第6章 白い老人(1)
バルドル・ブレイザレク卿。ネレウス王の片腕として、そして無二の親友として人々から敬われ、恐れられたのはいつのことだったろうか。親友のネレウスとフォルセティがこの世を去ってから、バルドルにとっては永久とも言えるほどの時間が過ぎていた。本来であれば、二人と共にレティザルトの戦いで落としていた命を、まがりなりにも拾ってしまったことを今も思い出す。
「お茶をお持ちしました」
ドアをノックする音に続いて、側仕えが良い香りのするお茶をそっと置いていく。太陽の光が柔らかに差す窓際の椅子に座りながら、バルドルは外を見た。
バルドルの部屋からは手前に見える平原と、その向こうに鬱蒼とした森が見える。そして森の向こうには高い山々が、バルドルの所領の名前であるブレイザレクの山々が見えた。
このように穏やかな日には、ネレウスやフォルセティと共にあった日々を思い出し、ネレウスが大事にしていた孫、アレスのことを思い出す。
子供に恵まれなかったバルドルにとっては、ネレウスの息子オレーンとグリトニルの兄弟、そしてその息子たちのレグラスとアレスは自分の息子や孫のようなものだった。
結局、気が弱く王に向かないと思われた兄のオレーンよりは、弟のグリトニルの方が良かろうという理由で、ネレウスはグリトニルを皇太子に選んだ。
オレーンもそのほうが良かったのだろう。素直に弟が後を継ぐことを喜んでいるように見えた。そしてレグラス。怠惰でプライドだけが高い性格。オレーンが何も言わないのをいいことに、我が儘放題に育ってしまった。
それに比べてアレスは…。
思わず笑みがこぼれる。まさに親ばかと言うべきか。ネレウスもあまりのその幼子の愛らしさに、バルドルに教育係を言いつけたほどだった。そのせいでバルドルはグリトニルから、ちょっとばかり疎まれていたようだが、それもまた良い思い出ではある。
バルドルの白い髪、白いあごひげが年齢を物語っていた。しかし、その隙の無い振る舞いは確実に武人のものであり、昔を忍ばせる。すべてを見透かすような強い眼光を持つ灰色の瞳は、その感情にしたがって濃淡を変えるが、これはよっぽど傍で見たものでなければ気づかない。
アレスはよく、この瞳を覗き込んで、その日のバルドルの機嫌を量っていたものだ。まるでかつてのネレウスやフォルセティのように。
思い出し笑いをしながら、ふと平原の方を見ると、いつもと違う風景が見えた。誰かが馬に乗ってこちらに向かって来ている。このあたりで人が住んでいるのは、このバルドルの館だけだ。他に人が住んでいる場所に行くためには、さらに東へ5日ほどいく必要があった。
大抵の旅人は整備された街道を通るか、海路で東の町に行く。わざわざ森を抜けてくるものは、ほとんどいない。
「物好きな」
バルドルは呟くと、馬に注目した。バルドルがいる場所からも、茶色の馬に漆黒の髪を持つ男が乗っていることが判るくらい近づいている。その様子を上から見ながら、その見事な黒髪に、心に浮かび上がってくることがある。
「まさか…」
バルドルは部屋の天井から下がっている紐をひいた。遠くでベルが鳴る音がする。しばらくしてドアがノックされ、さっきお茶を持って来た側仕えが、顔を出した。
「客が来る。丁重なもてなしを頼むぞ」
そういうと、手を振って下がらせた。
「来るべきときが来たか…。ネレウスよ。フォルセティよ。おまえらは、このわしに、因果なことを押し付けおって…元はと言えば、ラーキエルのせいではあるが…。いや、誰のせいとも言えんか…」
誰とはなしに呟くと、バルドルは遠い目をして寂しげな笑みを浮かべ、近づいて来る馬を見た。
