いつの日か(7)
アレスの声に、エフライムも振り返る。アレスだけではなく彼もこの武人と知り合いのようだ。気安い調子で声をかけた。
「来るのが遅いんですよ」
「ちょっと遅刻じゃの」
のんきなやり取りをしている場に、ラオとマリアが一緒に歩み寄ってきた。それにつられるように、蒼白になった領主が馬の前に立ち、馬上の武人、バルドルを睨みつけた。
「わが領土に進入してくるとは何者だ!」
きらびやかだった領主の洋服は汚物で汚れ、周りの兵たちの戦意は喪失している中で、足が震え声も震えていた。それでも精一杯の虚勢を張っている領主を、バルドルは馬上から見下ろした。
「おまえさんがここの領主か。わしを知らんとはもぐりじゃのぉ」
「何者だ! 名を名乗れ」
まだ強気な領主だった。バルドルがため息をつく。馬を下りて、アレスに軽く会釈をしてから領主に向き直った。その前にエフライムとラオが陣取る。バルドルとアレスを守る布陣だ。それを見て満足したように頷き、バルドルは領主を見つめた。
「おまえさん、馬鹿じゃな? まあ良い。バルドル・ブレイザレク。三代の王に仕えているじじいじゃよ」
その言葉を聞いたとたんに領主が青ざめるが、既に取り繕うことも叶わない状況だ。バルドルの言葉に召使たちや、領主のパーティーに集まっていた人間たちが、次々と跪いていく。その中で領主が立ち続けていた。
「ついでに言うとな、今、わしの主はおまえの前にいる。おまえが殺そうとしたそのお方こそ、アレス王じゃ」
その瞬間に、バルドルと一緒に来た人間はすべて馬を下り、アレスに対して膝をついて頭を下げた。バルドルもアレスへの礼を取る。
リーザが周りを見回せば、立っているのは領主に、エフライムとラオ、そしてリーザと共に呆然としているマリアのみが、その場で立ち上がったままだった。我に返った領主が慌てて膝を折って頭を垂れる。それを見て、ますますリーザは訳が分からなくなってしまった。自分の耳で聞いたことが信じられない。
王様? アレスが王様?
呆然とアレスを見つめていると、アレスはバルドルと何かを話し、それからリーザたちへと振り返って綺麗に笑った。
「二人とも、もう大丈夫だよ」
その笑顔と言葉に、へなへなと力が抜ける。座り込みかけてから、アレスが王様だという先ほどの言葉が戻ってきて、思わずそのまま頭を下げて跪いた。頭上からアレスのため息が落ちてくる。
「お願いだから止めてよ。二人とも。もういいよ」
いつもの、リーザが知っているアレスの口調だった。傍にいて、慰めてくれて、優しい言葉をかけてくれたアレスだ。おずおずと顔を上げれば、リーザの視線に合わすようにしてアレスも同じようにして地面に膝をついてくれた。
「それで? 二人はどうするの?」
どうするって、どうしたらいいの?
