第4章 兄弟(1)
翌朝、夜も明けぬうちにハウトは出発した。そしてその日からルツアによるアレスへの乗馬と剣の特訓も始まった。
人に乗せてもらったことはあっても、自分で乗ることはあまり無かったアレスは、自分の目の前に立つルツアと馬とをじっと見比べた。
「なんか大きい」
アレスの言葉に、ルツアが微笑んだ。
「ご自分で乗ろうとすると大きく感じるものです。でも慣れてしまえば大丈夫。それに乗馬は馬とのコミュニケーションなんですよ」
「コミュニケーション?」
「ええ」
ルツアが愛しそうに馬の首筋を撫でた。
「馬を思い通りに動かそうとするのではなくて、馬と協力して意図した通りに動くというとわかりますかしら? そうですね。馬と意思疎通をしていくものなんです」
アレスはルツアの言葉を聞きながら、じっと馬の顔を見つめた。長い顔に似合わない小さな黒い瞳が、キラキラとしている。
「じゃあ乗ってみましょう。馬に乗るまでは、私が抱えますから、左手で手綱と鬣を掴んで。そして右手で鞍を掴んで、鐙に足を乗せて、しっかりとお腹を鞍に乗せてください」
ルツアがアレスに手綱を渡すと、アレスを背中から抱えこんだ。そのまま持ち上げてくれる。その動きに従って、言われたとおりに左手で手綱と鬣を握り、右手で鞍の縁を握って、鞍の上に腹ばいになる。
「そのまま上がってしまってください」
言われるままに右足をあげると、なんとか馬に跨ることができた。ルツアが鐙の調整をしてくれる。
「まずは馬に身体を慣らしましょうか。私が手綱を握って歩かせますからね。馬のお腹を両足で蹴ってください」
言われるままに蹴ろうとするが、バランスを取りつつ蹴るのが難しい。何度か空振りをするとルツアが言った。
「腿の内側に力を入れて身体を固定して、膝から下で蹴るようにしてみてください」
祈るような気持ちで、言われたとおりにやってみると、馬がのろのろと歩き始めた。
「お見事です」
下の方からルツアの声がする。馬の上にいると、普段は自分よりも背が高いルツアが下になる。当たり前のことだし、今まで城で誰かの馬に乗せてもらっていたときも、その状態だったはずだ。だが自分一人で馬に乗っていると、見えていなかったものが、見えてくるようだった。馬に身体を預ける。馬の歩くリズムに合わせているのは、そう難しいことではなかった。
「では、少しずつ早い速度にしていきましょうね」
ルツアが見上げて、にっこりと微笑んだ。
もともと筋が良かったのか、二週間もするとアレスは馬に乗れるようになっていた。さすがに身体が小さいので乗るときは一苦労だったが、乗ってしまえばなんとかなってしまう。ただし、剣の方はなかなかうまくいかない。やはり大人用では重いというのもあった。
その日の夕方、久しぶりに庵にいたエフライムが、アレスとルツアの剣の練習風景を見たあとの夕食で言った。
「やっぱりアレス用の剣がいりますねぇ。小ぶりなのが」
スープを飲んでいた手をとめてルツアがエフライムに答える。
「筋はいいと思うんですけどね、なんせ腕力がおありにならないから」
その言葉にエフライムは苦笑する。腕力が無いとルツアに言われてしまったら、アレスも形無しである。その証拠にアレスは、ちょっとむっとした表情を見せたが、本当のことなので口を出すことだけはやめたようだ。
「明日、また街に行って調達してきましょう。合わない武器を使うことほど、戦場で危ないことはないですからね。まあ、私たちは戦場へいくわけじゃないですけれど、森だって盗賊や狼のたぐいも出ますしね」
その言葉を聞いて、フェリシアが顔を曇らせる。
「ハウト…大丈夫かしら」
エフライムはルツアと笑うような視線を交わしてから、フェリシアに答えた。
