第29話:頼む相手を考えてください、シオン!!
お手洗いで出し切りすっきりとしたアリアは、爽やかな表情で庭に戻ってきた。
(ふぅ、すっきり。トイレにも行けたし、場所も分かったし、全てすっきりした)
ほっと息を吐いた後、また大きく息を吸い込んで、肺いっぱいになるとゆっくりと吐いていった。朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、胸が空になるまで全てを吐き尽くしてアリアは新しい朝の空気をその胸で味わった。
胸で味わった後、今度は全身でも味わおうと顔を上げ、両手を精一杯に広げた。異世界の朝の冷たい風がアリアの身体を撫でていく。
「気持ちいい」
アリアの口から、思いがそのまま零れていた。
アリアは全身で風を感じながら、視線を庭全体に巡らした。
朝の陽ざしが差し込む庭は、まだ目覚めたばかりの植物たちが枝葉を揺らし、眠気覚ましに朝一の陽光を体一杯に浴びようとしているように見えた。
アリアは、思わずクスクスと小さく笑った。朝のホームで欠伸を噛み殺しながら、何とか目を覚まさせようと太陽の光を浴びている自分をそこから思い出した。
電車が来るまでにはある程度は眠気が覚めるが、一旦電車に乗り席に座ると電車から鳴る一定のリズムと揺れで結局、眠気が復活して、会社の最寄り駅近くまでだらしなく眠ってしまっていた。
草木もそうなのかと、風が吹くたびに鳴る葉擦れの音と枝葉の揺れを見つめながら、何とはなしに考えた。
夢中で庭を見つめていると、アリアの背中からシオンの声が聞こえた。
「お嬢様、お庭の景色に見惚れている所、失礼します。そろそろ、ランニングを始めませんか?ランニング後の諸々を考慮しますと、お時間が足りなくなってしまいます」
「そうね!ごめんね、シオン」
アリアは軽く謝ると、シオンに振り返った。そして、見上げたシオンはなぜか、にこやかに顔を綻ばせていた。
「どうかしたの、シオン?」
「いえ、何でもありません」
「?」
微笑むシオンが、そっとアリアに答えた。アリアはそれに疑問符を浮かべ、小首を傾げた。
シオンが、そんなアリアにまた、楽しそうに微笑した。
益々、アリアは混乱したが、聞いても答えてくれなさそうなので、きっぱりと諦めるとシオンに声を掛けた。
「もう、いいです!それでは、一緒に走りましょう、シオン!」
シオンの手を取り駆け出そうとした。
しかし、シオンがアリアの手を優しく掴むと、申し訳なさそうな表情で口を開いた。
「お嬢様、準備運動もせずに走り出すとお身体に怪我をしてしまいます。一旦、走ることを止めていただいて、シオンと一緒に準備運動をしましょうか」
シオンからの指摘を受けて、アリアの足が止まった。そして、うっかりそれを忘れていたアリアは、苦笑いを浮かべてシオンの顔を見た。
「ほほほ、そうよね。いや、忘れていたわけでは無いのですよ。シオンがちゃんとわたくしを見ているか気になって試したのですからね。忘れていませんからね」
「はいはい、そうですね。では、忘れていなかった偉いお嬢様、準備運動をしましょうね」
苦笑し、ニコリと笑いシオンがアリアにそう言った。
しかし、アリアは少し不機嫌そうに顔を顰めると、シオンを見つめ拗ねたように口を開いた。
「信じていませんね。いいですよ。良い子でとっても偉いこのアリアが、準備運動とは、かくあるものとして手本を見せて差し上げます」
そう言うとアリアは、シオンの前で学生の頃の記憶を思い出して準備運動を始めた。
シオンがそれを見て、あれっと訝り首を傾げた。
(お嬢様に準備運動を教えていましたっけ?)
