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ヴィーザル王国物語  作者: 沙羅咲
獅子の爪
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第2章  覚醒(2)

「細かい時期は分かりません。天候不順で穀物育たないことがあります。そうすると飢饉になります。夏まではまだ食料が持つでしょう。問題は冬です。この話が下手に広まれば大変なことになります。人々はパニックとなり、不要な食料を買い漁り、備蓄に回らないことになる。だから来ていただいたのですが…」


 イーゴリは一気に話すと視線を落とした。


「もしかしたら間に合わないかもしれません。森の奥で既に食料が減っているのであれば、それを食べる動物が減り、狼も食べるものが無くなって出てきてもおかしくありません」


 アレスは飢饉を経験したことがない。イーゴリの深刻さが今ひとつ理解できないまま、灰色の畑を思い出していた。


「来る途中で…しばらく畑が灰色だった…」


「灰色?」


「作物の葉が灰色になって枯れていた」


「なんとっ」


 イーゴリが驚きに目を丸くする。


「それはいけません。それはマズイです。非常にマズイ」


 そう言うとイーゴリは、ぱっと立ち上がった。


「陛下。すみませんが、いそいでうちの農作業場で相談してきます。また参ります」


 挨拶もそこそこにイーゴリは駆け出していった。アレスだけが残される。目の前で奪われていくエフライムたちの命と、近い未来に来るであろう飢饉。


 知識としてしか知らなくても、飢饉が起きれば何が起きるかは分かる。多くの人の命が失われるのだ。


 アレスはじっと自分の手を見た。男というにはまだ華奢で弱弱しく、少年というには大きな自分の手。そして目を瞑る。


「お父様、そしてお祖父様。…グリトニル王、ネレウス王。あなたなら…どうしましたか」


 じっと目を瞑り、心の中で彼らに問いかけた。




 真夜中、アレスは椅子でうつらうつらとしているマリアを置いて、部屋から抜け出した。月明かりだけでエフライムたちが寝ている部屋を目指す。


 扉の前には誰もいない。


 そっと開けば、中からは血と膿の匂いがした。あちらこちらで聞こえる唸り声。ベッドが足りなかったのだろう。皆、床に寝かされていた。


 オージアス、ユーリー、ゼイル…皆が苦しそうな顔で、呻きながら横たわっている。エフライムは部屋の一番奥に横たわっていた。月明かりの中、その傍にはラオが座り込んでいるのが見える。


「来たのか」


 疲れきった声でラオが呟いた。こちらを見ているであろう顔は逆光となっていて、表情が見えない。


「うん」


 アレスはそれだけ答えると、ラオの隣でエフライムの傍にしゃがみこんだ。エフライムの身体は腫れていて、それは顔も例外ではなかった。エフライム本人と思えないほどに、目も口も頬も腫れあがっている。その顔を見ているだけで、アレスは涙が溢れてきた。


「昼までは…持たないだろう」


「ラオ…」


「なんだ」


 アレスはラオに外に居て欲しいと言おうとして思いとどまった。居てもらったほうがいい。アレス一人では、気持ちが折れてしまいそうだった。


「少し離れて…でもそこに居て」


「分かった」


 何も聞かずに、ラオはエフライムやアレスから少しばかり離れて、再び座り込んだ。アレスはラオがいた場所に座り、エフライムの顔を間近に覗き込む。


「エフライム…僕はまだあなたから教えて貰いたいことがたくさんあるんだ」


 呟きに対する応えはない。アレスの瞳から落ちた水滴が、エフライムの頬へと落ちる。


「剣だって、僕はあなたほど上手じゃない。それに…僕に、相手を思い通りにする方法を教えてくれるっていったのはエフライムだよ。僕が大きくなったら、教えてくれるって…言ったじゃない」


 ぽつりぽつりと落ちる水滴がエフライムの頬を濡らす。エフライムの喉から、ただヒューヒューと音のする荒い呼吸音が聞こえてきていた。


「ルゥ兄さんとして、僕に言ったんだよ。覚えてる? 教えてくれるって…嘘にしないでよ…」


 アレスはエフライムの右手を握ろうとして、その手は握るのが難しいほどにパンパンに腫れていることに気づいた。右手がこんなにも腫れているのであれば、狼に噛まれて傷ついた左腕はどうなっているのか考えたくなくて、そちらに視線が移せない。


 アレスはエフライムの変わり果てた顔を見た。彼の優しい瞳を思い出す。その瞳は腫れた瞼に隠されていた。ずっと盾となり矛となり、アレス自身を守ってくれていた近衛隊長。彼を失うことなど考えたくなかった。


 だが、この瞬間にも彼の命は砂時計の砂が落ちるようにして、消えていっている。なおも溢れてくる涙を、アレスはぐっとこぶしで拭った。


「エフライム…死なせない。僕は絶対にエフライムを死なせない」


 そう呟くと、そっと自分の右手をエフライムの額に乗せる。触れた手から感じる体温は燃えるかと思えるほどに熱かった。


 アレスは涙を堪えて必死に祈り始めた。自分にはその力があるはずだった。


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