第6章 白い老人(2)
そしてそのほぼ一ヶ月後、ハウトはアレス達をつれて、バルドルの館が見える平原まで来ていた。緑の平原の遥か遠くに小さく白い館が見える。ハウトは馬を走らせた。ルツアやエフライムもそれに続く。一斉に馬を走らせていく。さすがにあまりスピードは出せないが、アレスも馬を走らせていた。館の前に誰か立っているのがわかる。背が高くて、白い髪と白いひげ。そして、灰色の優しいまなざし。
「バルドル!」
アレスは叫んだ。何度も名前を呼びながら、馬を走らせていく。バルドルが手を振った。近くまで馬を走らせて、馬から降りる。そして両腕を広げているバルドルに抱きついた。
「アレス、よくぞここまで」
「バルドル。会いたかったよ」
アレスの言葉が途中から涙声になる。アレスの背中をさすってやりながら、バルドルはハウト達を見た。
「礼を言いますぞ。みなさん。よくぞここまで連れて来てくださった」
心なしかバルドルの眼にも光るものがある。しばしアレスの姿を眺めて、その無事を確認した後に、バルドルの瞳がラオとフェリシアに移動していった。
「おまえさんたちが、フォルセティとマリアの息子と娘。ラオとフェリシアじゃな。ふむ、なんとなく似ておるわ」
バルドルがアレスから離れて、ラオとフェリシアの前に立つ。ラオの後ろでは、くすぐったいような表情で、ハウトが立っていた。
「会えて光栄じゃよ。親友の子供たちよ」
ラオが黙って頭を下げ、フェリシアは優雅に腰を落として挨拶をした。優しい表情で頷くように見つめた後、バルドルはルツアとエフライムに視線を移した。
「ルツア、よく王子を守ってくださった」
バルドルはルツアの両手を握った。ルツアの瞳が潤む。
「ブレイザレク卿…。お久しぶりでございます」
バルドルの角張った手をルツアはそっと握り返して、それ以上の言葉が浮かばずに、そのまま視線を下げていく。バルドルはねぎらうように、ルツアの両手をもう一度握り締めると、視線をエフライムに移した。
「おまえさんが、エフライムじゃね?」
「はい。エフライム・バースと申します。お世話になります」
エフライムが下げた頭を持ち上げたところで、バルドルの鋭い視線がエフライムの瞳を射抜いた。まるで試されているようだと感じつつも、バルドルの視線を外さずにエフライムは見つめ返す。ふっとバルドルの眼光に緩みが生じ、にやりと笑うと視線を外して、皆を見回した。
「積もる話はまた後じゃ。まずはくつろがれよ。それぞれの部屋は用意させるので、まずはサロンにこられると良い」
館の者がやってきて、ハウト達から馬を預かり、馬小屋に連れて行く。そして皆は館の中に通された。それなりに歴史がありそうな調度品の奥に暖炉があり、その手前のテーブルには人数分のお茶が用意されていた。戸惑いながらも、それぞれが椅子に付き、バルドルの勧めでお茶を飲む。良い茶葉の香りが、皆につかの間の安らぎを与えていた。その中で、バルドルは思い出したように懐から紙を取り出して、それらをテーブルの上に並べていった。
「ハウト、ラオ、フェリシア。おまえさんたちに、フォルセティからの手紙じゃ」
その言葉に三人の視線が、バルドルに集まる。
「ラオ
ハウトとフェリシアをおまえの力で守ってやれ。後は頼んだ。マリアによろしく。孫の顔を見られないのが残念だ。
フォルセティ」
ラオが受け取った父からの手紙は短かった。なんとも言えない苦笑いがラオから洩れる。結局、父はハウトとフェリシアのことを気にしているのだ。その手紙をひょいと後ろから奪うものがいた。
「ハウト」
抗議するようなラオの口調を無視して、ハウトは自分の手紙をラオに手渡すと、ラオの分を読み始める。ラオはハウト宛の手紙に目を通した。
「ハウト
おまえの剣と槍で、ラオとフェリシアを守ってやれ。ラオと道を違えることがないように祈る。フェリシアのことは頼んだ。