怪訝な表情でアリアを見つめた。
しかし、アリアに「一緒にやらないのですか」と、寂しそうな瞳で呟かれると、すぐに頭からその疑念を追い出して、アリアの傍に慌てて駆け寄り、一緒に準備運動をしていった。アリアに対しては、全てにおいて激甘なシオンであった。
ストレッチも終えて準備万端のアリアは、走る前に自身のこの身体に感激していた。
男の時には全く曲がらなかった身体が、この身体になると膝下どころか地面に手が付いたのだ。その事に非常に感激して、何度も楽しそうに身体を折って地面に手が付く感動を味わった。シオンはそれを温かい目で、微笑みながら見守っていた。
しばらく、アリアが身体の柔軟性を夢中で楽しんでいると、視界の端にシオンが映った。
そのシオンは、まるで子供を見守る母親のように愛おしそうに微笑み、アリアを見つめていた。
その視線に気づき、急に恥ずかしくなったアリアは、顔を赤くして俯いた。
(しまった!!シオンがいることを忘れてた!どうする。完全に子供みたいだったぞ、俺!シオンが、愛しそうに俺の事を見てるぞ!ああ、折角の威厳が!ご令嬢のアリアとしての、威厳が無くなっていく)
頭の中で慌てふためくアリアは、赤く火照った顔を上げて、そっとシオンの様子を窺った。シオンがすぐにアリアの視線に気づき、尊敬の念が全くない、愛おしさのみが存在する目で、微笑み返してれた。アリアは、すぐに顔を下げた。
(ああああ、もう駄目だ。俺に全然、威厳なんて無くなっているよ!これじゃ、お母さんと娘だよ。シオンママとアリアちゃんだよ)
心中で嘆き、苦悩し、最後には頭を抱えたくなった。
(くそ!!何なってんだよ、さっきまでの俺!ああ、もう、こうなったら、白を切り通してやる)
覚悟を決めたアリアは、ゆっくりと顔を上げてシオンを見た。そして、真面目な表情を浮かべると、精一杯偉そうに踏ん反り返って声を掛けた。
「どうしたのかしら、シオン?わたくしは、少々身体の具合を確かめていただけですよ。決して、身体の柔軟性を楽しんでいた訳ではありません」
そこまで述べて、どうだ、とシオンを見上げた。
シオンが可笑しそうに笑い、一言アリアに呟いた。
「可愛らしかったですよ、お嬢様!!」
「~~~~~!!」
火照りを通り越して、火傷しそうなほどに熱くなった顔でシオンを恨みがましく睨んだ。
「シオン、忘れてください!あれは、気の迷いです!」
ムキになったアリアが、言葉強めにシオンに反論した。
それに、シオンは更に可笑しそうに笑った。
アリアはムキになってしまい気が付いていなかったが、自分からあれは楽しんでいたと自白したように口走っていた。
墓穴を掘ったことに気付いたのは、シオンが再び可笑しそうに笑ったのを見てからだった。
アリアは不貞腐れシオンから顔を背けると、素っ気なく言った。
「シオン、早くランニングに行くわよ」
シオンを置き去りにして、走って行った。
アリアの遠ざかっていく背中を嬉しく思いながら、シオンは追いかけていった。
(可愛らしいお嬢様と一緒にランニングを出来るなんて、今日は最高の日ですね。私の願いを叶えてくれてありがとうございます)
シオンは最高に幸せな笑顔を浮かべていた。
快調に飛ばしていたアリアであったが、100mを過ぎた辺りで突然息が上がり、足が重くなった。そして、そこから10mぐらいを走ったところでとうとう足が止まり、膝に手をついてしまった。
ぜはぜはと息を切らして地面を見つめる。
