いつの日か(2)
馬車で数日かかって連れていかれた場所は、どこかの屋敷だった。もう自分が住んでいた村がどこにあるのか分からない。働いて稼いだとしても戻ることはできないと、それだけは分かっていた。
屋敷の仕事は辛かった。言われた通りに仕事をしても、打たれ、蹴られ、食事を抜かされた。父に怒鳴られたのとは雲泥の差だった。まだ家族に怒られているほうがマシだったということに気づかされた。
そんなときに思い出したのはフォルカのことだった。王子様じゃなくてもいい。誰かが来てくれるかもしれない。辛くて辛くて、一人で夜中に泣いていると誰かの手がそっとリーザの背中を撫でた。顔を上げて月明かりの中で見えたのは、一緒にこの屋敷に連れてこられた男の子だった。リーザより年上で兄と同じぐらいの年だけれど、名前は弟と同じアレス。そんな少しばかりの共通点に親近感を覚えていた相手だ。
「大丈夫?」
息だけで問いかけられて、こくりと頷いてから慌てて涙を拭った。声を殺して泣いていたはずだけれど、泣き声がもれただろうか? 心配をしてベッドのほうを見れば部屋を提供してくれたマリアは眠っているようだった。彼女のベッドの脇に藁を敷き、上にシーツをかけただけの寝床にリーザとアレスは寝ていた。それでも他の使用人よりはよっぽどマシだということを知っていた。他の使用人たちは男も女も同じ部屋で雑魚寝し、夜中に襲われることもあるというのだ。
「ありがとう」
涙が止まっても、そっと背中をさすってくれていたアレスに小さな声で礼を言って、リーザは再び身体を横にした。すぐ隣で同様に身体を横たえる気配がする。翌日はまた朝から苛められるのだろう。何をしても怒鳴られ、叩かれ、蹴られ、食事を抜かされるのだ。それでも夜だけは、この部屋にいる間だけは平和だった。
リーザにとってアレスは不思議な存在だった。どこか今まで自分の周りにいた人たちとは違う。言葉遣いや所作が丁寧で、荷物を持ったリーザがドアの前にいれば、ドアを開けてくれる。他にそんなことをしてくれる人はいなかった。
その日もリーザは焦げや錆がついた鍋を井戸の傍で磨き終わってから、夕食を貰いに台所へと入っていった。しかし夕食があるはずの台所のテーブルの上に乗っていたのは、カラカラに乾いたパンの端の部分だけだ。
「お前には、過ぎた夕飯だろ? この大飯食らいめ。それをさっさと食べて、明日の仕込みの用意だ。グズグズすんなよ」
料理人のトビアスが、自分は沢山の具の入ったスープに柔らかそうなパンを浸しながら告げてきた。トビアスほどではなくても、他の者もスープとパンを手にしている。しかし皆、そっとリーザから目を逸らした。一番弱いものが苛められるのは、ここでは当たり前のことだった。リーザは同様にしてまともに朝も昼も食べさせてもらえない。
来た当初から痩せていたリーザだったが、今は目ばかりが大きくなってしまい、身体はさらに細くなっていた。その細る腕でパンの欠片を手に取ると、台所から逃げ出すようにして外へと出る。こんな欠片ですら奪われることがあるのが、彼女の日常だった。
「こっち」
外の空気を感じたとたんに、小さな声でリーザを呼んだものがいる。そちらを見ると木の陰から手招きされた。目隠しになっている壁際の大きな木の裏へと歩みよれば、アレスが笑いかけてくる。手には何か持っていた。
「これ。僕が齧った後だけど。良かったら食べて」
見れば細いニンジンだった。読み書きができる彼は外へ買い物に行くことがあったので、売り物にならないものを貰ってきたのかもしれない。今までもそうやって、ちょっとしたものを分けてくれることがあった。見れば半分ほど残ったニンジンは、彼の歯形が残っている。リーザはおずおずと受け取った。生の野菜であっても二人にとっては大切な食料だった。野菜も滅多に食べることができないのだ。
「一応、洗ったけど…」
リーザの表情を気にするように、アレスは言った。洗わなくてもリーザは気にしなかっただろう。こんな風に気を使ってくれる彼に感謝した。水汲みに使う桶が足元に置かれている。視線をやれば「今、汲んできたところ」と応えがあった。一口、水を飲もうとしたときだった。
「リーザ! いないのかっ!」
台所へ続く裏口が開き、トビアスがキョロキョロと見回す。とたんにリーザは悲鳴をあげて飛び上がりそうになった。それをアレスが片手で押さえつける。
「静かに。ここは向こうから見えないから大丈夫。僕が行くから。リーザはここで食事して」
「でも…」
「今食べておかないと。食べられなくなるから。僕は食べ終わったから」
そう言ってアレスはリーザを置いて、トビアスの前へと出ていった。
「お前か。どこでサボっていやがったっ」
バシン、バシンと重い平手打ちの音が聞こえてくる。リーザは声を出さないように自分の口を押さえて座り込んだ。身体が震えてくるのを止められない。
もう一度、バシンと音がした後で、どさりと何かが倒れる音が続いた。
「何やってんだっ。さっさと立ち上がって、こっちへ来い。このウスノロっ!」
ずるずると引きずられる音がして扉が閉まり、辺りは静かになった。
怖い。怖くて涙が出てくる。「…ごめんなさい…」吐息と共に声が漏れる。呼ばれたのはリーザだったのに。それなのに彼が身代わりとして出ていってくれたのだ。誰かに当り散らせば、トビアスは静かになる。当り散らす相手は誰でもよかったのだから。
リーザは泣きながら、それでも一生懸命にパンを口の中へと押し込んだ。足元の桶から水を飲み、無心に咀嚼する。何とか飲み込んだところで、ニンジンを齧った。久しぶりに食べた野菜は甘くて美味しく感じられた。
なんとか言われたことをこなし、酷い状況ながらリーザは一生懸命に生きていた。視界に入る兄のような少年がリーザの唯一の心の支えだった。