しばらく部屋で待っていると館の玄関がざわざわと煩くなる。客人が到着したようだ。バルドルはその音を聞きながら、ぬるくなってしまったお茶を飲んだ。ドアをノックする音が聞こえる。それに答えて、客人を居間へ通すように伝える。そして自分もゆっくりと居間へ向かった。
居間で所在なげに立っていたのは、予想通り見事な黒髪と黒い瞳を持つ青年だった。
「あの、俺は…」
話始めようとする青年を手で制して、バルドルは口を開いた。
「フォルセティの義理の息子。ハウト」
ハウトが驚いたような顔をする。その顔を見て、バルドルは続けた。
「ラオとフェリシアは元気かね?」
さらにハウトの目が見開かれる。その様子を見て、バルドルは口元を緩めた。
「フォルセティから聞いてないかね? わしはあいつとは長い付き合いじゃったんだが」
ハウトは首を振ると、慌てて声で答えた。
「いえ」
バルドルは、盛大にため息をついてみせた。
「あいつは無口な奴じゃったからなぁ。昔から」
ふとハウトの方を見て、身振りでソファに座るように薦めた。そのタイミングを見計らうように、館のものが茶を持ってくる。ハウトはバルドルとテーブルを挟んで対面する形で座った。それを見て、バルドルも腰をかける。
「それで、なぜこの館に?」
バルドルに促されて、ようやくハウトは自分が来た理由について話す機会を得る。懐からルツアが書いた手紙を取り出した。
「俺のことを知っていると思わなかったので、ルツアに書いてもらいました」
思わず言葉が改まる。
「ルツア?」
バルドルが怪訝な顔になる。
「王子の乳母です」
その言葉にようやく誰だか思い至ったようだ。ああ、と笑顔になった。
「元気かね? ルツア殿は」
ハウトはその言葉に眉間に皺を寄せた。
「今は元気ですが、実はそのことで来ました」
まずはルツアの手紙を読んでもらうように促した。ルツアの手紙には、牢に入れられ、命からがら逃げ出したことと、ラオの庵に厄介になっているが、追っ手が来そうなことが書いてあった。さすがにバルドルもそのようなことが起こっているという想像をしていなかったらしい。顔は青ざめていき、手紙を読む手が、読み進むにつれて震えてくる。
「なんということを…」
バルドルは読み終わって、ハウトを見た。まだ手が震えている。
「で、わしにどうしろと?」
しかし声は必死で抑えているのだろう。平静な声だった。
「ラオの見込みでは、あとひと月程度で追っ手が来ます。我々には行き場がない」
「匿えと言うか」
「そういうことです」
ハウトが静かにバルドルを見た。
「今はレグラスが王になっています。恨みを残さない為には、アレスを討つための追っ手が来るでしょう。アレスは…アレス王子は」
思わずアレスを普段通り呼びそうになって、辛うじて敬称を付けた。バルドルは黙って聞いている。
「アレス王子は、あなたが非常に良い指導者だったと言っていました。きっとあなただったら王子を助けてくれるに違いないと、仲間達と相談して、俺、いや私がお願いに来たのです」
やはりバルドルは動かない。ハウトは少し焦りを感じた。アレスから聞いていた話通りの人物であれば、助けてくれると言ってもいいはずだった。
「せめてアレス…王子だけでも」
絞りだすようにハウトは言った。
バルドルがハウトの眼を覗き込むようにして答える。
「女々しく逃げてくるだけの奴を匿う気はありませんな」
ハウトはその言葉に驚いた。
「しかし、ブレイザレク卿。あなたはアレスの信頼も厚く、ネレウス王の片腕だった方だとか。そのあなたがアレスを見捨てるのですか!」
バルドルは感情を見せない硬い表情のままハウトを黙って見ている。
「アレスは、アレスは、死に物狂いで生きようとしている。それなのに、見捨てるんですか。あいつを。あなたが育てたアレスを!」