フォルセティ」
ラオは苦笑した。なんのことはない。フォルセティは、別の二人のことを頼むと必ず言っているのだ。ハウトとラオがお互いの手紙を読んでいるのを見て、フェリシアも近寄ってきて、ハウトの手元を覗きこんだ。ラオは無言でフェリシアが持っていた手紙を受け取る。
「フェリシア
おまえの優しさで、ラオとハウトを支えてやってくれ。おまえには誰かを守る力も支える力もある。自信を持て。おまえの子の顔が見られないのが残念だ。
フォルセティ」
読み終わった手紙は、ハウトの手に渡された。お互いがお互いの手紙を読み終わって、ハウトがため息をつく。
「このラオの手紙にあるマリアっていうのは、お袋のことだろうな」
「ああ」
ラオは短く返事をした。フォルセティが逝って、後を追うようにして病死した母の姿が脳裏に浮かぶ。フォルセティほどの力の持ち主でも、自分の妻の死は見えなかったと見える。それはそれで幸せなことだろう。
「こうなった場合のみに渡せと言われておってな」
バルドルの言葉が、三人に届く。
「何が書いてあるの?」
さすがにアレスも親子の手紙を覗き見る気にはなれなかった。遠慮がちに聞く。
「まあ、お互いに助け合えってさ」
ハウトが自分の分の手紙をアレスに渡す。アレスはさっと眼を通すと、ハウトに返した。
「フォルセティは、おまえたち三人を同じように、自分の子供として愛しておったし、その行く末を心配しておったということじゃろうな」
そう言うバルドルの側に召使が近寄ってきて、何かを耳元に囁いた。
「部屋の用意が出来たようじゃ」
バルドルはそう言って、アレスを自分で部屋に案内していく。その様子を見ているハウトたちのそれぞれに案内の者がつき、各々の部屋へと案内された。
その後数日間は、皆疲れが出たのか、眠ったり起きたりを繰り返す生活をしていた。唯一、ハウトだけが元気だ。
「みんな、体力がねえな」
昼過ぎに起きてきたエフライムを見て、ハウトは言う。ここはちょうど館の裏庭にあたっていた。人工的な泉ができていて、積み上げた石の間から水が湧き出ている。足元は石畳になっていたので、歩きやすく、誰も起きてこない午前中は、もっぱらハウトの剣の稽古場になっていた。ハウトの言葉にエフライムも苦笑する。
「あの距離を二往復して元気なハウトの方が驚きですよ」
「おまえさんも、そんなに寝てばっかりいると鈍るぞ。相手をしてやろうか」
にやりと笑いかける。
「そういえば、やりあったことが無かったですねぇ。それも一興かな」
エフライムはのんきな風情で答えた。
「じゃあ、支度をしてきますよ。さすがにこれじゃあね」
ゆったりとしたローブを着ている自分の身を示すと、エフライムはあてがわれた部屋に戻る。入れ替わりに稽古用の刃をつぶした剣を持ったルツアが現われた。
「じゃあ、エフライムの支度までの間、わたしの相手をしてもらえる?」
笑顔で言った言葉に、ハウトも笑って答えた。
「フレイム様のお望みとあれば、もちろんですとも」
そして大げさに会釈してみせてから、同じく稽古用の刃がない剣を構える。そこにバルドルとアレスも現われた。
「わー。今から稽古するの? よかった。ルツアとハウトが打ち合うのを見てみたいと思っていたんだ!」
館の側には、お茶が飲めるように椅子と机が置いてあるのだが、その一つにアレスは早速腰掛けた。バルドルもその隣に席を取る。
「観客席ができちまったぜ?」
その言葉にルツアも微笑む。
「じゃあ、行くわよ」
ルツアが踏み込んだ。アレスは二人の動きを見ている。そして以前、エフライムから聞いた言葉を思い出していた。たしかにルツアはタイミングを外してくる。しかし、ハウトはそれを補うほどのスピードで体勢を立て直して、次の攻撃を仕掛けてくる。エフライムが言うとおり、ハウトの右側に力が入ったと思うと同時に、剣が出ている。
(速い!)