(ダメだ。おっさんに急な運動は無理だ。ハードル走が限界だ。ダメだ、身体が付いてこない)
だらしない自分自身に、アリアは心の中で弱音を吐いた。それから、顔を上げて、顔に貼りつく髪を乱暴に掻き揚げた。そして、隣にいるシオンを見つめて悔しそうな表情で口を開いた。
「はぁはぁ、シオン、ごめんね。ちょっと、体力が、足りないみたいで」
息も切れ切れに、アリアはそう声を掛けた。そして、少し息を整えた後に再び言葉を口にする。
「ダメね。折角の胸の為の、運動が全然出来ません」
胸の、の辺りだけ声を小さくして述べた。
顔に流れる汗を腕で豪快に拭い去ると、アリアは苦笑してシオンを見た。
「でもね。わたくしは、頑張りますよ。胸の為に」
最後の言葉だけを、非常に出来る限りの小さな声で呟いた。
シオンは、アリアの本当の目的を理解できないまま、感動してほろりと涙を零してアリアを見た。
「そうですよ、お嬢様。まだ始めたばかりです。これから、シオンと一緒に頑張っていきましょう」
そうアリアを激励した。
「そうよね、シオン。まだ初日ですよね。ここから頑張って行けばきっと!わたくしの胸も成長しますね」
またまた、最後のフレーズだけを極最小に声を潜めて紡いだ。シオンは、アリアの目的に一切気づけずに、アリアに感激して涙を流しながら、うんうんと大きく頷いていた。
(ハッピーエンドの為に、体型も完璧なものを目指しますよ。俺は詐欺はしないぜ。パットに頼らない天然物で、ゲームでのアリアの体型だけを目標にここから挫けずに頑張っていくぞ!!)
よっしゃー!と最後に心の中で吠えて、シオンの胸を憧憬の念を強く、強く、込めて見つめた。
シオンは、アリアの視線にすぐに気付くと、先程からぼそぼそと呟いていたアリアの言葉をようやく理解して、可笑しそうに笑った。
「私の所まで追いついてくださいね、お嬢様」
優しく語りかけ、アリアの頭を撫でた。しかし、それが勝者の余裕に感じられて、アリアがシオンに挑むような視線で見据えると声高に言い放った。
「後でその言葉を後悔させてあげます。わたくしは立派にお胸様を育て上げてみせますので、見ていなさい、シオン!!」
「はい!では、お嬢様のお傍で、シオンはその成長を見守らせてもらいますね」
ニコニコと微笑み、アリアの頭を撫でていった。
撫でられるアリアは、気持ちよさそうに表情を綻ばしていた。しかし、表情とは裏腹に、心の中では心配をしていた。
(大丈夫。きっと大丈夫。ちょっと、成長が遅れているだけだろ。あの夢のアリアも所詮は夢だ。現実のこの身体は、俺の期待に応えてくれるはずだ。努力すれば、きっとそのうち結果が付いてくる。頑張れよ、成長ホルモン!!)
アリアは心中で不安を零した後、最後に不安を晴らす意味で自分を鼓舞した。
シオンは、笑顔の裏に隠しているアリアの不安を瞳の揺らめきから感じ取り、そっと安心させるように一言だけ伝えた。
「大丈夫ですよ」
シオンの一言がすっと不安に揺れる胸に納まった。
アリアは改めて顔を上げてシオンを見た。すると、優しくアリアを見つめるシオンの顔が目に入った。何故だか分からないが、胸の揺れが収まった。
謎の安心感を胸に、アリアは「分かったわ」と呟き、もう一度前を向いて走り出したのだった。
またしばらく走ると息が上がり、アリアは膝に手をついて休んだ。
少しの時間休むと、息も落ち着きアリアは隣にいるシオンを見て口を開いた。