ハウトの声が大きくなる。バルドルの表情に動きはない。がたんと音を立ててハウトが立ち上がった。そしてバルドルに向かって言い放つ。
「見損なったぞ! じじい! あいつは本当に生きたいと願っているんだ。目の前で父親も母親も殺されて、それでもがんばっているんだ。あんな小さいのに」
怒りのこもった眼でバルドルを見つめる。
「もういい。あいつは俺達が守ってやる。あんたの手は借りん! アレスは俺達が命に換えても助けてやる」
宣言するようにバルドルに指を突きつけて言い捨てると、ハウトはドアの方に向かって足を踏み出した。そのまま立ち去ろうとするハウトに、バルドルの笑い声が聞こえてくる。
「はっはっはっはっ」
「じじい! 何がおかしい!」
振り返るとバルドルが立ち上がって、ハウトを穏やかな目で見ている。
「アレスも良い仲間を持ったもんじゃ。さすがネレウスの孫。人を見る目があるのぉ。そしてフォルセティの息子よ。おまえさんもな。血の繋がりは無くとも、子は親の背中を見て育つというところか」
その言葉にハウトが怒ったまま、しかし問い掛けるような顔になる。
「短気じゃな。おまえさんは。ハウト」
バルドルは、にやりと笑った。
「わしは匿う気はないと言っただけだ。助ける気はないとは言っとらん」
ハウトが何かを言おうと、口を開きかけたところで、バルドルが先を制した。
「まあ、とりあえず座らんか。茶でも飲んで、少しは落ち着け」
今だ納得はしていないという顔をしつつも、それでも話を聞く気にはなったらしい。しぶしぶといった風情で、ハウトは先ほどまで座っていた場所に戻る。それを見てバルドルはティーカップを手にすると、乾杯でもするように軽く持ち上げてから、一口飲んだ。
「おまえさんの言うとおり、わしはネレウスの片腕だった。政治をしていく上では、片腕でも、私生活では親友じゃった。だからアレスは孫みたいなもんじゃ」
「じゃあ、なぜ…」
言いかけるハウトを、バルドルは手で留める。そしてカップを受け皿の上に戻した。
「まあ、待て。焦るな」
バルドルは灰色の眼を光らせて、じっとハウトを見る。何か楽しいことを企んでいるような、そんな感じの眼の色をしている。
「ただ一方的に保護するっていうのは嫌なんじゃよ。おまえさんもアレスをここで埋もれさせておく気はあるまい?」
バルドルはにやりと嗤う。ハウトもはっと気づいたように見た。
「そう。やるなら取り返すまでじゃ。おまえさんもそう考えているんじゃろう? フォルセティの息子よ。血は繋がっていなくても、あいつの息子ならな」
ハウトが呆然としてバルドルを見た。
「ブレイザレク卿…」
「じじいで結構じゃよ。使い慣れない言葉使いで、舌を噛みそうなおまえさんは見てられんな」
灰色の瞳に悪戯っぽい光が宿る。ハウトが図星を突かれて、ぐっと押し黙った。
「フォルセティの息子なら、おまえさんもわしの息子か孫みたいなもんじゃ。あいつとも親友じゃったからな。だがな、わしを単なる保護者にするな。やるなら仲間にしろ。わしもまだまだ若いもんに負けんぞ」
ハウトが呆れたような声を出す。
「俺を試したのか?」
「そりゃそうじゃ」
バルドルが悪びれない声でいう。思わずその口調にハウトは苦笑してしまった。喰えないじいさんだ。
「義理とはいえフォルセティの息子がどんな風に育ったか、興味があったしな。こうでもしなければ本音は聴けんじゃろ?」
すました顔で言い切った後で、バルドルは立ち上がった。
「部屋を用意しておこう。それとこの館で一番早い馬を貸してやろう。どうせすぐに、戻るのじゃろう?」
「ああ」
バルドルは部屋の隅にあった紐を引く。遠くでベルがなる音がして、館のものが来た。バルドルは短く指示を出すと下がらせて、ハウトを見る。