以前は気づかなかったその速さを、今は気づくことができる自分がいた。またルツアもうまくハウトの動きを使って、攻撃をしている。力を流すような動きだ。ふと肩に手を置かれた。振り返るとエフライムが立って、アレスの肩に手を置いている。そして耳元でアレスにささやいた。
「ほら、弾かれたときのルツアの剣を見てごらんなさい。最初の瞬間は剣に当たっているけれど、その次の瞬間に相手の剣に従って、自分の力を流しているでしょう。そして戻っていくときには、まるで相手の剣に吸いつけられるように、定位置に戻ってくる。無駄な力を使っていないんですよ」
しかし、やはりハウトのスピードが勝ったようだ。ルツアの剣が叩き落された。
「腕を上げたな」
剣を拾うルツアを見ながらハウトが言った。
「そう? あんまり上がった気がしないんだけど」
その言葉に苦笑して、ハウトは続けた。
「だいぶスピードが上がったぜ」
ルツアはにっこり笑う。
「だとしたら嬉しいわ」
そしてアレスの方に歩いてくると、空いている椅子に腰をおろして、エフライムを見上げた。
「あなたの番よ」
エフライムは肩をすくめ、ルツアから剣を受け取った。
「じゃあ、行ってきますか」
軽くアレスに会釈をすると、ハウトの正面に立つ。ハウトは、手首を回して剣を一回転させてからエフライムに向けて構えた。エフライムは剣を右手から下に流れた位置に置いたままだった。いつもアレスの相手をしているときの構えとは違っている。
「お手並み拝見っていうやつだな」
二人とも目が真剣になる。エフライムが動いた。
(エフライムも速い!)
以前、アレスが相手をしてもらったときよりも、かなり速いスピードでハウトに右下から上に向かって剣を突き出す。
ハウトはそれをまた一瞬で、自分の剣で抑えた。その返された剣は力を抜いて流されるように戻しながら、エフライムの剣はくるりと身体の脇で方向を変え、今度はハウトの首筋に向かう。そこをハウトの剣がさらに防いで、そのままエフライムの左上から振り下ろした。
エフライムが左半身を後ろに引いて、ハウトの剣を捌く。全くといっていいほど上半身はぶれなかった。膝のクッションを利用したエフライムの動きは、無駄に動く部分がない。下半身だけで、上半身をハウトの剣から逃していく。そして上半身はハウトからの攻撃に備えて、剣を操っていた。
対するハウトは、エフライムにかわされながらも、同様にかなりのスピードでエフライムに剣を振り下ろしていた。二人の剣の間には、アレスの相手をするときに見せるエフライムのフェイントや、ハウトのからかうような笑みは一切ない。
ハウトのスピードの前では、エフライムもフェイントを入れている時間がなかった。ハウトの重い剣をエフライムは捌きながらも、じわじわと息遣いが荒くなるのを感じる。
それはハウトも同様だった。自分のできるかぎりのスピードと力で突き入れる剣をエフライムは紙一重でかわしていく。ちょっとでも力が入らなかった剣に対しては、まるで見分けているように弾かれる。そしていつの間にか剣先がハウトを襲う。その剣先をハウトは力でねじ伏せるようにして払った。
なかなか優劣がつかない。両者の額に汗が浮かび、さらに息遣いが荒くなる。それでもわずかながら均衡が崩れた。強いハウトの踏み込みに、ガシャンという重い音がして、エフライムの剣が弾かれる。一瞬エフライムは顔をしかめたが、そのまま剣を持ち直した。
「さすがですね。ハウト」
「おまえさんもな」
エフライムがハウトの頭を狙うと見せかけて、そのまま胴を左から切り込みにいく。ハウトは頭の上に来た剣も、胴の方に来た剣もすごい勢いで弾くと、そのままエフライムの脇を狙った。エフライムがぎりぎりでかわす。そこに、右側から顔の真横に剣が来た。
「あっ!」
アレスが声をあげた瞬間、エフライムの頬を剣が掠める。エフライムはまたしてもなんとか紙一重で避けた。そして身をひねって、ハウトに剣を突き出す。だが突き出し方が甘かった。その剣をハウトの剣が叩き落す。
「くっ」
剣にかかったあまりの衝撃に右手を抑えて、エフライムはハウトを見た。顔には汗が滝のように流れている。ハウトも同様だった。肩で荒く息をしている。ハウトはエフライムの眼を見て、にやりと笑うとそのまま力尽きたように座り込んだ。