「シオン、今日はもうランニングは止めましょう」
「え!?あ、はい」
「残りはウォーキングにしませんか。このまま走ると、わたくしが死にそうです」
「か、畏まりました」
戸惑いを顔に露わして、シオンが了承する。
シオンの返事を聞いて顔を上げたアリアは、顔に掛かる髪を煩わしそうに掻き揚げた。
そして、歩き出そうとしたアリアにシオンが待ったと声を上げた。
「お嬢様、少々お待ちください」
「どうしました?」
「そのままですと、御髪が邪魔になりませんか?」
「そうね」
「では、シオンにお任せください」
アリアに声を掛けると、シオンはいつもの様にポケットから髪留めを取り出すと、アリアの後ろに回った。
「失礼します」
一言、お詫びを入れてアリアの髪をポニーテールに纏めた。
アリアは纏められた髪を確かめるように、頭を振ったり、飛び跳ねたりした。
先程まであった、髪が顔に掛かる煩わしさが無くなり、すっきりした顔でシオンを見据えた。
「すごいわ!髪を纏めると、こんなにも違うのね!」
思わずそう零すと、アリアは驚きと感激を表情に浮かべて、もう一度髪を振ったり、飛び跳ねたりして具合を確かめた。
(そうか、髪を纏めれば良かったのか。これで、髪がバサバサ鳴ったり、顔に当たったり、くっ付いたりしないな。はぁ、もっと早く気付ければ良かった。こういう所が、俺はまだまだダメな所なんだろうな)
うんうんと、頷き具合を確認し終えたアリアは、感想を待っているシオンを見据えて口を開いた。
「ありがとう、シオン。本当にさっぱりしたわ!流石ね、シオンは!!」
「ありがとうございます、お嬢様」
顔を綻ばせたシオンのお礼を聞き、アリアも同じように笑顔になると、「一緒に歩きましょう」と伝えようとシオンを見た時、あることに気付いた。
「あ!!」
「どうしました、お嬢様?」
「あ、驚かせてごめんね、シオン。いえ、ちょっと嬉しいことに気付きましてね」
「どの様な事に、お気付きになられたのですか」
シオンが真面目な顔で訊いてくる事に、アリアは思わずクスクスと可笑しそうに笑って問いかけた。
「シオン、わたくしを見て何か気づきませんか?」
「?」
シオンは、アリアの全身を足元からつま先まで真剣に眺めていった。
「申し訳ございません。シオンには、お嬢様がお尋ねになったことが分かりませんでした」
申し訳なく頭を下げるシオンに、しまったとアリアが悔いた。
「そんなに畏まらなくて良いのですよ。ただ、ちょっとしたクイズで訊ねただけですから。頭を上げて、シオン」
アリアが慌てて、声を掛けた。
「はい、お嬢様」と答えてシオンが頭を上げた。アリアは、ほっと1つ息を吐いた。
それから、もう一度シオンを見据えてアリアが訊ねた。
「では、ヒントを差し上げます。大ヒントですよ。わたくしの髪型を見て何か気付きませんか」
シオンは貰ったヒントを元に、目を凝らしてアリアの髪を凝視すると、「あっ!」とやっと得心がいった様子で声を上げた。
「そういう事ですか、お嬢様」
「シオン、分かりましたか」
「勿論です。シオンと髪型が同じですね」
「正解ですよ。シオンとお揃いです」
ふふ、と笑みを零すと、にっこりと笑顔を浮かべて、シオンを見た。
「何だか、シオンとの距離がまた縮まった気がします」
アリアは、憂いが少し晴れた明るい声色でそう声を掛けた。
「はい、そうですね、お嬢様」
シオンは、アリアの破顔した顔をしみじみと見つめて、嬉しさをたっぷりと言葉に込めてそう口にした。
