第4章 希望の光(2)
「あの」
マリアが一礼して立ち去ろうとすると、エフライムが呼び止めた。振り返った彼女の瞳に、月光を浴びて謎めいた笑みを浮かべたエフライムが映る。
「ラオのことがお嫌いですか?」
「いいえ。そんなことはありませんわ」
突然の問いに不意を突かれて、思わず何も考えずに即答してしまってからマリアは、これはどのように答えるのが正解だろうかと考える。だがエフライムはマリアの答えを聞いていなかったかのようなことを言い始めた。
「まあ、あの男は少し考えが足りないというか…馬鹿正直なところがありますからね。女性から見たら魅力がないでしょう」
「そんなことありませんわ。正直なところこそが、彼の魅力とも言えますもの」
「無愛想ですしね。何を考えているか分からない」
なぜこんなに嫌なことを言うのだろうか。ちらりとそう思ったが、ラオのことを誤解させたままにしたくなくてマリアは否定の言葉を重ねた。
「そんなことはありません。彼は確かに表情に出にくい部分がありますが、それでも素直に言葉に出してくれます。聞けば答えてくれますわ」
「そうですか? その言葉すら足りないときもありますし。まあ、残念ながらあの男を本気で愛する女性がいるかどうか分かりませんね」
「バース様。失礼ですわ。彼を本気で愛する女性はいますわ」
「おや、どこにですか?」
「それは」
一瞬言いよどんだマリアにエフライムが意地悪な視線を投げてくる。
「ほら。やっぱりいないでしょう。私が正しい」
「ここにいます。ここにいるんです。それ以上の失礼は本気で怒ります」
そう冷たく言い切ってエフライムを睨みつければ、彼の視線はマリアの後ろへと向かっていた。
「だ、そうですよ? ラオ」
くるりと振り向けば、そこにいたのは話題の人物だった。苦虫を噛み潰したような顔をして立っている。驚きのあまりに何も言えずに、マリアが視線をエフライムへと戻せば、彼は肩をすくめて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「私が言ったことは全面的に謝罪します。本心ではありませんから。愛すべき男ですよ。この男はね」
ぽんとラオの肩を一つ叩くと、エフライムは「では失礼」と言って優雅な足取りで去っていった。残された二人はあっけに取られて見送った後で、お互いの顔を見て黙り込む。
夜の静かな帳の中で、明るい月が二人の薄い影を長く映している。足元をじっと見ながらどうしたら良いか、どうしたらこの場を逃げられるのか思案していたマリアが口を開こうとしたときに、ラオがかがみ込んだ。何かと思えば、片膝をついてマリアの片手を押し抱く。それはまるで騎士が忠誠を誓うような仕草だった。
「な、何を…」
「マリア」
ラオの色素の薄い瞳がマリアの瞳を捉える。彼の銀色の髪が月明かりで光を放っていて、目の前の光景は現実とは思えなかった。
「俺と生涯を共にしてもらいたい」
「あの…でも…」
「俺の一生は平坦ではない。この先にも様々なことが起こる。だがそれでも、お前に傍にいてもらいたい」
マリアは真剣な表情で見上げてくるラオの視線に捉えられていた。マリアの沈黙をどう受け取ったのか、ラオは更に言葉を重ねる。
「危険なこともある。だが俺はこの身に代えてもお前を守る。だから俺の…妻になってくれ」
ぽろりと頬を水滴が伝わった。意識せずに流れた涙は、そのまま足元へと落ちて跡を残す。じんわりとラオの言葉がマリアの中に落ちていく。マリアはラオの手を振り払った。
ラオの表情が落胆に変る前に、彼女も膝をついてラオを両腕で抱きしめる。
「生涯…傍にいるわ。でも一つ訂正して。あなたの身に代えて守られるなんて嫌よ。死ぬときは一緒よ」
ラオは数回瞬きをした後に、マリアに微笑んだ。
「分かった。そうしよう。死ぬまで共にいよう」
それは未来のどの時点の約束なのか…マリアは尋ねなかった。
「死んでも共に…よ」
「そうだな」
涙を流しながら微笑んで訂正したマリアに、ラオは応えてからそっと口付けを贈った。唇と唇が軽く触れ合うだけのそれが終わった後で、ラオはさらに誓いを込めるようにマリアの額にも口付けを落とす。
その彼らしくない優しい仕草に、マリアは半ば諦めの気持ちで尋ねた。
「ねえ。膝をついて求婚するのと、その後でキスをするのは、誰の知恵?」
ラオは一瞬驚いたように目を見開いたが、マリアの面白がるような表情を見てから苦笑した。
「バルドルだ」
マリアは驚いた後に頭を抱えたくなった。エフライムとバルドル、国の中枢の二人が一体何をやっているのか。ラオのことを考えての助言という部分もあるが、楽しんでいる部分もあるに違いない。お礼を伝えつつも、あまり変なことをラオに教えないように釘を刺しておかなくては。マリアの頭の中の「やることリスト」に一項目付け加わった。
考えごとをしていたマリアの身体がふわりと浮き上がる。
「きゃっ」
両足と背中でラオの腕に横抱きに抱えられていた。身体を安定させたくて両腕を彼の首に回せば、ラオがその石像のように整った顔に今までにないような甘さを漂わせた笑みをのせる。
「部屋まで送っていこう」
「送るだけ?」
「それはお前次第だ」
マリアは返事をする代わりに首に回した腕に力を込めて、顔を彼の首筋に埋める。薬草の匂いが混じって、まるで深い森の中にいるような匂いが彼からはした。ドキドキするのに安心する不思議な匂いだ。ラオはマリアの様子を見ると満足げに瞳を細めてから、しっかりとした足取りでマリアの部屋へと向かって歩き始めた。




