどこも痛くない。痛いのは身体ではなくて胸なのだが、言葉が詰まって出てこない。
「リーザはお城に来るのは嫌?」
思ってもいなかったアレスの言葉にリーザの涙が止まる。
「いいの?」
「何が?」
「お城に…わたし…」
「リーザが嫌じゃなかったから、おいで」
今度は嬉しくて涙が出てくる。
「嫌なの?」
慌てて首を振った。
「うれしい…」
なんとか声を絞り出せば、涙で滲んだ視界の中でアレスが優しく笑ってくれた。
ところがマリアと一緒に城へ勤めるという話は、イリジアの城についたところで怪しくなってしまった。城を仕切っているという人の良さそうなおじさんが、リーザを見て困った顔をしながら説明してくれたところによると、城で働けるのはこの国での成人である十五歳以上の者だけなのだ。あと5年、リーザには足りない。
結局マリアは城で働くことになり、リーザは城ではなく神官見習いという身分を与えられて神殿へと預けられた。イリジアの中でも街の外れにある小さな神殿に住み込むことになったのだ。
今まで知らなかった文字を習い、本を読むことを教わり、数字で物事を管理する術を教えられた。神官としての礼儀作法は厳しかったが、それすらもリーザにとっては楽しかった。誰もリーザを打つことも蹴ることもなく、質素とはいえ毎食食べることができ、安心して眠る場所があるのは幸せなことだった。何を教えられても素直にリーザは覚えていった。
一緒に学ぶ友達もできた。リーザよりも2つ年上で、何事もそつなくこなすエリス。リーザの同じ年で、やんちゃなコリン。一つ年下でおしゃまな女の子、アニー。他にも神官見習いの者たちはいたが、リーザと年齢が近かったために仲が良かったのはこの3人だった。内気なリーザに手を差し伸べくれて、分からないところを教えあった。神官見習いが学ぶのは文字や数字だけではない。神々へ捧げる聖歌を覚え、聖典を暗記することも大事な勉強だった。聖典に書かれた一文一文を聖句と呼び、暗記している聖句が多いことは誉れであり、神官の義務だった。一人前の神官となるためには、聖典を一冊丸々諳んじる必要がある。その点でエリスは神官見習いたちの中で一番良く覚えていた。エリスよりも年上神官見習い達が暗唱するよりも多くの聖句を暗唱できたのだ。
年若くして聖典が暗唱できるものは優秀だと見られていた。そして優秀な者だけが、地方の神殿から大神殿の神官見習いになることができる。
「きっとエリスは大神殿の神官見習いになるよ」
そういうコリンに対して、アニーが人差し指を立てて細かく振った。否定の動作だ。
「エリスが神官見習いで終わるわけないじゃない。エリスだった神官長にも司教にも、司教長様にもなれるわ」
アニーの言葉を聞いてもエリスは静かに微笑むだけだった。
「神様のお導きがあれば」
そう言うだけだ。決して奢ったりしないエリスに対して、リーザは尊敬の念を抱いていた。いつかエリスのように落ち着いた女性になりたい。奢らず高ぶらず、みんなから尊敬されるような人になりたい。そう思った。
それから二年後、リーザは神殿長の部屋へ人目を避けるように呼び出された。神殿の長は神殿長と呼ばれるが、この小さな神殿の神殿長の階位は神官で、年も三十を過ぎたばかりの年齢であり、田舎ならともかくイリジアにある神殿の神殿長として若いと聞いたことがあった。それだけ優秀だと、神殿に通う大人の信者達はよく噂している。その神殿長はいつもは柔和な顔をし、滅多なことでは怒らない温和な性格で知られている。しかしこの日は、なぜか顔が厳しくなっており眉間に皺を寄せていた。
「お呼びでしょうか」
おどおどと声をかければ、神殿長は大きくため息をついて、眉間の皺を消してから口を開いた。
「明日、大神殿から迎えがきます」
「あの…それはどういう意味でしょうか」
言われている意味が分からず問い返せば、神殿長は困ったような表情をしてリーザに視線を合わせるようにしゃがみ込んできた。十二歳になったとはいえ、リーザは女の子の中でも小柄で、背が高い神殿長の前では首が痛くなるほど上を向かなければならない。
相手がしゃがみ込んでくれたことで首を反らせる必要はなくなったが、逆にリーザの不安は募っていた。
「総司教様がお呼びになっているそうですよ」
思わず何度か瞬きをして正面に位置した神殿長を見つめるが、冗談を言っているわけではないらしい。
「大きな神殿には色々な人が集まっているから、引っ込み思案のあなたが大神殿に行くのは心配です。それでもこれはチャンスでもあります」
リーザの中では、大神殿はエリスのように何でもできる人の行くところだった。リーザはまだ聖句を全部覚えていないし、エリスのように綺麗な声で聖歌を歌うこともできない。たまに歌詞を忘れていたり、音を外したりしてしまうことすらある。そんな自分が、大神殿に行って何をするというのか。
「大神殿には私の友人もいます。リーザのことはお願いしておきますから。がんばってごらんなさい。どうしてもダメだと思ったら、いつでもここへ戻ってきて良いですから」
そういうと神殿長は、リーザを行きたいとも行きたくないとも言わさずに、部屋へと戻してしまった。