シオンとアリアは、互いに顔を見合わせると朝のウォーキングを始めたのだった。
アリアは、ランニングでは走りに夢中で周りの景色を楽しむ余裕がなかったが、ウォーキングに変えたことで、朝の庭の景色を堪能できる余裕が生まれた。
お屋敷に訪れた者を最初に受け入れる前庭、廊下を歩くと見える裏庭、更にお屋敷の窓からは見えない敷地内の端、その全てで違った顔色を持つ草花がアリアを迎えてくれた。
どこも手抜かりなく綺麗に整えられており、庭師の凄さを身をもって今、アリアは感じていた。
(こんなにゆったりした朝を過ごしたのは、いつ以来だろうな)
そう心中で思いを呟き、一昨日までの多忙なゆとりとは一切縁のなかった前の男の人生を振り返った。
ブラックからグレーへと転職をして、少しだけ職場環境が改善されたが、それでもゆとりというものを余り持てなかった、きつい日々を脳裏で思い出していった。
しかし、そうした日々の中で、少しのゆとりを与えてくれたギャルゲーの世界に、今こうして悪役令嬢になって立っている奇縁に、感慨深さを感じた。
男からアリアへと戻して、憂鬱な思いを脳裏から追い出した。
アリアは、彩り豊かな目の前の景色を目に収めて、前の自分に対しての優位性を心の中で呟いた。
(俺はもう色がある現実を見ているぞ)
自嘲と共に、その言葉も脳裏から追い出して、心地よい朝日を浴びて今日から始める朝の日課に意識を戻していった。
ご機嫌なシオンは、隣で歩くアリアを微笑ましく見守る。
お屋敷に籠り気味だったアリアが、こうして自主的に外に出るなど久しくなかったので、シオンはアリアの前向きな心境の変化を喜ばしく捉えて、静かに微笑んでいた。
アリアと一緒にするウォーキングは、シオンにこれまでにない充実感を与えていた。いつまでもこうしていたいと思う気持ちが心に生まれてきた。
シオンは、満ち足りた思いで目の前の景色をアリアと共に見てみると、彩度が上がった美しい景色として目に映すことが出来た。
(お嬢様といるだけで、色彩がこんなにも違うとは思いませんでした)
くすっと小さく笑みを零し、アリアを瞳に映した。
昨日よりも明るい顔色のアリアを見られて、シオンは堪らない程の満足感を得られた。
アリアをじっと見つめていると、少し気になることが不意にシオンの中に浮かび上がった。先程のアリアとした会話に、考えが引かれたのだろうか。
視線をアリアの胸に向け、心の中でひっそりと考えた。
(お嬢様もそろそろお年頃ですから、胸を保護する為にもブラジャーをおすすめした方が宜しいのでしょうかね。いくら成長が遅いとはいえ、今年のお誕生日で13歳になりますしね。擦れてしまわれ、赤くなってしまうかもしれませんし、痛みや痒みを引き起こす可能性だってあります。どうしましょうかね)
視線を胸から顔に向けて、どうすればよいかシオンは思い悩む。
(ですが、こういう繊細なことは私ではなく、お嬢様のお母様に申してもらわれた方がよろしいのですかね。一応、後でその辺りも奥様にだけ相談させてもらいましょうか)
そう決めて、シオンは優しく見つめた。
そして、アリアは先程から何となくシオンに胸を見られている気がして、窺うように横目で見てみた。シオンが、真剣な表情で悩みながらアリアの胸を見ている様子を捉えた。
(何だ?成長が著しいわたくしの胸を憐れんでいるようでも無いな。あれは、何かを心配したような視線だな。はっ!?まさか!?)