「カードだけじゃなく、戦場でもやりあいたくないな。おまえさんとは」
ハウトは剣を投げ出し、顔の汗を拭った。
「よかったですね。味方同士で」
エフライムも力なく笑い、疲れきったように座り込んだ。それを見ていたバルドルが笑いながら言った。
「いや、見事なもんじゃ。わしも若かったら、相手になってもらいたいぞ。ご両人。いや、今からでも遅くないかな?」
その言葉にハウトが苦笑する。
「じいさん、やめとけって」
バルドルの眼がきらりと光った。あの悪戯っぽい眼をしている。
「ふむ。今なら、ちょうどいいかもしれん」
ほとんど床に寝転びながら、ハウトはバルドルを見る。
「おいおい。いくら俺が疲れているからって、じいさんには負けないぜ」
「そうかな?」
バルドルは立って、エフライムに言う。
「ちょっと剣を貸してくれるかの?」
その言葉を聞いて、ハウトは焦った。
「俺に三人抜きをさせようっていうのか?」
それを聞いて、同じく床に寝転ぶようにしていたエフライムが言う。
「ハウトは元気が有り余っていますからね。三人ぐらい相手になるのがちょうどいいかもしれませんよ」
声には笑いが含まれていた。それを聞いてルツアも同意する。
「そうかもね」
バルドルがエフライムの足元までゆったりとした足取りで着たので、エフライムは寝転んだまま剣をバルドルに差し出した。短く礼を言ってバルドルはその練習用の剣を受け取ると、同じく寝転がっているままのハウトの前に立つ。
もうやりたくてうずうずしているといったその風情に、エフライムは苦笑しながら場所を空けるために、ふらりと立ち上がると、バルドルが座っていた椅子に身体を沈めた。
「じゃあ、始めようかの」
ハウトが苦笑しながら、しぶしぶと立ち上がる。バルドルが剣を構える。とたんにバルドルは、姿勢がしゃんとして、灰色の眼に力が宿った。その眼を見た瞬間にハウトは思う。
(やばい。このじいさん、まじでやるかもしれんぞ)
バルドルが先に仕掛けた。剣が突き出される。その剣をハウトは払ったが、ずしりとした重みが手に残った。
(じじいの癖に、なんていう力だ)
思わず、剣を握る手に力を込める。先ほどのエフライムとの打ち合いで、疲れたせいもあるが、それだけではない。ハウトのスピードは完全に殺されてしまっていた。弾いている剣の一つ一つが重いのだ。腕に負担がかかる。さらに突き出す前に、その動きを封じられてしまう。いつものペースが作り出せずに、ハウトは苦戦した。
見かけ上はハウトが押しているように見えるが、その実、ペースを握っているのはバルドルだった。打つ。引く。弾く。そしてまた切り込む。それら、一つ一つの動きが、バルドルによって孤立させられていく。まるでぎくしゃくと、油が切れた機械人形になったような気分さえしてくる。切り込む。ストップ。打つ。ストップ。
このままでは押し切られるとみて、ハウトは賭けに出た。力任せでバルドルの剣の根元を跳ね上げる。ようやく、剣はバルドルの手を離れて、石畳に突き刺さった。
バルドルは驚いたような顔をして、手を見た。そして剣を見る。
「うーん。やられたか。年は取りたくないもんじゃ」
本気で悔しそうな顔をして見せるバルドルを見て、ハウトはなんとか勝ったのを実感した。安堵の息を吐きつつ、思わずその場にへたり込む。
「じいさん。やるなぁ」
意識せずにもれ出たハウトの言葉に、バルドルはにやりと笑った。
「老いたといえども、まだまだ。さて、おまえさんたち、着替えてくるとええじゃろう」
剣をエフライムに返して、バルドルは館の中にしっかりとした足取りで戻っていった。呼吸が乱れているそぶりも見せない。それを見送ってから、エフライムは座り込んだハウトに手を差し出した。その手を掴んで、ハウトは再びよろよろと立ち上がる。今度はエフライムとやりあった後以上に、身体が重く感じられていた。
「バルドル様、余裕がありましたよね」
「ありゃ、年の功だな」
バルドルが去っていったほうを二人して見る。あの人を敵にしなくて良かったと、同じことを胸中で思い、お互いの顔を見た瞬間におたがいの気持ちを汲み取って、苦笑した。