「ハウトなら大丈夫ですよ。下手に盗賊がでてきたら、逆にハウトにやられるでしょうね。あいつなら盗賊を身包み剥しかねないですよ。しかも強運の持ち主ですし。心配する必要はありません」
その言葉に、ルツアとラオは苦笑いをする。エフライムはすました顔でスープを一口飲むと、もう一度言った。
「とにかく剣ですね。あとは何か入用なものがありますか。もう二週間経ちましたからね。もうハウトは向こうの館についているでしょう。あまり時間はないので、もしかしたら街へ行けるのもこれが最後か、あと一回か…というところだと思いますよ」
「いくつか頼みたいものがある」
ラオがぼそりと言った。
「ここでは取れんものなのでな。あとで書付を渡す」
「了解。ルツアとフェリシアは?」
フェリシアは首を振った。ルツアがエフライムを見る。
「弓矢があるといいのだけれど。それは手に入るかしら?」
エフライムが頷いた。
「ええ。多分ね。手に入れてきますよ。あと馬ですね」
すでに、今までの調達で何頭かの馬を連れ帰ってきたが、アレスも乗るのであれば、まだ一頭足りなかった。
ルツアが頷く。
「もしも余分に手にはいるのであれば、荷物を乗せられるように、もう一頭いるといいかもしれないけれど…」
「まあ、それはやめておきましょう。二頭を操ると、どうしても遅くなりますしね」
「そうね」
黙っていたアレスが、口を開いた。
「僕も行ってもいいかな。僕の剣を手に入れるんだったら、一緒に行きたいんだけど」
皆の視線がアレスに集まる。エフライムがふっと表情を緩めた。
「いいでしょう」
その言葉に今度はルツアが驚く。
「エフライム…でも」
「大丈夫。アレス王子だとは誰も気づかないですよ。今のアレスなら」
はっとした表情にルツアもアレスもなった。エフライムが続ける。
「毎日剣の稽古をしているせいもあるけれど、顔がしっかりしたでしょう? それに少し痩せられたから」
アレスは顔に手をやった。ふっくらとしていた頬は、触るとごつごつするようになっている。そういえば、ここに来てから自分の顔をじっくり見る機会がなかったから、あまり見ていなかった。自分の手を見つめると、剣の稽古でできたまめが硬くなっていて、まるで以前の自分の手とは違ってしまっていた。
「多分、年よりも少し上に見られるでしょうね」
そう言ったエフライムの表情は少しさびしそうだった。ルツアも辛そうな表情に一瞬なった。無理やり成長させられたアレスのことを思ったのだった。
「まあ、それに社会見学も少しは必要でしょう。一緒に庶民の生活を見に行きましょう」
気を取り直したように明るい声でエフライムが言う。ルツアもそれに乗るように明るく返した。
「あまり変なところに連れていかないでちょうだいね。エフライム」
「わかっていますよ」
エフライムは微笑んだ。
十日ほどで帰ってくることを言い残して、翌朝、エフライムとアレスは旅立った。馬は一頭だけ連れている。帰りのことを考えてだとエフライムはアレスに言った。
「街に出るまでに、約四日かかりますからね」
「どこの街までいくの?」
馬上でエフライムの前に乗っているアレスは、彼の表情を見ようとエフライムの方を振り返りながら聞いた。とたんにエフライムが注意する。
「振り返っちゃ駄目ですよ。アレス。落ちます」
慌てて前を向く。たしかに足場が悪いところを馬が歩いているので、揺れは相当なものだった。
「今回はヘメレまでね」
「港町の?」
「そう。今まではヴィーザルの首都イリジアだったんですけれど、あまり同じところに行くのも良くないですからね」
「そういうものなの?」
「そういうものですよ」
笑いを含んだエフライムの声がアレスの耳元に響く。森の中は静かだった。あまり話すこともなく、森をどんどん進んでいく。木漏れ日がきれいだと見ているうちに、太陽は頂点を通り過ぎたようだ。椅子になるような切り株を見つけて、エフライムが馬を止めた。