困ってマリアを見れば、マリアもリーザを見ていた。微かな衣擦れの音がして、振り返ればマリアの後ろにラオが立っていた。
「ラオ?」
アレスがラオを見上げれば、ラオも膝を地面につけた。何をするのかと彫刻のような顔を振り返りつつじっと見れば、ラオはリーザたちには目もくれず、じっとマリア越しに正面のアレスを見たまま口を開く。
「マリアは俺と一緒に来る」
いつの間に? そう思ったのはリーザだけではなかった。マリアまで驚いている。慌ててマリアは後ろを振り返って、ラオの視線に捕らえられた。
「何を言って…」
「おまえは俺と生涯を共に歩む運命にある」
マリアの頭にラオの言葉が届きはじめると同時に、マリアの頬が染まり始める。リーザも思わずびっくりしてしまった。まるでお伽噺の王子様みたいだと思った。運命。大人の間では本当に「運命」で出会うことがあるんだと、リーザはドキドキしながらマリアとラオの会話に集中してしまう。
「ちょ、ちょっと待ってよ。あなた自分が何を言っているか、分かってるの?」
「分かっている」
ラオは表情も変えない。そのラオの表情を見ながら、アレスが口を挟んだ。
「いや、ラオ。きっと分かってないと思うよ」
二人の視線が、いや二人だけではなくて、エフライムもバルドルも、リーザの視線すらもアレスに集中した。アレスはゆっくりと口を開く。
「だってラオ、今、ラオはマリアにプロポーズしたんだよ?」
その言葉がラオに届いた瞬間に、ラオの顔色が変わった。首から上が真っ赤になっていく。リーザはその様子をまじまじと見ていた。大人の男の人が真っ赤になるところは初めてみた。今、マリアもラオも真っ赤だ。二人とも運命の出会いだから、こんな風になるのだろうと思いつつ、この事態を収拾しようとしているアレスに注目する。
「多分、ラオは自分が感じた予感か予言か知らないけど、それを口にしただけでしょう」
ラオが慌てて頷く。そして呟いた。
「そうか…。そういうことになるな」
妙に納得している。その納得を見て冷静になったのはマリアだった。
「なによ! 人をぬか喜びさせておいて、それってないんじゃないの?」
その言葉にエフライムが気づいた。
「ぬか喜びということは、マリアもラオを良いと思っていたということですか?」
その瞬間にまたマリアの頬が赤くなった。
「だ、だって、ほら、なんていうか、まだ会ったばかりなのよ。でも、ほら、助けてもらったりとかしたし…」
ぶつぶつと言い訳しているのか、独り言を言っているのか分からない状態で呟く。ずっとリーザに厳しい面を見せてきたマリアが、赤くなったり青くなったりしているのは新鮮な驚きだった。完璧に仕事をこなし、あまり感情を見せないマリアには、距離を感じていたが、とたんに親近感を覚え始めた。そこへアレスが呆れたような声で言う。
「じゃあ二人とも、とりあえず城においでよ。まあ少なくとも、ここよりは良い待遇で雇うよ。ね? バルドル」
二人…。リーザはマリアとラオを見た。赤くなっている幸せそうな二人。お城で運命の相手と一緒に働けるマリアが羨ましかった。それからアレスに視線を移す。一生懸命リーザを守ってくれたアレス。王子様みたいだと思ったら、王様だった彼に視線を送る。彼を見られるのはこれが最後かもしれない。しかしアレスの視線はバルドルへと向いていた。バルドルがその白いあごひげを撫でながらアレスの提案に思案し、にやりと笑う。
「そうじゃのう。まあ二人ぐらいなら仕事はあるじゃろう。王の推薦もあることだしのぉ。無碍にはできんじゃろう?」
バルドルは不器用に片目をつぶって見せる。アレスがほっとしたように、膝についた土を払って立ち上がった。そして同じく膝をついていたバルドルへと手を伸ばす。その手を力強く握り締めて、バルドルもまた膝の土を払って立ち上がった。
「行きますかな?」
「うん。戻ろう。僕たちの城にね」
リーザ以外が笑顔になる中、リーザは不安に駆られていた。自分はどうなるのだろう。問わなくても分かっていることだった。置いていかれるのだ。昨日までと同じ生活に戻るのだ。殴られ、蹴られ、お腹を空かせて台所仕事をする生活に戻るのだ。
身寄りもなく、力もなく、幼いだけの少女を彼らが連れて行く理由などない。アレスがいない。マリアすらいない。そんな辛い屋敷に置いていかれたら、今度こそ自分は生きていけない。
思わずリーザの頬に涙がこぼれる。それを慌てて手の甲で拭った。ここで泣いてはいけない。みんなの足をひっぱってはいけない。アレスは王様で、マリアは運命の相手と出会ったのだ。アレスはリーザの王子様ではなかったのだから。