アリアは、胸の内に生まれた最悪を抱いた不安な表情でシオンに問いかけた。
「シオン、どうしてわたくしの胸を見ているのですか?」
「!?い、いや、そのですね。どうすれば最善な結果が得られるかを悩んでいまして」
歯切れの悪い調子でシオンが答えた。
シオンの曖昧な発言から、アリアの中に不安が更に募っていく。
何とか平静を保とうと、ぐっと不安を押し込めて、普通に話そうとした。
「遠慮など要りませんよ、シオン。このように成長の兆しが全く見られないのは、わたくしが病気なのだからですよね。シオンはどうすればわたくしがショックを受けずに、受け入れることが出来るかを苦心してくださっているのですよね。大丈夫ですよ。既に、この身になった時から覚悟はしていました。破滅についてのね。早く、スパッとはっきり仰ってください。実はガンがあると。成長ですから、ホルモンですよね。成長ホルモンといえば、脳下垂体ですよね。そこに手遅れな程の大きさの腫瘍あると、余命が幾ばくも無いと、はっきりと言ってください、シオン!」
アリアは、いざ突き付けられると受け入れ難い現実に、堪えることが出来ずに涙を瞳から溢れさせて、普通とはかけ離れた昂揚した声色でシオンに詰問していた。
シオンは、そんなアリアを見て、ここまでの不安を与えてしまった己の曖昧な返答に後悔した。この年の少女にどれ程の不安を与えてしまったかを考えると、自分の安易な考えの下に返した曖昧な返答に、胸が締め付けられる苦しみを感じた。
シオンは、アリアの傍に屈むとアリアの目線に顔を合わせた。
「落ち着いてください、お嬢様。シオンは、お嬢様がご病気だからと言い淀んだ訳ではありません」
シオンの声を聞いて、そっと顔を上げてその滲んだ視界に申し訳なさそうな己を責める表情を捉えた。
「それ、では、わたくし、に、な、にが、あるの、ですか」
引き攣り震える声で、どうにか音を絞り出したアリアは、シオンを見つめた。
「申し訳ございません、お嬢様。不安にさせてしまったシオンを許してください」
ぎゅっとアリアを胸に抱きしめて謝罪をした後に、シオンはアリアを正面に見据えて不安を煽らないように心がけて、落ち着いた声で丁寧に答えていった。
「落ち着いてお聞きください。今のお嬢様には、何もお身体に問題はありません。ご安心ください」
シオンの答えを聞いて、アリアはいつの間にか握りしめていた拳から力が抜けていった。
そして、安堵したアリアは、ようやくシオンを見据えることが出来、続きの話に耳を傾けていった。
シオンは、アリアの不安が和らいだことを雰囲気から察してほっと息を1つ吐くと、引き続きしっかりとアリアに言葉を届ける思いで口を開いていった。
「シオンがお嬢様にお伝えしたいと考えた事は、・・・ブラジャーの事です。お嬢様もそろそろお年頃ですので、必要になるものです。今は特に、ブラジャーが無くても不調を来したご様子はありませんが、その内トップと全体が成長なさいますと、胸全体を守るためにも必ず必要になります。ですので、今のうちに慣れてもらいとの思い出で、今の肌着の一つ上の胸の部分にパッドのついた肌着か、ホックで止めない肌着と同じように身に付けられるブラジャーをご着用して頂けないかと、勧めようと致しました」
アリアはその話を聞きポカンとして、シオンを無意識に見つめた。
「どう致しましょうか、お嬢様。シオンはお嬢様の御意志を、今は、尊重させて貰います」
アリアの瞳から涙が引き、先程まであった強い不満も跡形もなく消え失せた。だが、逆に新たに羞恥心と戸惑いが生まれて、シオンをまた見据えていた。
(ブ、ブ、ブラジャーだって!ど、ど、どうすればいいんだ。こんな事まで考えた事が無かった。しなければならない物なのか?)
