第1章 王の旅(9)
「畑だ…」
アレスの呟きは、皆の呟きでもあった。
本来は意匠を凝らした庭園があるべき場所は、どうみても畑だった。ポツリポツリとしゃれた石の像が建っているが、しかし周りは何度見ても畑だった。
「これは…」
あまりの光景にエフライムも思わず口ごもれば、ボリースが苦笑いをした。
「フレミア公が庭を改造して、畑にしてしまいまして…。噴水なんかは撤去が面倒だっていうんで、そのまま鉢の代わりにして土入れて、地下茎の植物を植えてあります」
よく見れば、広い畑の真ん中にあるのは水が出なくなっている、過去に噴水だったものらしい。
「まずはどうぞこちらへ」
玄関口に進めば、ずらりと城の者が並んで出迎えてくれる。アレスが馬車を降りるとすらりとした男性が目の前で膝をついた。頭を下げたところで、長く伸ばしたブロンドの髪の毛が後ろで括られているのが見えた。
「ようこそケレスへ。アレス陛下。歓迎いたします」
慣れた手つきでアレスが手を差し出せば、軽く唇がアレスの指輪に触れる。合図だけで彼を立たせると、アレスは首をかしげた。
「あなたは?」
「フレミア公の補佐官をしております。ベルフェ・ガイと申します」
やわらかい声は男性にしては高く、優しそうな碧い瞳がメガネの奥からアレスを見る。
「フレミア公は奥でお待ちです」
そう言うと、アレスたちを案内して城の奥へと入っていった。城の中も外と同じく素っ気無いほどの作りだ。頑健だけれど優美さとは程遠い。
「護衛の方は、どうぞこちらの控え室へ」
一つの扉が開かれて、エフライムとラオ以外の者達はそこで待つことになった。その隣の部屋の扉の前にベルフェはアレスたちを案内する。そして扉を開けようとして一瞬躊躇した。
「少々、お待ちください」
中を伺うようにして、できるだけ扉を開けないように滑り込んだ後、何やら声が聞こえてくる。軽い言い争いをしているような声だった。
「だから言ったじゃないですか」
「わかった。わかったから」
「すぐに着替えてください。すぐっ」
「着替えなんて無いって…」
「無いってどういうことですかっ」
片方はベルフェの声だ。もう片方は渋い男の声だった。
「お待たせするほうが、まずいんじゃないっすかね」
のんびりした男の声もしてくる。
「ああ、もうっ」
ベルフェの切れる声がして、アレスたちは扉の前で顔を見合わせた。そして扉が開かれる。すました顔をしたベルフェが、アレスたちを中に招きいれた。
「どうぞ。こちらがフレミア公です」
申し訳程度のソファーセットと、わずかばかりの調度品が置かれた部屋にいたのは、礼服を着た白髪交じりの頭に、筋肉質のがっしりとした体格をした男だった。年は50歳前後だろうか。
「ようこそいらっしゃいました。アレス陛下。お初にお目にかかります。イーゴリ・クルフです」
そういうと、アレスの前に膝を付こうとして、膝をパンパンとはたいた。見れば膝の部分に盛大に泥がついている。
「あ、これはですね。畑でついうっかり、膝をついちまったら、こうなりまして」
しどろもどろに言い訳をするイーゴリに、ベルフェが冷たい視線を送る。
「いえ。あの…その…」
自分の父親か祖父かという年の男が、自分の前で真っ赤になって言い訳をしている。思わずアレスは噴出してしまった。笑われてさらに焦ったイーゴリが、意味を成さない言葉を吐いていると、ベルフェがイーゴリの代わりにアレスの前で再び膝をついた。
「申し訳ありません。私では代わりになりませんが、お詫びさせていただきます」
アレスはもうどうでもいい気分になっていた。もともと儀礼的なことは嫌いなのだ。無ければ無いでいい。
「いいです。立って。気にしないで」
「申し訳ありません」
「いいから」
そしてイーゴリのほうへと向くと、片手を差し出した。
「初めまして。数年前はありがとうございました。直接お礼を言うと思っていたけれど、一度も城のほうへは来ていただけなかったので、初めてお会いしますね」
アレスの言葉に、またしてもベルフェが冷たい視線をイーゴリに送る。イーゴリはアレスと握手をしながら、苦笑した。
「あ~。そのですね。ご覧の通り、私は田舎者ですから作法などに疎いもので…お城でのパーティーなどでは萎縮してしまうのですよ。それに数年前も、駆けつけたときにはほとんど終わっていて、お役に立てなかったというか…」
アレスの視界の隅で、ベルフェがイーゴリの足を蹴るのが見えた。
「いてっ」
「どうぞ陛下。こちらへお座りください」
痛がっているイーゴリを置いて、ベルフェがアレスにソファーを勧める。アレスが座り、エフライムとラオがその後ろに立つ。正面にはイーゴリが座り、同様にしてベルフェはイーゴリの後ろへ立っていた。
部屋の隅には一連のやり取りを見ていた男が一人。こちらはイーゴリよりは若いが、ベルフェよりも年上だ。やはりイーゴリ同様、陽に焼けていて、がっちりとした良い体格をしている。その男がごつい指には似合わない繊細さで、ソファーの間にあるテーブルにお茶を運んできた。
「タキの淹れた茶は一品ですから」
イーゴリにそう勧められた茶は、ふんわりとどこか甘い香りがする。アレスは一瞬だけ躊躇したが、ゆっくりと口をつけた。
「おいしい」
「でしょう?」
自分のことを褒められたようにイーゴリが破顔する。




