第5章 帰途(1)
イーゴリたちに見送られ、アレスたちはケレスを後にした。馬車はクライブが操っている。そして途中までの護衛として数人の猟師が一緒に来ていた。狼対策だ。
しかし狼に対しては心配はいらず、笛の効果か、往きに襲われた場所でも何事もなく通り過ぎることができた。それを見届けて、猟師たちはケレスへと戻っていった。
ヴィーザルへ向かう道を走らせていけば、往きにあった廃棄された村が見えてくる。このあたりで一晩過ごせば、明日からは宿に泊まれるはずだ。
「往きと同じく、この村で過ごしますか」
先頭を行くゼイルがエフライムに確認をとり、エフライムが頷いた。天気が相変わらず悪い。幸いなことに夜間の大雨には遭遇していないが、屋根がある場所に泊まれるのであれば、かなり身体が休まるだろう。
またしてもぽつりぽつりと降り始めた雨に、エフライムは天を仰いだ。
夕闇があたりを包むころになってようやく村の入り口へとたどり着く。ゼイルがそのまま村へと踏み込もうとしたところを、エフライムは片手で止めた。
何かがエフライムの直感を刺激する。往きと違う部分がどこかあるのだ。じっと村を見つつ自分の記憶を探っていく。何が違うのか。どこが違うのか。
ふと気づく。家々の窓から見えているものが、何か違う気がする。そう感じたときに、窓の隅からこちらをうかがう顔に気づいた。顔、顔、顔。
多くの窓から闇にまぎれるようにして、顔がこちらを覗いている。こちらを伺っているのだ。背筋を冷たいものが流れた。だが相手の視線には気づかないふりをして、一行のほうを振り向いた。
「このまま直進! 駆け足!」
エフライムから号令がかかる。その瞬間に近衛たちの顔が引き締まった。一斉に馬を最高速度にもっていくべく、手綱をしならせる。とたんに一行は逃げ出すようにして、その場から駆け始めた。
本来であれば、隊長というものが大声で命令を出すことは普通だ。だがエフライムがそのように大声で命令を出すことは珍しい。こんな声を出すことは滅多になく、よっぽどのときだということを彼らは知っていた。だから駆け出したのだ。
クライブも馬車を牽く馬に大きく鞭を当てた。もう街中の馬車の動きではない。戦場を駆ける戦車の動きだった。馬車が大きく揺れる。
走り出す一行の後ろへバラバラと多くの男たちが走り出てきた。さらに多くの者が馬に乗って追いかけてくる。ラオが後ろを振り返り、風を起こした。突風にあおられて落馬するものもいたが、まだ追いかけてくる。
「何が起こったの?」
アレスは必死になって揺れる馬車の中で、腕で身体を固定しながら窓の外に向かって叫んだ。
「待ち伏せですっ」
エフライムも風や馬車の音に負けじと叫ぶ。
「なんで…」
「陛下! 喋ると舌を噛みますっ」
なおも喋るとするアレスを、マリアが留める。アレスの前に向かい合うように座っているライサとマリアは、お互いの身体をぶつけ合いながら揺れていた。アレスはぐっと押し黙る。
今は外にいる者たちを信じるしかない。彼らに守られているしかないのだ。
びゅっ。
風切り音と共に、ビーンという突き刺さる音が聞こえてくる。
「頭を低くしてください」
マリアがアレスを抱え込んで、馬車の床へとしゃがみこんだ。次の瞬間にまた音がして、アレスが座っていた位置に矢が突き刺さり、先端が内部へ飛び出してくる。
「アレスっ!」
エフライムの声が聞こえた。
「ご無事ですっ!」
マリアが叫び返した。
戦車のように走っているといっても、馬車のスピードは単騎のものに劣る。追いつかれたのだ。
そうしている間にも、次から次へと矢が飛んでくる。さらに馬が倒れる音や、剣がぶつかる音、うめき声まで聞こえてくる。
「マリア。外の援護をっ!」
アレスが叫ぶ。外の音や、馬車の音は大きかったが、それでも同じ馬車の床にしゃがみこんでいたライサの耳には、はっきりとアレスの声が聞こえた。
外の援護? と疑問に思ったのはつかの間だった。
すぐに外から空気が渦巻く音がし始める。それは往きの森の中で聞いた音だった。狼を遠ざけるために空気が渦巻いているときに聞いた音。
ライサはまじまじとマリアを見てしまった。マリアはアレスを抱えたままの姿勢で、視線だけが馬車の壁を越えて、外を見るようにしている。
「外の状況は分かる?」
アレスが再び、マリアに覆いかぶさられた状態で問う。
「わかります。敵の数は数十。馬車を取り巻いています。今はベガが起こす渦の外に半数以上がいます。内側に残っていたものは、近衛とラオが無力化しています」
「弓矢は?」
「もう少し待ってください…大丈夫です。ユーリーが切り捨てました」
マリアが身体を起こし、続いてアレスも床にしゃがみこんだ状態ながら、身体を起こした。マリアは、ライサと目があって困ったように微笑んだ。
「なんて言ったらいいのかしら。そういうことなの」
ライサが呆気に取られて言葉が出せずにマリアを見つめていると、馬車の動きが止まった。エフライムが窓から覗き込んでくる。
「ご無事ですか?」
「こっちは大丈夫。外は?」
「いったんはこの風のおかげで、なんとか敵を抑えました」
アレスはちらりと窓の外を見てから、馬車の扉に手をかけた。
「陛下」
マリアの声に、アレスが首をふる。
「しばらくこの風をそのままでお願い。僕は外を見てくる」
ドアを開けて外に出たアレスに、ライサとマリアも続いた。ライサはちらりとマリアを見たが、マリア自身が動いても馬車の周りを取り巻く風の渦は変らなかった。