アリアは、戸惑い気味にシオンに訊いた。自身のアイデンティティの喪失に、焦りにも似た当惑を抱いて、必死の思いで訊ねたのだった。
「わたくしにも、必要な物なのでしょうか?」
「はい、必ず必要になるものです」
「今のままなら、必要ないのですよね!」
「いいえ、お嬢様の大切な胸を守るためにも必要になります」
「本当に必要ですか!?」
「勿論、必要ですよ、アリアお嬢様」
困惑してアリアが言葉に詰まると、シオンが優しくアリアに声を掛けた。
「落ち着いてください。シオンは、今はお嬢様の気持ちを尊重します」
「本当ですか!でしたら、まだ待ってもらえるかしら、シオン?」
「はい、畏まりました、お嬢様」
シオンの返事を聞いてほっとしていたアリアは、次に続くシオンの言葉を聞き洩らしていた。
「しかし、胸が擦れる痛みなどや、膨らみを帯びてきた場合には、問答無用でご着用願いますからね」
シオンの言葉を聞き洩らしたアリアは、「よかった。まだ付けないで済むぞ!」と1人で喜んでいた。
そして、「このままで平原でもいいからね」と余計な一言を追加したのが悪かったのか、憤りを覚えたかどうかは定かではないが、後にアリアの胸が反発するようにほんのちょっぴり成長してしまい、シオンに本当に問答無用でブラジャーを付けられることをこの時のアリアは、考えもしていなかった。
そんな付ける付けないのアリアにとっての初めての談義を終えた後、シオンは徐に懐から時計を取り出して、時間を確認した。時計の針が7時を少し過ぎた辺りを指していた。
もう少しこうして、アリアとの散歩を楽しみたい思いに後ろ髪を引かれながらも、それを振り払って、迷いない瞳でアリアを見据えて口を開いた。
「お嬢様、お時間となりました。今日はここまでにして、お屋敷へとお戻りになりませんか?」
「あれ、もうそんなに時間が経っていたのね。分かったわ、シオン。また明日の楽しみにして、上がりましょう」
「ありがとうございます、お嬢様。では、お屋敷に帰りましょうか」
「うん、そうね。でも、ごめんなさい。わたくしのせいで、ほとんどランニングもウォーキングも出来ませんでしたよね」
朝起きてからの浅はかな自分の行動と、突然のシオンからのアイデンティティの喪失の話などで、戸惑ったり悲しんだりで時間を潰してしまった事を悔いて、アリアは気分を落として謝った。
シオンはそれを敏感に感じ取り、柔らかに微笑んで優しくアリアに語り掛けた。
「気にしないで下さい。たった1日ですよ。今日は失敗してしまったかもしれませんが、明日は今日の失敗の分を取り戻す気持ちで楽しめば良いのですよ。ね、アリアお嬢様」
俯けていた顔を上げてシオンを見た後、アリアは気持ちを切り替えて強かに頷いた。
「そうよね。うん。まだ1日だけ。シオンの言う通り、明日はもっと今日の分まで満喫してやりましょうね」
破顔するアリアに釣られてシオンも笑顔になると、恭しく頭を下げた。
「畏まりました、アリアお嬢様」
重苦しさを感じさせる挙措であったが、一切それが感じられない楽しげな礼であった。
それを見たアリアは「よろしくね」と返事をした後、シオンと一緒にお屋敷へと向かい歩いていった。
その途中に、髪と同じ煩わしさを感じていた服装についてのお願いをシオンに頼んでみることにした。
「ねえ、シオン。お願いがあるのですが、宜しいかしら」
「はい、何なりとお申し付けください、アリアお嬢様」
快く促してくれるシオンに、躊躇い気味に口を開いていった。
「お洋服がほしいのですが、いいかしら?」
「お洋服ですか?」
「そうです」
そこで一旦言葉を止めてアリアは、考えた。
(この世界に、ジャージなんてあるのか。なかったら、偽物疑惑の種が生まれそうで怖いんだけど、どうするべきか。でも、学園があるなら、体操服ぐらい存在してるだろう。だったら、無難な説明で頼めばいいか。よし!)
