第2章 覚醒(6)
アレスが目を覚ましたのは、エフライムたちが快癒してからすでに丸一日経っていた。すっきりとした目覚めで、身体を起こしたとたんにお腹がぐーっと大きな音を立てた。大きく伸びをしたところで、扉が開いてライサが入ってきた。
「ご気分はいかがですか?」
アレスはライサににっこりと笑いかけた。
「最高。すっきりした気分だ」
ライサは思わず、アレスの笑顔に当てられたかのように頬を紅潮させながら、視線をそらした。
「そ、それは良かったです」
「ラオは? 目を覚ました?」
ライサは再び視線をアレスに戻す。
「はい。すでにお目覚めです。それから…あの…バース様や近衛の皆様が快復されて」
「うん。知ってる」
「え? あの…ご存知なんですか?」
そう言われてから一瞬アレスは考え込んだ。いや、大丈夫だ。朝までラオと一緒にいたから知っていてもおかしくない。
「うん。治療しているの、見てたから」
「ああ。それで…。そうですね。クレテリス候と一緒に眠っていらっしゃったと聞きました」
その言葉にアレスは「ぐーっ。きゅるきゅる」という空腹を訴える音で答えることになった。思わず顔が赤くなる。ライサは慌てたように頭を下げる。
「すぐにお食事をお持ちします」
そしてアレスの返事も待たずに、パタパタと足音をさせて走り去ってしまった。思わずアレスは呆れてように、ライサが消えた扉を見ていた。
「ライサって…元はお嬢様って聞いてたけど…らしくないよね」
誰ともなしに呟いてから、くすりと笑う。ただ澄ましているよりも余程いい。
部屋でのんびりと食事をしてから、廊下を出たところで申し合わせたようにイーゴリがやってきた。ボリースも共にいる。その顔を見てアレスは、もう一つ抱えていた問題を思い出した。エフライムたちの快復にすっかり押しやられていたが、近い未来の問題、飢饉も残されているのだ。
「陛下。お目覚めになって良かったです。すみませんが、直ぐにこちらにいらしてください」
有無を言わさずにイーゴリは、アレスとアレスに従っていたライサを城の裏へと案内した。
裏口を出たとたんに見えた光景にアレスは呆然とする。目の前がすべて畑だった。本来だったら表同様に庭園があってもおかしくない。せめて馬場があるかと思ったが、隅のほうへ厩舎が見える程度で、一面が畑だった。
「徹底していますね」
「何がですか?」
アレスの呟きは、イーゴリに通じなかったようだ。
「さあ、どうぞこちらへ」
イーゴリに急かされるまま、あぜ道を歩いて誘導されていく。
「城の裏は実験農場になっているんです」
意味が分からずアレスが首をかしげると、イーゴリが得意げに説明し始めた。
「色々な種類の植物を植えて、その生育環境での違いなどを調べているんです。これによって、多く収穫できる植物や、虫に強い植物を特定しようとしています」
「そうですか」
言われていることがさっぱり分からない。なぜ植え方を変えると、多く収穫できる植物がわかるのか。そもそも芋なら芋の収穫量、トウモロコシならトウモロコシの収穫量というのがあり、それは作付けの面積によって変わるだけではないのか。
頭の中では疑問が飛び交っていたが、イーゴリの勢いに押されてしまった。
「それで、こちらの畑では、トウモロコシをいくつかの種類に分けて生育していまして」
トウモロコシに種類があるのだろうか? その疑問もイーゴリの勢いに押し流されていく。イーゴリはアレスが疑問に思っている間も、立て板に水を流すように話し続けている。
「この葉の大きさと、緑の色合い、それに厚みが違っていて…」
二つの葉を見せられるが、違いがさっぱり分からない。
「フレミア公、何をしているんですか」
ベルフェの声が聞こえたので振り返れば、両手を腰に当てて仁王立ちをしている。とたんにイーゴリはばつが悪そうに頭を掻いた。
「ああ。すまない。ついうっかり、説明していたら熱が入ってしまって…」
「熱が入るのは結構ですが、現在の状況を認識してください」
「そうだった。そうだった」
これではどちらが主か分からない。ベルフェはメガネのふちに手をやって位置を直すと、アレスのほうへ向いて軽く会釈をした。
「こちらへどうぞ」
畑の中で突っ立ったままのイーゴリを置いて、ベルフェがアレスを案内し始める。
「こちらです」
一番奥まったところにあった畑には、麦が植えられていた。そこにはお茶を入れてくれた男性、タキが立っていて大きな身体を丸めてペコリと挨拶をしてくる。
「タキ・ユープフェーカにはもうお会いになっていらっしゃいましたね。彼はこの実験農場の責任者なのです。農作物と料理の腕は確かですが、本来は陛下にお目見えするようなものではありませんので、礼儀作法の適っていない点についてはご容赦ください」
紹介された男性は、緊張のために身体を硬くしながら、アレスに対して膝をついて頭を下げた。
「ああ。気にしないで。それより説明を」
アレスが言うと、タキは立ち上がって、手前にあった苗の穂の部分を見せる。
「こ、こちらを、見、見てくだっさ…いただき…えっと、ご覧ください」
アレスが思わずベルフェのほうを見れば、ベルフェも困った顔をしている。
「言葉遣いも気にしないで」
アレスがそう伝えれば、タキはベルフェに伺うような視線を向けた。そしてベルフェが頷くのを見て、ようやく普通に話し始める。
「この穂先なんすけど、ここ黒い穂ができてるっす。俺らの村では、じいちゃんたちが獅子の爪って呼んでたっす」
「獅子の爪?」
アレスの問いにタキは頷いた。
「これができる年は病気が流行るっすよ」
「病気…一体どんな」
「手や足が黒くなるっすよ。酷くなると、足の指や手の指がもげて落ちるっす」
アレスは眉を顰めた。後ろにいるライサからも息を呑む音がした。
「気がおかしくなる奴も出たことがあるっちゅう話っす」
アレスはまじまじと黒くなった穂先を見た。緑の穂の中に黒い獣の爪のような穂がぽつりぽつりとできている。
「こいつは大きくなると黒く長くなるっす。こう曲がって」
タキは人差し指をまげてみせた。
「こうなると、悪魔の爪って呼ぶっす」
「悪魔の爪…」
アレスは曲げたままのタキの人差し指を見ながら、この黒い穂が大きくなったところを想像した。この黒い爪と共にやってくる病気。
「治療方法は?」
タキが首をふる。
「村から離れるとよくなることがあるそうっすけど…。どこまで本当か…。罹ったら治るまで耐えるしかないっすね」
「そう」
アレスは考え込んだ。
「それはどれぐらいの範囲で起こるもの?」
「さぁ…俺もさっぱり。前に起きたときには、じいちゃんが若いころって言ってたっすから」
「どういうこと?」
「獅子の爪は見つけたら、燃やすっす。そうすっと病気が流行らないことがあるっすよ。見逃して悪魔の爪になっちまうと流行るっす。悪魔を見逃した印っすよ。だから悪魔を見逃さないように、小さいうちに燃やすっすよ」
そう聞くと、目の前の黒い穂が薄気味悪いものに思えてくる。アレスは自分の頬が強張っているのを感じた。