「ここらへんでお昼にしましょう」
馬を降りて、木に留めると、エフライムはルツアが持たせてくれた包みから、パンとチーズを取り出す。パンもチーズも二つにわけると、片方をアレスに渡した。
「食事が終わったら、剣の練習を少しだけやりましょう」
エフライムの言葉に、アレスは驚く。アレスが普段練習で使っている剣は、重いので置いてきてしまっている。エフライムはアレスの方を見るとにっこりと笑って言った。
「本当の剣を使わなくても、木の枝でもいいでしょう? どの程度上達したか見せてくださいな。第一、こういうものは毎日やらないと駄目ですからね。怠けさせたら私がルツアに怒られてしまいますよ」
「ルツアにも頼まれたの?」
「ええ。もちろん」
エフライムは、最後の一切れを口の中に放り込むと、水筒から水を一口飲んだ。そしてまだ食べているアレスをおいて、立ち上がって、落ちている枝を品定めし始める。
「うーん。これがいいかな」
剣の長さに近い二本の枝を拾うと、一本をアレスに渡した。
「では、どうぞ」
エフライムの声を合図に、枝を剣に見立てて、アレスはエフライムに切りかかる。エフライムは一歩も動かないで、それを払った。その様子を見ながら、今度は左に切りかかる。しかし、それも軽く払われてしまった。
「アレスの剣は素直ですね」
くすりとエフライムは笑う。その姿にアレスはカッとなって、もう一度頭の上から枝を下ろそうとした。しかし、それもエフライムに払われてしまう。先ほどから相手は全然動いていない。
「じゃあ、私から行きましょう」
とエフライムは言うと、右に剣を出してきた。アレスは払おうとしたところ、そのアレスの枝は空を払い、ぽかっと頭を枝で叩かれる。
「これで、アレスはもう死んでいますね」
エフライムは穏やかに笑うと、そのまま今度は左からなぎ払うように枝を出す。アレスはその枝を追って払おうとすると、今度は腕を枝で叩かれた。
「今度は剣を落としているでしょうねぇ」
またエフライムは軽い口調で言う。息を上げ始めたアレスに比べて、エフライムは先ほどからほとんど動いていない。今度は頭の上にくる。今度こそと思って、剣の動きを見ていたところで、剣が大きくぐるりと回った。思わず視線をそのとおりに動かしてしまい、その隙に頭をぽかりとやられる。思わずアレスは憮然として表情になった。
「それはずるいんじゃない?」
「なぜです? あなたが勝手に剣の動きを追っただけですよ?」
まだアレスは憮然とした表情をしていた。エフライムは笑みを消して、まじめな表情になるとアレスをまっすぐに見た。
「実戦では二対一とか、三対一っていうこともあるんですよ? だからいつでも、どこからどんな手が出てもいいように視野を広く持って見る必要があるでしょうね」
アレスの憮然とした表情は、痛みを抱えたような表情に変わる。
「あの牢獄のときみたいに…」
エフライムははっとした。辛いときを思い出させてしまった。エフライムは枝を捨てると、アレスを両腕で抱きしめた。少年は、まだエフライムの胸ぐらいの位置に頭があった。
「あまりにもきつく言い過ぎましたね。すみません」
しばらく抱きしめてから、アレスの顔を見ると、少し泣いていたように目が赤くなっていた。それに気づかないふりをしてエフライムはアレスの顔を見て言った。
「さあ、そろそろ出発しましょうか」
アレスは黙って頷いた。
「今度は私があなたに掴まっていますから、馬を操ってくださいね」
エフライムが笑顔で言う。
「ルツアから、結構上達していると聞いていますからね。お手並みを拝見しましょう」
アレスが戸惑ったような顔になる。
「いいの?」
「もちろん。ここからは普通の道になりますからね。まっすぐ道なりに行ってください」