「しばらくしたら、客間への案内するものが来るからな。自分の家だと思って、くつろぐが良い。何か必要だったら、この紐を引けば誰か来るぞ」
ハウトは立ち上がってバルドルに頭を下げた。
「ありがとうございます」
バルドルはふっと眼を細めた。
「夕食の時に会おうぞ。まずは湯でも使うが良いじゃろう」
そのままバルドルはドアを開けて、自分の部屋に戻って行った。
ハウトは、久しぶりにまともな夕食をバルドルと共に取った。食後のお茶を飲んでいると、バルドルが見せたいものがあると言う。
「門外不出の品でな」
眼を光らせた。先ほど見せた、あの悪戯っぽい目つきだ。こっちに来いというので、後についていくと、廊下の先の小部屋に行き着く。中に入ると、壁にカーテンがかけられていた。そのカーテンの脇についている紐をバルドルが引っ張ると、するするとカーテンが開いていく。
「これは…」
カーテンの向こうには、一枚の絵が掛けられてあった。ハウトよりやや若い青年が二人と少年が一人立っている。
真ん中の青年は、明るい茶色の髪と瞳を持って、柔らかな笑みでこちらを見ていた。少年は、やや緊張した硬い表情だ。銀色の髪が、柔らかく描かれており、まるで絹糸のようにまっすぐとしていて、肩まで届いている。そしてもう一人の青年は、薄い金髪に灰色の眼をしていた。
三人とも街で見るような普通の服装だったが、二人の青年が腰に提げている剣だけは、絵であっても柄や鞘が見事なものだった。ハウトは三人の絵をまじまじと見つめた。この真ん中の青年の顔。目の周りや鼻立ちがアレスに似ている。そして、銀髪の少年は、子供のころのラオにそっくりだった。そして三人目のこの人は。
「その端っこのいい男はわしじゃよ」
バルドルが澄まして言う。
「三人で街に行ったときに街の絵師に描いてもらったもんじゃ。ネレウスは痛く気に入っておったが、さすがに城に飾るわけにはいかんのでな。わしがもらって隠しておいたんじゃ」
バルドルもハウトの隣にきて絵を眺めた。
「そしてこの少年がフォルセティじゃ。わしらと出会ったころじゃよ。抜け出すために用意してあった馬小屋の番をしてもらっていてな。城を抜け出しては三人で街に行ったもんじゃ」
「とんでもない王様だな」
ハウトが絵から視線がはずせないまま、呆れたような声で言った。
「このころは王子じゃがな。即位しても性質は変わらんかった。じゃが、そういう身分に頓着しないところが、あいつのいいところでもあり、名君と呼ばれた所以でもある」
バルドルが穏やかに微笑みながら答える。ハウトはじっと三人の絵を見つめていた。その様子を見ながらバルドルが続ける。
「いつアレスのところに戻るかの?」
「明日には」
ハウトはバルドルを見た。バルドルはため息をつく。
「忙しいの。それだけ切羽詰まっているということじゃな。わかった。明日の夜明けまでに馬の用意をさせよう」
「感謝する」
「礼には及ばん。して、どのぐらいでアレスと共に戻ってくるかの?」
ハウトはふっと目をそらして考えた。多分…。
「向こうへ戻るのに二週間弱、それからこっちへは二週間以上かかるだろう。大体ひと月というところだな」
「仲間は何人じゃ?」
「ラオ、フェリシア、ルツア、それとエフライム」
途中まで頷いて聞いていたが、最後の名前には覚えがない。バルドルは聞き返した。
「エフライム?」
「元近衛だ」
「ふむ。わかった。部屋も用意しておこう。今日はもう寝なされ」
バルドルの言葉にハウトは素直に頷いた。バルドルが絵のカーテンを閉める。するすると絵が隠れていくのを名残惜しそうに見た後で、二人はその部屋を出た。