一度息を吸って気を落ち着かせると、シオンを見据えて覚悟を決めてお願いを口にした。
「この服装だと動き辛いので、何か運動に適したお洋服が欲しいのです。ダメでしょうか、シオン?」
アリアの躊躇い気味にシオンを見上げる姿に、グサッと何かが急所に刺さったシオンが数歩後退ると、突然歩みを止めた。そして、方向転換してアリアの方を向くと同時に、アリアを胸に抱き締めた。
「お嬢様の仰ることに否などとシオンは、言えませんよ!勿論、大丈夫です!」
シオンはアリアを胸から離すと、アリアの服の発注から到着までの過程を1人思考していった。
「すぐにでも、手配して、明日には、いや今日中に届くようにしなければ。いや待って、届くようでは、配送してくださる方を急き立てているみたいで、ご迷惑を掛けてしまいますね。そうですね、私が今日の午後にでも、街までひとっ走りして、出来上がったお嬢様のお洋服を取りに行けば済みます。そうと決まれば」
何かすごい勢いで捲し立てると、シオンは「ちょっと待っていてくださいね、お嬢様」と声を掛けると、どこかに走り去っていった。
残されたアリアは呆然として、シオンが消えていった方向を見ていた。
そして、しばらくすると、大きな仕事をやり遂げたと言わんばかりの達成感を表情にありありと表したシオンが帰ってきた。
アリアの下に着くと開口一番、頭を下げてお願いを口にした。
「お嬢様、お願いがございます。本日の午後にお暇を頂戴出来ませんか」
「え!?」
「シオンにはどうしてもやり遂げなければならない、命の次に大事な使命が出来ました」
「え!?え!?」
「明日の、はあ、はあ、朝のお嬢様の晴れ姿を、じっとりねっとりと愛でる、・・・いや、何でもありません、忘れてください。お嬢様の大切な願いを叶えるために、午後の間に仕立屋に行って参ります。そして、明日の朝の私の為に、・・・、ん、う、ううん。明日の朝のお嬢様の運動の為に死してでも、至高の逸品をお持ち帰り致します」
アリアは困惑を消し去り、蔑んだ視線でシオンという変態メイド見据えた。
アリアからの冷ややかな視線を受けて少しだけ興奮した変態メイドが、恍惚とした表情でもう一度、お願いした。
「どうでしょうか、お嬢様。午後の間だけ、お暇を頂けませんか?」
半歩後退ったアリアが、ぎこちなく愛想笑いを浮かべて、引き気味に頷いた。
「良いわよ」
素っ気なく答えた。
「ありがとうございます、アリアお嬢様。たとえ道中に、盗賊団が出ようと全て完膚なきまでに蹴散らして、シオンがお嬢様にお召し物をお届けいたしますね」
シオンが異常なやる気を瞳になみなみと湛えて、高らかに宣言した。
シオンの潔さに蔑みも呆気も超えて、笑うしか出来なくなったアリアが、小さく笑いながら気になったことをシオンに注意した。
「死んではダメですよ。もう、シオンにならわたくしがどう見られようがいいですが、絶対に無事に帰って来て、お洋服をわたくしに届けてくださいね。そうしたら、その時にシオンの為だけに、ファッションショーをしてあげますね」
この時の安易な約束が、後々の悲劇を招くことをアリアは、まだ知らなかった。シオンが誰に頼んで注文をさせていたのかを、アリアは考えなければなれなかった。
シオンが急ぎで丁度見つけた、アリアの天敵の復活したばかりのタスキに頼んでいたとは露程もアリアは知らなかった。
特殊な性癖を持つ彼にシオンが「運動に適した至高の逸品を頼んでおきなさい」と命じれば、彼がどのような服を頼むかなど彼の思考回路を思えば自明の理であった。
彼は、薄笑いを内心で浮かべるとそれをおくびにも出さずに、完璧な所作でシオンの命を承ると、彼とアリアが元居た世界の彼にとっての運動に適した至高の逸品を、嬉々として想起するとそれを仕立屋に情熱的に頼んだのであった。
シオンはアリアの約束だけを都合よく受け取ると、人生史上最高の笑顔を満面に浮かべて、頭を下げた。
「畏まりました、お嬢様。必ず無事に夕方には帰ってきます」
シオンは敬意を込めて答えると、アリアをひょいと持ち上げてお姫様抱っこして、軽やかな足取りでお屋敷に帰っていった。
シオンに突然お姫様抱っこされたアリアは、浮かれた様子のシオンを見据えると、心中で非常に悔いた。
(俺は、選択を間違えたのか)
後悔先に立たず、そんなことわざが唐突に意識外から上がってきた。ある意味の破滅を示唆する虫の知らせに、この時気付けていたらアリアはある意味での破滅エンドを回避できていたかもしれなかった。
アリアはシオンの腕の中で悩みながら、再びの羞恥プレイを十分に堪能して、汗を流すためのお風呂へと向かって行くのであった。