「わかった」
アレスは少し元気になって、枝を捨てると馬のところまで行った。鐙を自分に合わせて調整し始める。その様子を見てエフライムはかすかに笑うと、自分も馬の方へ歩いて行った。
その後の道のりは、エフライムが言うように楽な道だったので、アレスにも十分馬を操っていくことができた。馬を操りながらエフライムに聞く。
「さっき僕の剣は素直だって言っていたよね」
「ええ」
「どういうこと?」
「そうですね。アレスの剣はね、楽に見切ることができるんですよ」
「楽?」
「ええ。アレスは右を狙おうと思って、本当に右に狙ってくるでしょう? だからアレスの力がかかっているほうに向かって払えば、簡単に払えてしまう。しかも狙う前にきちんと目で確認しているもんだから、視線を見れば、どこを狙ってくるか分かってしまうんですよ」
「でも、きちんと標的を見ないと攻撃できないでしょう?」
アレスは少し釈然としない口調で言う。もちろん馬を操っているので、顔は前を向いたままだ。
「見るときは全体を見るんですよ。相手の動きも見ないと攻撃を避けられませんしね。こちらの視線を気取られては駄目です。それに身体のバランスもね。右を狙おうと思って、右に力が入ってしまっては、ばればれですからね。だから全身をバランスよく使わないと」
アレスはルツアが剣を振るっているときの姿を思い出した。まるで踊っているように美しい。それに比べて自分はどうだろうか。
「全身がバランスよく力をいれていると、相手からの攻撃に対しても動きが速くなるはずですよ」
ふっとエフライムが笑う気配がした。
「エフライム?」
「いえね。ハウトのことを思い出したんですよ」
こういう分析は人に言いふらすもんじゃないんですよ。それが弱点になりますからね。とエフライムは前置きした上で続けた。
「ハウトが剣を振るうのをそんなに見たわけじゃないんですが、彼の場合はスピードと力任せの部分があってね。アレスのように素直は素直なんですけど、こちらが予測するよりも早い速度で、剣が到達するんですよ。あれじゃあ、あっと思ったときには切り伏せられているでしょうね」
くっくっくっとエフライムは笑っている。
「本当にハウトの性格が出ていますよね。あの調子で槍も振り回すのだとしたら、敵なら怖いでしょうね」
「強いんだね」
アレスは考え込むように一瞬黙ってから、話を続けた。
「僕も身体を鍛えたら、ハウトぐらい強くなれるかしら」
「その前に、大きくなることですね」
優しい口調でエフライムが言う。
「まあ、大きくなったからといってハウトぐらい強くなるのは難しいかもしれませんね。天性のものもあるから」
「そうだね」
「ルツアは女性ですから華奢ですし、力もあまり無いですけれど、相手の力を使うの上手ですね」
「そうなの?」
「ええ」
後ろで頷いているのをアレスは背中で感じた。
「切りかかってくるのを、一瞬はずしてから、相手を攻撃しているんですよ。本来であれば、払われるところを、はずされるから、相手は体勢が崩れる。そこを狙っていましたね。あと、相手から払われるときも、一緒に自分で払われる方向に剣を動かしているから、反動が少ないし、反撃も早い」
「すごいエフライム」
アレスが感心したような声を出した。
「何がですか?」
「よくそこまで見ているねぇ」
ふっと笑う音がアレスの背中に聞こえた。
「性分でしょうね。人を見ているのが好きなんですよ」
エフライムの手がアレスの肩にポンと置かれた。
「まあ、人それぞれということです。アレスはアレスの剣を見つければいいんですよ」
アレスは肩に手の暖かさを感じて頷いた。
「うん。そうだね」
そして、はっと気づく。
「ねえ、エフライムの剣っていうのは、どういうのなの?」
その言葉にエフライムは苦笑してしまった。
