第6章 華燭の典(5)
オージアスたちの出発を明日に控え、アレスは執務室で机の上の地図を睨みながら、この後のことをじっと考えていた。ラオは自分の領地へ行き、エフライムはオージアスたちの壮行会に出席していていない。
夕方までは傍にいたバルドルも今は自分の仕事をするべく、戻ってしまった。サイラスは自宅へ帰った時間だ。隣の部屋ではマリアが控えている。そしてドアの外には本日当番の近衛がいるはずだ。
「静かだな」
ぽつりと独り言を呟いても返事はない。久しぶりに人がいない夜だった。
机の上の地図で、トラケルタ王国の形を指でなぞる。ヴィーザル王国の西に位置する国だ。表面上は友好国であり、水面下ではお互いを蹴落とそうとしている間柄だ。
ヴィーザル王国の北にはバーバラス王国。ブレイザレクの山脈に拒まれており、国交はあるが行き来は少ない。わずかに東側の山脈が切れるところで、商人が行き来しているぐらいだ。
ヴィーザル王国の東はセラスノル湖があり、その対岸がゲイラシュト国。こちらも多少の国交はあるが、商人の行き来がメインだろう。その先のファン王国になると、もう品物が入ってくるばかり。随分前に使者のやり取りがあった程度だ。
気になるのはバーバラス王国のさらに北。タトラスノール帝国と名乗っている国がある。ほとんど情報は入ってこない。
「広い…」
どこの国と手を結び、どこの国と敵対するのか。甘く見られないためにはどうすれば良いのか。
アレスはプレッシャーで押しつぶされそうだった。今回の飢饉が起こる…という予言は手始めだろう。これだけ大きな国なのだ。ただ安穏と暮らしていれば、何事もなく過ぎるわけではないということは、ここ数年だけ振り返ってみても分かる。
バルドルは助けてくれるが、バルドルも万能ではない。知らないこともたくさんある。各国のことを知っている人はいないだろうか。それから国内もだ。もっと各地のことを知る必要がある。
知識も足りない。農業のこと、商業のこと、今までの歴史。まだまだ知らなければいけないことがたくさんある。
「…誰に教えてもらえばいいんだろう」
呟いたところで、ふっと蜀台の火が揺れた。顔を上げれば、誰もいないはずの部屋に立つ人影があった。
思わず後ずさり、よく見れば知っている人物だ。
「イエフ」
「驚かしましたかの?」
「驚いたよ。どうやって入ってきたの?」
扉の音はしなかった。そもそも扉の前には近衛がいて、隣の部屋にはマリアがいるのだ。だがイエフは開いているか分からない細い目をさらに細くして、微笑んだだけだった。
「陛下と少しお話をしたいと思いましてな。こっそりと参りました」
「こっそりって。こっそり過ぎるよ」
「そうですのぉ」
悪びれた様子もなく、真っ白になったあごひげを撫でている。
「何か、わしに聞きたいことがあったのではありませんかな?」
「聞きたいこと? どうやって入ってきたの?」
「そんなつまらないことではなくですな。他にもあるでしょうぞ。ほれほれ」
どうやって入ってきたかというアレスの質問には答えてくれないイエフに対して、アレスはこれ以上訊くのを諦めることにする。ある種の勘だった。イエフには何かあるのだ。
「うーん…何を聞いたらいいの?」
「ほれ。さきほど独り言でおっしゃっていたことですぞ」
一体いつから聞いていたんだろうか…そう思うが、とりあえず疑問は置いておいて、自分の呟きを思い出す。
「…誰に教えてもらえばいいか? ってこと?」
そう言うとイエフが大きく頷いた。
「じゃあ、イエフに聞いたらいいの?」
とたんにイエフが横に首を振る。違うらしい。
「一人の者から学ぶのは無理ですぞ。それぞれに一番詳しい者に教えてもらえばよろしい」
「一番詳しい人…って誰?」
イエフはにぃっと笑った。
「わしが用意しましょうぞ。陛下に必要な先生を」
「先生?」
「はい。だから…」
「だから?」
「セレーネのことをお願いいたします」
アレスが首をかしげた瞬間に、部屋の中を照らす蜀台が一斉に消え、辺りが闇に包まれた。
「誰かっ! 灯りを」
パタンと音がして、隣の部屋からマリアが入ってくる。彼女が持ってきたか細い灯りに照らされた部屋には、イエフの姿は全く無かった。




