第1章 王の旅(2)
「陛下」
バルドルの声音が変わる。
「これは正式なフレミア公からの要請ですぞ」
「でも、僕は行きたくない」
「そういうわけにはいきませんぞ」
アレスはバルドルを避けるように、斜め下に視線を落として繰り返した。
「行きたくない」
エフライムは違和感を覚えた。アレスは正当な理由無しに我侭を言うような子ではなかったはずだ。彼は自分の主人の前に回りこんで膝を突くと、視線の高さをそろえてアレスの茶色の瞳を覗き込んだ。
「どうしたんです? そんな風にただ断るなんて、あなたらしくない」
その言葉を聴いた瞬間に、アレスは目の前にしゃがみこむ近衛隊長を見た。だが視線は合わせない。
「そうやって懐柔しようとしても無駄だから」
その言葉で自分の体勢に気づいたエフライムが、慌てて立ち上がり両手をあげる。
「そんなつもりはありませんよ」
エフライムは催眠術の名手だ。だが単にアレスの表情を見たかっただけで、彼に対して催眠術でどうこうしようとは思っていたわけではない。むしろそのように受け取られたのは心外だ。しかしその感情は綺麗に押し殺して、再びアレスに穏やかに声をかけた。
「何かお気に召さないことがありましたか?」
とたんにアレスが勢いをつけて立ち上がった。
「そうやって僕の機嫌とっても行かないったら、行かないっ」
わざと足音をさせるような乱暴な歩き方で、寝室があるドアへと向かう。
「皆、出て行けっ」
そう叫ぶと、アレスは姿を消してしまった。
困惑したのは残された面々だ。互いの顔を見るが、理由に思い当たるものがない。仕方なくバルドルが首振って宣言した。
「今日のところはお開きじゃ」
ぞろぞろと部屋から出て行こうとしたところで、ラオだけがアレスが篭った寝室へと向かい、ドアを開いてスルリと中へ入り込んだ。
皆が出ていって隣の部屋からは気配が消える。アレスは灯りもつけずにベッドの上にうつ伏せで横たわっていた。
「誰?」
顔をシーツに押し付けているためにくぐもった声が出る。
「俺だ」
ラオは静かに答えて、ベッドの端へと腰かけた。そのまま静かに時が過ぎていく。
しばらくしてアレスがうつ伏せから横向きへと動いた。顔はラオから見えないほうへ向けられていて表情は見えない。
「何を恐れている」
ラオが静かな声で問う。アレスの肩が微かに揺れた。
「旅なら安全だ。お前を害するものは俺とエフライムで退ける」
「違う」
即座に返事があった。ラオは重ねて問うことはせず、沈黙があたりを包む。
「怖いものなんか無い」
アレスは嘯いた。だが声の震えが何かを隠していることを伝えてしまう。それでもラオは重ねて問うことをせずに、黙って傍にいた。
「あのさ」
暗闇の中でポツリと声がする。
「お祖父様のこと…どう思う?」
唐突な問いに、ラオは考え込んだ。アレスの祖父、ネレウス王。ラオの父フォルセティが仕えていた主であり、マギを開放した王。
「感謝している」
「そう」
ラオの言葉をどう思ったのか何も言わないまま、アレスの口から出たのは「一人にして欲しい」という言葉だった。
ラオは何も言わずに静かに立ち上がると傍から離れていった。暗闇の中にアレスだけが残される。
「感謝…本当にそうなのかな。本当にそう思う?」
ぽつりと呟かれた言葉を聴くものはいなかった。