「さっきも言ったでしょう。そういうのを言うと弱点になりますからね。聞かないのが礼儀というものですよ」
その言葉に反応するように、アレスは考えこんだ。さっきの稽古を思い出すけれど、よく分からない。そんなアレスの表情に、ふっと笑ってエフライムは続けた。
「教えてあげますよ。私の場合は、フェイントですね。右と思わせて、左をつく。左と思わせて足元を。ハウトほどの力はないですからね。だから相手の動きに合わせて、苦手だと思われるところを攻めていくわけです」
アレスは納得した。さっき見たあれだ。
「どうやって相手が苦手かどうかを見極めるの?」
アレスは純粋に疑問に感じたところをぶつけてみた。しかし返って来た答えはそっけなかった。
「内緒です」
思わず振り返りそうになったところで、エフライムの手がアレスの頭を固定した。
「前を向いてくださいね。一緒に落馬するのは嫌ですよ」
アレスが不満顔で前を向くと、エフライムの声がからかうような調子を含んで耳元に響いてきた。
「仕方ないなぁ…教えてあげますよ。相手の動きが少ないところが、苦手なところです。例えば一番初歩的なところだと脇ですね。初心者は脇が甘くなる。両肘を開きがちになるので、防御できないんです。そこを狙うんです。ちなみにある程度なれてきたら、肘をきちんと身体の横につけてガードするようになりますから、脇を狙うのも難しくなりますけどね」
エフライムの言葉はアレスに咀嚼し切れなくて、そのまま曖昧に頷く。それにエフライムも気づいたのだろう。くつくつと喉の奥で笑うような声が頭の上から響いてくる。
「今は分からなくても、そのうち理解できるときがきますよ。きちんと訓練していれば、見えてくるものなんです」
そういうものかと思いつつ、アレスはエフライムの言葉を頭の中で反芻した。黙ってしまったアレスに、エフライムも言葉は控えて馬を操ることに集中する。そのまま日暮れ近くまでアレスとエフライムは黙って馬に乗っていたのだった。
日が暮れ始めたころ、ようやくエフライムとアレスは馬を降りた。近くに川があるのか、水の流れる音がしている。
「今夜はここで野宿にしましょう。この木の下がいいですね。私は沢で水を汲んできますから、アレスはここで炊きつけに使えそうな小枝を集めてください。あまり奥に行ってはいけませんよ」
そう言い残すとエフライムは鍋を持って、水音がしている方に歩いて行ってしまった。一人残されたアレスは枝を集めはじめる。集め終わったころには、あたりはほとんど暗くなってしまっていた。心細さを感じながら、そのままエフライムを待っていると、真っ暗になったころに片手にたいまつをかざして、エフライムが戻ってきた。
暗闇の中で待っていたアレスに対して、エフライムは驚いた顔をした後に、納得したような顔になってにっこりと笑った。
「ああ、アレス…そうか。焚き火の作り方が分からなかったんですね。教えてあげましょう」
アレスは真っ赤になった。こんなことも自分は知らないということが恥ずかしかったのだ。それでもこの暗闇の中で、アレスの表情がエフライムに見えないことはありがたかった。
「いろいろな組み方があるんですけどね、私がよくやる方法を教えてあげましょうね」
エフライムが教えてくれたのは、真ん中に枯葉を入れて、そして枝どうしが高くなるように木を組んでいくやり方だった。ちょうど木で山を作ったような形になる。その脇には、大きい石を置いて、かまどになるように作りあげる。そうしておいてから、エフライムはたいまつで火をつけた。真ん中の枯葉に火がつき、枝に火がつき、少しくすぶった後に、火が少しずつ大きくなってきた。たいまつも焚き火の中に入れると、エフライムはアレスの方を向いた。
「お腹空いたでしょう? うまい具合に川で魚も取れたから、すぐ焼きますよ」
