第4章 希望の光(1)
1週間後に、アレスたちはケレスを離れて首都イリジアへと戻ることに決めた。それまでの間、備蓄として食料の徴収をすることと、代替として食べられるものを紹介すること、それらをイーゴリが指揮をとって城下へと広めていく。
同時にようやくイーゴリの元へ領地内の貴族が集まってきた。王が来ているという知らせが行き交い、出世欲に眩むものたちが集まり始めたのだ。だがこれはアレスとイーゴリにとっては好都合だった。この機会にそれぞれの領地でも備蓄庫の準備と、食料の徴収、代替食の紹介をしてもらえばいい。
貴族たちを相手に依頼するのは、主にベルフェとエフライムの役目となった。集まってきた貴族たちを前に、アレスはにっこりと意味ありげに微笑んでみているだけで、ベルフェとエフライムが話を纏めていく。
その間にラオとマリアは門前に集まった病人やけが人を重症度で分けて、薬で治るものには薬を渡していた。当然、門前にのこのことラオが出て行けばパニックになる。門前から数人ずつ部屋へ通し、そこで一人ひとりに合わせて薬を渡し、どうにもならないものはラオが治療するという名目の元で、アレスが治療する。富むものも貧しいものも関係なく、男も女も関係ない。優先されるのは重症度と年齢だった。より若いものを先に救うことをアレスは決めていた。
アレスが眠るための支度を手伝ってから、自分のために用意された部屋へ向かう途中の中庭で、マリアは見知った人物が一人ぽつんと暗闇の中に立っているのを見かけた。空には見事な満月が出ており、視界は明るい。そのため中庭に立った人物が空に向かって片手を伸ばしているのが分かる。
普段の彼と違って何をするでもなく、ぼんやりとしているような様子を怪訝に思ったために声をかけることにした。
「どうなさいました。バース様」
ましてやいつもの彼らしくなく、エフライムはマリアに声をかけられるまで気づいていなかったらしい。人の気配に人一倍敏感な彼らしくない。声に驚いたように身体に緊張を走らせてこちらに視線を向け、マリアだということを見つけた瞬間に弛緩していく。その一連の動作もいつもの彼らしくはなかった。
まだ完治していないのかもしれない。マリアはそう考えて、エフライムの傍へと歩を進める。だが彼は近づいてくるマリアには興味を抱かず、顔を空へと向けた。最初に見かけたときのように、ゆっくりと空に向かって手を伸ばす。
「何をしていらっしゃるのですか」
「月を掴めないかと思っていました」
見れば、たしかにエフライムが手を伸ばした方向には見事な月が浮かんでいる。天にある月に手が届かないことは子供でも知っている。これはからかわれているのか、または何かの比喩なのか。マリアが応えあぐねていると、エフライムは吐息をもらした。
「無理でしょうね。分かっているのですが」
エフライムは片手を伸ばしたまま、指を開いたり閉じたりする。まるで何かを掴もうとあがいているようだった。
「死ぬときには何も考えないと思っていました」
エフライムは月を見たまま、独り言のように言う。
「ただ何もなくなる。毎晩眠りに付くように、白く意識が途切れる。それで終わりだと。ところが実際は違った」
彼は自嘲の笑みを浮かべた。
「痛くて、苦しくて、全てを手放そうとしたのに…アレスが泣いているような気がしたんです。そうしたら目の前にギルニデム様とルツア様が現れて、私のことを叱るんです。王子を…今は陛下ですけれど泣かしたって怒るんですよ。酷い話です。こちらは死にかけているのに。いや…もしかしたら死んでいたのかもしれない」
エフライムの瞳が細められる。
「広い野原が続いていて、遠くに顔もろくに覚えていない母と妹がいて、こっちに来るなと言うんですよ。向こうのほうは花が咲いていて楽しそうなのに、来るな、来るなといわれる。わけが分からなくて、もがいたら…目が覚めました」
エフライムの腕が下ろされて、逆の手が自分の腕の強張りを解くようにゆっくりと擦り始めた。月光の下で見るエフライムはいつもと違う。か弱く儚げに見える。マリアは身じろぎもせずに、エフライムの言葉を聞いていた。
「生きて…最初に思ったことは…」
そこで言葉が途切れる。ゆっくりとエフライムの瞳がマリアを捕らえた。
「強烈な生への欲求でした。生きていたい。もっと生きていたい。今までいつ死んでもいいと思っていました。自分の命にも他人の命にも執着は無かった。どれだけこの手が血に染まっても、何も感じなかったのに。それなのに笑えるでしょう?」
マリアはゆっくりと首を振って否定した。生への執着は当たり前のことだ。その当たり前のことを当たり前と思えていなかったことは悲しい。
「それで…月が欲しくなったんです」
話の脈絡は無かったが、エフライムの中では繋がっているのだろう。深く聞くことは憚られる気がした。
「月ですか」
マリアは言葉につられるようにして空を見た。綺麗な満月が光っている。やや黄みがかかった乳白色は、暗さに慣れた目には眩しい。思わず目を細めれば、月の中に模様が見えた。魔女とも若い女とも呼ばれる女性の横顔。もしかしたら…月というのは比喩なのだろうか。
「天上の月には手が届かなくとも、地上の月であれば手を届かせることが可能なのではありませんか?」
そう返せば、エフライムが意外そうな顔をする。なぜそんな顔をするのだろう。このヴィーザル王国で、王の次に権力があるといわれている四役のうちの一人なのだ。七大公爵がいたとしても、エフライムがそれに劣る伯爵だとしても、王の決定に影響を与えるのは四役とされている。
「そうか…。僕はそんなに遠くまで来たんですね…」
ぽつりと。今度こそ本当に独り言だったのだろう。エフライムは途方にくれたように呟いた。
しばらくじっと考え込んでいたが、ふとマリアがいたことに気づいたように顔をあげると、にっこりと微笑んだ。いつもの彼の笑みだった。
「すみません。ちょっとまだ頭がぼーっとするときがあるようです。詮無い事をお聞かせしました」
「いいえ。私のようなものでもお話を伺うぐらいはできますから」




