第3章 飢饉(2)
※飢饉当時の話が入ります。厳しい状況の話なので、耐性がない方はこの回はスキップしてください。
部屋の中へと通されたアレスは、ラーキエルと向き合って座っていた。後ろにはライサが控えている。ラーキエルは長椅子に半ば身体を寝かせるようにしていた。
「身体がしんどくての。許してくだされよ」
「はい」
アレスはラーキエルに返事をしつつも、緊張していた。だが予想したような罵倒は無かった。ラーキエルは淡々とアレスに問う。
「それで、なんですかの? わしに用は」
「あ…あの…飢饉のことを」
そう伝えたとたんに、ラーキエルが大きなため息をついた。
「そうですの。このままだと大飢饉になりますじゃ」
「大飢饉」
「はい」
白髪交じりの髪に、皺だらけの顔が頷く。数年前に見たときにはギラギラと光っていた薄茶色の眼は、今はやや曇って見えた。
「飢饉になると…どうなるんですか」
アレスはおずおずと目の前の老婆に尋ねた。老婆がにやりと嗤う。
「そんなに怖がらんでも、取って食いやしませんでの。陛下はネレウス王の令孫。ネレウス王はわしにとっては恩人じゃ」
「それは…」
アレスは肯定も否定もできずに言いよどむ。
「まあ、それは良いですじゃ。まずは飢饉のことですじゃの。大飢饉が来たのはわしが子供のころのことでしたじゃ」
それからラーキエルは飢饉について語った。作物が枯れ、食べるものが無くなる。わずかな作物を食べつくすと、次は野草を食べつくし、家畜を食べつくす。
「それでも足りなくなって、馬はもちろんのこと、犬や猫も食べましたじゃ」
「犬や猫…」
「煮て食べるんじゃが、泡が多くての。猫はさらに骨が多いじゃが、それでも食べられるだけ良かった。それから蛇や蛙も食べましたの」
思わずアレスは絶句した。
「大きな蜘蛛や芋虫はご馳走じゃって」
後ろでレイラが、うっと喉を詰まらせたような音を立てる。
「それらすらも食べつくすと、種籾も食べるですじゃ。こうなったらもう翌年の収穫は望めなくなりますじゃの。あとは奪うしかないんですじゃ」
「奪う…」
ラーキエルは頷いた。
「一番怖いのは、一度大飢饉となると数年続くことですじゃ。種籾すら食べてしまえば、収穫できる望みが絶たれますのぉ。皆、飢えを凌ぐために盗み、人殺し、なんでもやりますじゃ。しかも食べられなくなって子供を捨てる親まで出始める始末。年老いた者も口減らしに森に数多く捨てられました」
「それって…」
「地獄ですじゃ」
そんなことになったら、国が荒れる。多くの人が死ぬ。アレスはようやく実感として想像することができた。
「一体どうやってその状態から脱したんですか」
「そのときは…他国からの荷が届いて…徐々にじゃが立ち直ったんじゃと思います」
ラーキエルは記憶を辿るように、考え考えしながら答えた。
「どうやったら…それを回避できますか? 今までどうやって回避を…」
言葉が詰まって出てこないアレスに、ラーキエルは優しく微笑んだ。この老婆のこのような微笑みを見るのは初めてだった。
「陛下はネレウス王の加護がある方じゃからの。きっと乗り越えられますじゃろ」
「それは答えになっていません」
「そうじゃの」
ラーキエルが目を閉じてじっと考え込む。しばしの沈黙の後で、その瞳が開き、アレスを捕らえた。先ほどまでと違い、いつかのようにきらめきを放っている。
「ミレットを探しなされ」
「ミレット?」
「そうじゃ。猫がじゃれるような…穂を垂れた形をしておる。味は麦には落ちるが、食べられる。しかも生育が早い。荒地でも育つ」
アレスはライサを見た。
「ライサ、知ってる?」
「いいえ」
ライサは戸惑いつつも首を振った。ラーキエルの目がライサを捕らえる。
「おまえさんは…マギじゃね?」
ライサが目を見開いた。
「わ、私は…」
「答えんでいい。ここへおいで」
ラーキエルはライサに手招きをした。おずおずとライサが壁際から離れて、ラーキエルの前へと進む。
「ここへしゃがんでおくれ」
言われるままにラーキエルの傍の床へと膝をついた。ラーキエルの片手がライサの額へと置かれる。
「目を閉じて。心を空っぽにするんじゃ」
言われるがままに目を閉じる。心を空っぽにするという意味が分からなかったが、目の裏に見える暗闇に意識を集中した。
「これがミレットじゃ」
ライサの脳裏に浮かぶのは麦に似ているけれど、もっと小さな植物だ。緑色の細い葉と碧く垂れる穂を持っている。
「分かるかの?」
「はい。どんなものかは分かりました」
ライサが目を開くと、目の前にラーキエルの光る薄茶色の瞳があった。
「それを探すのじゃ」
「はい」
ライサが素直に頷くと、ラーキエルの視線はアレスに向かった。射抜くような視線に、アレスはたじろぐ。
「ミレットを見つけただけでは、この飢饉は逃れられんよ」
「それは…」
「回避できるかは、陛下…アレス様次第」
ラーキエルの言葉にアレスは胸を突かれる思いがした。
「僕に何が…」
「この国を率いるのは陛下じゃから。民の幸せは陛下にかかってますじゃよ」
「無理だっ」
反射的にアレスは叫んでしまった。それは国王としての矜持も何もなく、ただ十五歳でしかない少年と青年の間にいるものの正直な叫びだった。だがラーキエルは容赦しない。
「無理でもやるしかないんですじゃ。陛下。あなた様が動かなければ、民は飢えて死んでいく。犬を食い、猫を食い、虫を食い、親が子を捨てる地獄を、また繰り返せと…民に言うつもりですか。陛下っ」
アレスはラーキエルの視線から逃れられなかった。視線をそらし俯きたいのに、それすらラーキエルは許さない。