腰につるしてあった紐から魚がぶら下がっていた。エフライムは器用に、手近にあった木の枝にそれを刺すと、火のそばに立てた。そして、鍋を火にかける。ちょうど石と石の上に乗っける形で、火にかけることができた。その鍋の中に、エフライムが起用に干し肉をナイフで殺ぎ落としながら、入れていく。さらに持ってきた野菜をこれもまた器用に細切れにしていくと、鍋の中に落としていく。アレスはその様子を見ながら、エフライムに話しかけた。
「エフライムはどこで、こういうことを覚えたの?」
エフライムがナイフの動きを止めて、ちらりとアレスを見て答えた。
「軍隊ですよ。野営があって、こういうことは新米兵の仕事ですからね」
「そう…最初から近衛だったんじゃないんだ」
アレスは火を見た。エフライムは再びナイフを動かし始める。
「最初から近衛なんてとんでもない。あなたのお祖父様のときから、近衛は実力主義。戦場で戦って認められたものだけが所属できるんですよ。知りませんでしたか?」
アレスはその言葉にびっくりした。全然知らないことだった。その驚いた顔をちらりと見て、エフライムが続ける。
「私は農家の三男ですからね。邪魔だからって、軍に入れる年になると、すぐに入隊させられましたよ。なんどか国境付近の紛争に借り出されて、一生懸命戦っているうちに、ギルニデム様に認められて、近衛になったんです」
「へぇ」
アレスは素直に驚いていた。火に照らされたエフライムの横顔を見つめる。陰影がついて、まるで別人のように見えた。
一方エフライムはじっと自分の手を見ていた。するすると出てくる自分の生い立ち。しかしギルニデムに指摘された手。ああ、またやってしまったと思いつつ、自分の手を見ていた。多分、アレスは気がつかないだろう。
「国境付近の紛争とはいえ、戦いは戦いですからね。最初は怖かったですよ。みんなお互いを殺そうとしているわけでしょう? こっちも殺されないためとはいえ、やっぱり人を殺すのは嫌なものです。でもそうしないと生き延びられませんからね…」
思わず饒舌になり言わなくても良いことを喋っていることに、エフライムは自分で気づいた。気づかれないようにため息を吐き出す。用意した野菜を切り終わって、すべて鍋に落としてしまうと、ナイフの刃を上着の裾でぬぐってから、そっと鞘に戻した。そして塩を取り出すと二つまみほど鍋に入れ、そのまま炎を見ている。エフライムの言葉に、アレスも自分を殺そうとしにきた牢獄の人々のことを思い出していた。自分を見る目…思い出すうちに震えが走ってくる。
「アレス?」
がたがたと震え始めたアレスをエフライムが抱きしめた。
「すみません。嫌な話をしてしまいましたね。またあなたに思い出させてしまった。今日は二度目ですね」
エフライムは自分自身に心の中で舌打ちをする。自分も未熟者だ。アレスを怯えさせてどうするか。
「大丈夫ですよ。アレス。大丈夫。もう終わったことです。落ち着いて」
アレスの背中をなでてやる。少しずつ震えが収まっていくようだ。エフライムはそのままアレスの震えが止まるまで、背中をなで続けた。森の静かな中、遠くではふくろうの声がし、川辺からは水音が聞こえてくる。やがて、鍋のぐつぐつという音がし始めたころ、アレスの震えはようやく止まった。
「ごめんなさい」
アレスが恥ずかしそうに下を向いたまま呟く。
「駄目なの。いろいろ思い出すと、なんだか心がわーっとなっちゃって…」
「アレス…」
エフライムはアレスの頭にそっと手を置いた。
「あなたががんばっていることは、私も知っていますよ。大丈夫。誰でもあなたのようになりますよ。だから…」
エフライムはアレスの眼を見た。
「がんばらなくていいんですよ」
アレスはびっくりしたような顔をして、エフライムを見た。もっとがんばれと言われると思ったのに…。その視線を受けて、エフライムが頷く。
「泣きたいときは泣きなさい。思いっきり泣いてしまえばいいんですよ。思いっきり悲しんでいいんですよ。無理に抑えるのはおやめなさい」
アレスの視線に、エフライムが微かにはにかむような表情を見せた。
「もっともこれは、ルツア様…ルツアの受け売りですけどね」
その言葉を聞いたとたんに、アレスの中で何かが外れてしまった。どんどんエフライムの顔が涙でゆがんでいく。その後、しばらく森の中にアレスの泣き声が響いていた。
気づくと、エフライムはすっかり出来上がったスープを器に入れて、アレスの前に差し出していた。
「どうぞ。お腹が空いたでしょう?」
にっこりと微笑むエフライムから、器とスプーンを受け取ると、アレスは口をつける。思いっきり泣いてしまったら、お腹が空いていることを思い出した。エフライムはその横で、自分の分のスープを右手で持つと、左手で薄く二枚に切ったパンを差し出す。
「一枚はあなたの分ですよ」
アレスはスプーンを器に入れると、その薄いパンの一枚を受け取った。火を見ながら黙って食べていると、不思議と落ち着いてきた。ぽつりぽつりとアレスは話始める。
「僕ね、こういう経験ができて良かったと思うんだ」
エフライムが問うような視線でアレスの顔を見た。その理由を察して、アレスは無理に微笑んで見せる。
「こういうっていうのは、エフライムとかルツアとか皆に、いろいろ教えてもらう経験のこと」
エフライムは納得したような表情になって、また炎を眺めながらスープを口に運ぶ。その様子を見て、今度は本当に微笑んでアレスは続けた。
「だってね、普通にお父様の後で王様になったら、きっと火のおこし方も、かまどの作り方も、剣についても、全然覚えなかったと思うよ。いや、剣はやっていたかな? でも今みたいじゃないよね。きっとハウトやラオとも出会わなかったと思うんだ。エフライムともこんな風に話をしていなかったよね」
その言葉を聞いて、エフライムは苦笑する。
「そうでしょうね」
アレスは頷いて、エフライムを見る。横顔が焚き火に照らされていたが、微笑んでいたので、さっき別人のように感じたのとはまた違うエフライムがいる。
「だから、この経験は大事にしようって思うの」
エフライムがアレスの方を見た。そして首を振ってから言う。
「きっとブレイザレク卿は、とてもすごい方なのでしょうね」
「どういうこと?」
「だってね、あなたのその発想は、一般的に想像される王子様の発想じゃないですよ」
「そう?」
「もっと王子様っていうのは、プライドだけが高くて嫌なもんです。何とか卿とか、何とか公と言われるような、身分の高い人はみんなそうでしょうけどね」
「そんなものかな?」
「ええ。多分ね。でも、あなたは違う。だからね。きっとあなたを教育したブレイザレク卿は、かなり優秀な方だろうなと思うわけです」
バルドルのことを誉められて、アレスはなんとなく嬉しくなった。思わずにっこりしてしまう表情を隠したくて、火を見る。そんなアレスの姿をエフライムは穏やかな瞳で見守っていた。
「さあ、冷めないうちに食べてしまいましょう」
ささやかな夕食を食べ終わってしまうと、エフライムは鍋や器を近くの草できれいにして、馬にくくりつけた。そして毛布を広げて、二人して火の前で包まる。
「おやすみなさい」
アレスの声が耳元でしたかと思うと、しばらくすると寝息が聞こえてきた。よほど疲れていたのだろう。エフライムはアレスを起こさないように、そっと起き上がると、少なくなった薪を足してから、また毛布の中に入った。アレスの体温でそれは暖かくなっている。
「おやすみ。アレス。良い夢を」
そっとアレスに言って、自分も目を閉じた。




